見出し画像

挿絵小説『ラッキーボーイ』第11話

「列車事故」

ああ、なんということでしょう。この作品が映画化されても、JR各社がスポンサーに付いてくれるのは不可能になりました。だって列車事故ですよ!……それはさておき、前回上野駅構内のカフェで、二杯目のパフェを頼むかどうか迷っていた翔子さんは、激しい衝突音に驚いて構内の通路に出ました。すると立ち込める煙の中からたくさんの人たちが逃げて来たのでしたね。そして翔子さんは、老夫婦を心配して、危険を承知で事故のあった方向へ駆け出しました。

幸い煙は呼吸ができないほどではありません。翔子さんはホームの階段を駆け上がりました。そこで見た光景は、とても挿絵には描けないまさに地獄絵図です。筆舌に尽くしがたいとはまさにこのことでしょう。列車の車両は連結部分で折れ曲がってジャバラのように積み重なっております。車両自体も変形したりペチャンコに潰れたり、原形をとどめていないほど粉々になっております。事故を起こした列車は、その装飾からオリオン号とわかります。オーマイゴッド! 神様仏様お袋様! 満さんと純子さんはどうなったのでしょうか? 気になるところですが、翔子さんはあの老夫婦がこの中にいると思って足がわなわなと震えております。ところがそこで、翔子さんの後方斜め横の物陰から声がしました。「あなた、どうしてここへ?」誰の声でしょう。振り向くと、あの老夫婦ではありませんか。夫は足を怪我してへたり込み、その隣で夫人は夫にしがみつくように座り込んでいます。「大丈夫ですか!?」翔子さんは安堵のため息をつきました。しかし、この事故でよく無事でしたね。実は旦那さんが大好物のゆでたまごを売店で買い忘れてしまい、発車ギリギリなのにゆでたまごを買おうと列車から降りてしまったのです。夫人は呼び戻そうと下車して一緒に乗り遅れてしまったのでした。不幸中の幸いとはまさにこのことです。夫は事故に驚いて、つまずいて怪我をしただけでした。これは偶然なのでしょうか。何か神の采配による大きな力を感じます。

「車内に人が取り残されているの。助けてあげて」と老婦人は申します。翔子さんは「はい、見てみます」と答えました。救助隊の到着を待った方が良いのではないでしょうか。危険ですよ。ところが翔子さんは何かに憑かれたように原形をとどめていない潰れた列車の塊に近づいて行きました。すると、今まで気づきませんでしたが、翔子さんから見てちょうど列車が死角になって見えていなかったところに人の姿がありました。なんとそこにいたのは潰れた列車を呆然と見つめる哲也君と松井さんです。二人も突然現れた翔子さんを見て驚いております。「哲也さんがどうしてここに!?」それはそうです。彼女は何も知りません。彼女は知りたくない現実を哲也君の口から聞くことになります。「それが……オリオン号の……中に……」おっと失礼。哲也君は泣きながら話すので、何を言っているのかさっぱり伝わりません。代わりに松井さんが説明しました。「オリオン号が出発して、ホームを出たところで、進行方向からやって来た回送電車が、スピードを出したままオリオン号に突っ込んだンだ……哲也君のお父さんとお母さんが、先頭車両に乗っていたンだが……」そこで松井さんも、無念そうな表情を浮かべて言葉に詰まりました。翔子さんもショックです。先頭車両は完全に潰れてしまって、原形をとどめておりません。五年もねばってようやく予約ができた列車の旅だったのに。行先は札幌から賽の河原に変更になりました。

しかし、しかしです。翔子さんはハッと何かに気づいた顔をすると、ボストンバックからスケッチブックと鉛筆を取り出しました。何ということでしょう。彼女は運命にあらがうつもりなのです。果たしてそんなことができるのでしょうか? 満さんと純子さんがもし生き返ったとしても、彼らはスクラップになったグチャグチャな列車の中です。それはやるだけ寿命の無駄使いというものです。しかし、翔子さんは鉛筆をしっかりと握りしめました。そして二人に向かって言います。「離れてください、危ないですから」勘のいい松井さんは彼女がこれから行おうとしていることを察知したようです。「本気なのか?」松井さんは真剣な目で翔子さんを見ます。「死んでしまうぞ!」翔子さんは一歩も引く様子がありません。松井さんは、その覚悟が恐ろしくもありましたが、彼女を止めることはできないと思いました。哲也君は頭の中のハテナ?が声になって「何? 何? 何?」と連発しております。しかし、松井さんに肩を抱かれるようにして列車から離れると、ようやく一人列車のそばに残った翔子さんが何をしようとしているのか気が付きました。彼女は満さんと純子さんを生き返らせるためには、オリオン号ごと元に戻さなければだめだと思っているのです。なんて人ですか、翔子さん。しかしそんなことができるのかどうか、彼女にもやってみなければわかりません。「翔子さん、やめろ!!」哲也君は駆け出して彼女を止めようとしますが、松井さんに止められました。力いっぱい抵抗しようとしても、剣道で鍛えた松井さんの力にはかないません。

翔子さんはスクラップのような列車の塊をじっと見すえています。描き切れずにスケッチが途切れたまま寿命が尽きれば、満さんと純子さんが生き返る保証はありません。いかに素早く描くかが勝負です。翔子さんは完全に死ぬ覚悟です。何か他に解決する手はないのでしょうか。残念ながらそんな夢のような解決策はありません。人は何かを得ようとすると、何かを失うのです。それが定めです。翔子さんは、すばやくスケッチブックの上に、軽く当たりを取るよう列車の塊の輪郭を描くと、ほとんど線を往復させずに、的確に列車を描きました。それは時間にして十五秒ぐらいでしょうか。そこまで描いたところで、手から鉛筆がポロリと地面に落ちて転がりました。翔子さんは風船がしぼむように、シワクチャになりながら縮んで、六十歳、七十歳、八十歳、九十歳、百歳、百十歳と外見を変化させながらバタッと倒れて絶命しました。松井さんはまなじりを決したまま、彼女の最期を見届けましたが、哲也君は泣き崩れました。そして……そこから三十秒ほど経ったでしょうか、スクラップと化しているオリオン号の全体から、ギシギシと金属のこすれ合う音がしたと思うと、それが段々と大きくなり、やがて大編成のオーケストラがチューニングをするかのように大音響になりました。潰れた列車は巨大な見えない神の手によって操られているように動き始め、へこんだ部分が膨らんで、凸凹だった車両の表面は平らになって行きます。ジャバラのように折りたたまれた列車全体は、レールの上に吸いつくように元の直線の形に戻りました。オリオン号は生き物のように動き、そして全てが元の姿へと戻ると、静かにまた無機物に戻りました。

哲也君と松井さんは呆然とそれを目に焼き付けるように見ています。全ては翔子さんの命と引き換えに起こった奇跡です。哲也君は百十歳の翔子さんに近づき、体を起こすとしっかりと抱きしめました。元に戻った列車のドアが静かに開くと、満さんと純子さんが不思議なものを見るようなポカンとした顔で出てきました。翔子さんはやり遂げたのです。自分の命と引き換えに。ああ、あなたはなんて素晴らしい人なンだ! しかし彼女はもういません。私たちは忘れません。神崎翔子という、陽の当たらない道を自ら選んで生きた人のことを……。

つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?