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上妻世海著『制作へ』

上妻世海著『制作へ』(エクリ2018)を読みました。ツイッター上は絶賛の声が多数。これは楽しみだぞ、と思って手に取りました。いやぁ、ところがどっこい、読めども読めども、何が書いてあるのか理解できない。基本的に長文の引用があり、それに対するテキストがあり、そしてまた引用。引用を解説するための引用まであり。引用元にも独自の文脈があるはずですが、そこまでは分かりようがなく、その説明にさらに引用では、もはやカオス。これは地獄だ……。だいたい、ここで読み続けるのを断念した人は「表紙がカッコいい!」「デザインが素敵!」とツイートすることになるのでは、と推測します。

でも、ここで負けてたまるか、と読み進むとインタビューにたどり着きます。おお、これは分かりやすい。ありがとうッ、と、この世にインタビューという存在があることに感謝。

その後も、この一進一退は続くのですが、振り返ると第1章が一番意味が取れない感じなので、これは上妻世海界へ降りていくための踏み絵、もしくはイニシエーションとして設定されているのではないかとも思いました(実際にそんなことはないでしょうが)。

専門用語が多いので難解かと言えば、そうでもない気がします。確か著者は現代美術のキュレーター。そして、僕は現代美術家。一応、この世で一番フィットしているはず。著者は多領域を自由に横断するタイプのようなので、それでいろんな専門用語が入り混じっているのか? でも、何となく、そうとも言い難い気が……。

しかしながら、よぉーく読むと、要は近代的な社会が進むとカテゴリーが曖昧になり、そこでは単純な消費ということが不可能になる。その曖昧さから、何かしらの形を取り出すためには、制作という過程が必要になる、ということでしょうか。あくまで個人の読み解きですが。

つまり、いま世界は、その混沌とした曖昧さの中に移行しつつあるわけですが、もしかしたら著者は一足先にその世界に入り込んで、自ら制作を実践しているのではないでしょうか。ホリエモンが10年先を生きているのと同じ感じで。要はカテゴリーを横断しているのではなく、すでにカテゴリーのない世界に生きている……。まあ、全部個人的な制作的仮説です。

でも僕個人は、近代になって様々なカテゴリーに分かれたものが、少しづつ融合していくのではないかと思っているので、考え方は近いと言えば近い(僭越ですが)。そして、僕が昔、熱中して読んでいて、今では誰も触れることがない山口昌男の名前が出てきたのが、すごく嬉しかったです。

これは、直接話しを聞けばもっと理解できるかもしれない……。と、言うわけで、京都岡崎蔦屋書店のトークイベントに参加いたします。楽しみです!

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