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3月ですね。

3月ですね。2月の制作はF30号が1点、P10号が1点、P8号が2点でした。P8号の歌麿2点は、次回の日韓交流展のために制作しました。

 先月はFacebookのアカウントを作り直し、友達申請をやり直させていただきました。皆さんに、お手間をとらせて申し訳ありませんでした。いろいろあって作り直したのですが、いろいろあるのが人生なので、これも人生の一部ですよね。やり直しが利く人生は素晴らしい。

 さて、超個人的な意見ですが、昨今、美術界を含めて、経験価値が尊ばれています。その中でも、インスタレーションは、鑑賞者の経験に訴える代表です。僕もキャリアの前半はインスタレーションとパフォーマンスをメインの表現にしていました。でも、今は主にキャンバス絵画をメインに制作しています。

 僕が表現を変えたのには、明確な理由があります。僕も美術家の端くれなので、先達の美術家のように歴史に名を刻みたいという欲望があります。作品を歴史化するのが一つの目標です。この時の歴史化、体系化は、経験価値とは真反対の概念です。経験は個人の内的な問題なので、その経験者が亡くなれば、経験も無くなりますから。

 歴史は、歴史家が解釈を加えて、単なる事実を歴史的事実に変える行為です。だから歴史家の知らない事実は歴史に成りようがありません。ただし、美術史に関しては、作品が残っている限り、経験は反復可能です。これは美術の強みのような気がします。

 経験的価値を重視した、僕のキャリア初期の作品はもうこの世に存在しません。その時は全力を出し切って制作、展示をしましたが、存在の周縁性ゆえに、美術史家の記述の素材にはなりませんでした。

 なので、今の僕の活動の必要条件は、刹那な経験価値に頼らず、存在するだけで、何かの美術的オーラを備えた“残る”作品を作ることです……。
 もう一つ加えるなら、現代美術の定義とは矛盾しますが、文脈に依存しないと言うのも、必要条件です。

 歴史を見ると、文脈は上書きされて、変質するものだと、僕は思っています。着彩された古代ギリシャ彫刻を、誰も見たいと思わないのが例です。特に僕のような美術界の周縁に存在している美術家が文脈や経験価値に頼ることは、歴史化を自ら拒絶しているようなものです。それはそれで潔い態度ですが、それは文化の中心でギリギリ可能かも知れない行為だと思います……。

#アートの思考過程

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