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7月ですね。

7月ですね。6月の制作はP20号、P10号、F6号、それぞれが1点づつの、3点でした。昨年9月の個展以降に描いたのは24点です。これで、今回の個展に臨みます。

(以下、音楽と美術の話が混ざって、わかりにくいですが……)

さて、最近、山下達郎さんが新譜を出したので、その発言を、メディアなどでよく目にします。その中で興味深いものがありました。それは、歌唱のとき、独特のニュアンスの歌い方になるのは何故か、という問いの答えが、ロックに日本語を乗せようとした結果というものでした。

音楽の完全素人にとって、歌謡曲には日本語が乗って、ロックには乗りにくいという、その違いは、よくわからないのですが、ロックを出来るだけ咀嚼せず、生な形で受け入れようとすると、日本語の歌詞は、フィットしないので、歌唱法で辻褄を合わせる、というのは想像ができます。同世代の矢沢さん、桑田さん、井上さんとかも、歌唱法は独特ですよね(素直に歌っていない感じ)。

で、音楽に起こったことは、美術にも起こっているという説に、僕は魅力を感じるのですけれど、どうでしょう?……美術における、ロック、歌謡曲、フォーク、クラシック等々(の受容)は、何にどう当てはまるのでしょうか? 

そんなものはない!……と言うのが、答えかもわかりませんが、まあ、仮説として考えるならば、日本人が現代美術を試みる時に、息を吸うようにできたら、歌謡曲かフォーク(スタイルの模倣)で、凄い訓練が必要なら(でも解は始めから用意されている)クラシック。そして、そもそも、日本人に現代美術は可能なのか?という疑問から始まるのがロック、という感じでしょうか。ロックもスタイルの模倣と言えば模倣ですが、咀嚼しすぎて、ロック味が無くなると、輝きが失われてしまいます。その意味では(あいみょんも歌っているように)イケてるロックは聴く人を選ぶみたいに、イケてる現代美術も鑑賞する人を選ぶのかもわかりません。

では、ロックに『日本語を乗せる』行為とは、美術の何に相当するのでしょうか?その辺りは、何かの核心のように思えますが、そこを問題にしないのが、近年の日本の現代美術の歌謡曲化問題ではないかと、個人的に思います。

現代美術はインターナショナルだから、とにかく手を動かして作ればいいんだよ!と反論されそうですが、それはやっぱりロックではなく、歌謡曲ですよね。

一応、現代美術家と名乗っている以上、『日本人に現代美術は可能なのか?』という(ロックのような)原点を視野に入れながら、新しい表現にチャレンジしないと、簡単に美術の歌謡曲化という暗黒面に取り込まれてしまう気がします(そこまで個人的に、歌謡曲に恨みがあるわけではありませんが……)。

#アートの思考過程


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