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読書

長谷川宏著『新しいヘーゲル』(講談社現代新書/1997)を読みました。西洋を理解するには、カントとヘーゲルを抜きには語れないっぽいのですが、ヘーゲルなど、まともに読んでわかるハズもないので、今まで入門書すら敬遠していました。でも、この本がわかりやすいというのを小耳に挟んだので、今回、読んだ次第です。

結論から言えば、これでヘーゲルを正しく理解したとは思いませんが、本自体は大変面白かったです。著者はヘーゲルの魅力を伝えるために書いたそうですが、それは伝わりました。やはり、ヘーゲルを知らないと西洋を理解したと言えない、という噂は本当のようです、たぶん…。

で、内容は多岐にわたるのですが、ヘーゲルに限らず、近代についての話も多くあり、僕の作品のテーマにかぶる内容で、たいへん興味深かったです。

例えば、日本は明治になって、西洋を近代化のお手本として、物質面、制度面、精神面で、いろいろ取り入れたのですが、物質面と制度面は、なんとか吸収消化できても、精神面は消化できない、という指摘です。その理由は、西洋近代の精神は、個人が(神というお手本から)自立して、主体的に生きることです。つまり、お手本通りに生きてゆくこと自体が、近代的な精神に反するわけです。なるほど海外で、この期に及んで、まだマスクを着けないと言い張っている人は、自分のことは自分で決めるという、筋金入りの近代的な精神の持ち主なのですね。

もう一つ。ヘーゲルにとって、人間の精神が一番重要なのですが、その精神に見合う完璧な芸術は、古代ギリシャの彫刻らしいです。そして逆に、キリスト受難図などの表現は醜くいので、芸術の理想からは逸脱しています。しかし、その醜さは、精神の内面的な深まりの証です。

……と、ここを読んで思ったのですが、宗教美術は信仰という用途はありましたが、端的に言ってコンセプチャルですよね。なぜなら、神をイメージすることは、概念的な思考の作業ですから。ということは、人類が延々と表現してきた造形は、基本的にコンセプチャルと言えませんか?そしてそこから、脱コンセプチャルを果たしたのは、たぶん「天使は見えないから描かない」と言ったクールベあたりでしょうか。そして、その50年後ぐらいにデュシャンが登場します。

宗教美術と現代美術は、もちろん文脈が違いますが、単純な現実の再現ではない、という意味では、似ていますよね。

#アートの思考過程

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