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挿絵小説『ラッキーボーイ』第12話(最終話)

「復活」

葬儀場の一番小さな会場に、神崎家の案内板がありました。神崎は翔子さんの苗字ですね。彼女は身寄りもなく、交友関係のある知人友人もほとんどいませんでしたから、弔問する人もいません。その割には豪華な祭壇が設えられていましたが、もちろんこれは命を助けてもらった、満さんと純子さんの感謝の気持ちの現れでした。その祭壇の前に哲也君が一人でポツンと座っております。先ほどまで満さん、純子さん、松井さんも一緒にいたのですが、手持ちぶさたになったのか、お茶をしに席を離れています。

哲也君の頭の中は、翔子さんの人生を自分が奪い続けていたという事実への深い深い後悔の念で占められておりました。翔子さんとの楽しい思い出を考えれば考えるほど胸が締めつけられます。祭壇には彼女のスケッチブックと鉛筆が供えられてあります。彼は立ち上がるとそのスケッチブックに近づきました。手に取るとそれは古くてずっしり重く、表紙はボロボロで所々修繕したあとも見られます。その表紙をめくってみると、はじめのページに小学校高学年の頃の哲也君の顔をスケッチした絵があります。ページをめくると、また哲也君の顔です。めくっても、まためくっても、哲也君の姿しか描かれていません。これは翔子さんが命を削って哲也君を救った記録です。哲也君の目には自然に涙があふれてきました。

なぜ彼女がこれほど自分だけを救い続けたのか、哲也君は知りません。彼女からその理由を聞くひまがありませんでした。こんなのは一方的すぎます。一度も自分が彼女を救うことがなかったなんて。哲也君はスケッチブックと一緒に供えられていた鉛筆を手に取りました。そして、遺影の翔子さんを見ながら、スケッチブックを構えます。何をしているのですか哲也君、あなたに翔子さんのような力があるわけないじゃないですか。

しかし、哲也君は鉛筆をスケッチブックに近づけます。鉛筆の先はスケッチブックの手前でピタリと止まりました。哲也君は胸のざわつきを覚えます。食べたものが食道を通って逆流して、口の中に苦くてすっぱい感覚が広がりました。翔子さんの行為を追体験して彼女の気持ちを少しでもわかりたい。彼の中でそういう気持ちが湧き上がりました。哲也君は遺影を見ながら、鉛筆を走らせます。彼は絵を描く才能に恵まれていません。だから引いた線はミミズがはったようです。それでも翔子さんの顔の輪郭を描いたところで、いきなり心拍数が上がって、呼吸が乱れました。息苦しさが増したのは気のせいではありません。その証拠に、翔子さんの亡骸が収められた棺桶がガタガタと音を立てたような気がしました。哲也君は身体の中が茹で上がるのではないかと思うほど熱くなりました。そして自分が今どういう状態に置かれているのかを悟ります。それを全て知った上で、翔子さんの遺影をじっと見つめて、彼女の顔を描き進めました。そして気が付くと、自分の手に見たこともないシワが現れています。全体に薄黒くなり、干からびた感じがします。ここに鏡はありませんが、もし今自分の顔を見れば、すっかり中年に変貌しているに違いないと哲也君は思いました。それはすなわち、棺桶の中の翔子さんが生き返って、若さを少しでも取り戻しているということです。「やった!!」彼の心はうれしさで踊り出しそうです。

その時突然、哲也君の背後で「ぎゃああああああああ!!」というホラー映画でおなじみのけたたましい悲鳴が聞こえました。振り向くと恐怖で硬直した顔の純子さんと、驚愕した表情の満さんと松井さんが立っていました。お茶をしていて帰って来たのですね。純子さんは哲也君に駆け寄ると、スケッチブックを奪おうとしますが、哲也君も抵抗して渡そうとしません。「気でも狂ったの! あなたは何をしているのか、自分でわかっているの!?」純子さんはそう言うと、ハンドバックからコンパクトを取り出して哲也君に突きつけます。鏡の中に映っているのはすっかり中年の顔になった哲也君です。純子さんは哲也君が自分の姿を見て、絶望に顔をゆがめると思っていましたが、しかし哲也君は「はははははッ!」と声を上げて笑い出しました。スケッチブックの力を自分でも使えるということが証明されたのです。「このスケッチブックは、翔子さんに限らず、誰でも使えるンだよ。僕が年を取ったということは、翔子さんは生き返っているはずだから!」哲也君はそう言うと、棺桶に近づいて、蓋の端に手をかけると、大胆に取り外しました。しかし、なんということでしょう。そこに横たわっているのは百十歳のままの翔子さんではありませんか。一体どういうことでしょう? 哲也君は大きく目を見開いたまま、言葉を失っています。そのまま視線を翔子さんの遺影に移しますと、なんと遺影の翔子さんが小学生の姿になっていました。何と言うことでしょう。哲也君のドジっぷりは、ここに極まりました。中年の姿の哲也君は、あまりのショックに、その場に座り込んでしまいました。ああ、無念。自分で自分に蹴りを入れたい気分です。

その光景を見ていた純子さんは、顔面蒼白になり、頭の中は真っ白で何も考えられません。ただ絶望だけがそこにありました。ところが満さんは床に落ちていたスケッチブックを手に取るとまじまじと見つめています。満さんは松井さんを見ると、静かに微笑みます。これは長年付き合いのある二人の合図かなにかでしょうか。松井さんは困ったような顔をしています。「先輩、まさか!」満さんは笑顔でうなずきます。「松井君、あとは頼む。二人のことをよろしく。面倒を見てやってくれ」松井さんは満さんが何をしようとしているのかわかっているようです。「君にはいろいろ頼みごとを聞いてもらったが、これが最後のお願いだ。出会えてよかったよ」満さんが差し出した手を松井さんはしっかりと握りました。

そして満さんは純子さんに近づくと、肩に手をかけて優しく言いました。「私たちは一度列車事故で死んだンだから、ここはひとつ、二人のためにひと肌ぬごうよ」純子さんはまだ事情が呑み込めません。「私たちは学生時代に出会って、たくさん旅行にも行ったし、楽しい思い出もいっぱい作った。だが、あの二人には、そんな楽しい思い出はまったくない。彼らにも、私たちのような楽しい体験をさせてあげよう」純子さんの目が絶望の色に染まりました。私はまだいっぱい楽しむことがあるのに! と心の中で叫びたい気持ちでしたが、そんな大人気ないことを言う状況ではないのはわかっています。まあ、一度死んだのですから、文句は言えませんよね。

「どうするの?」と純子さんは尋ねました。「君は哲也を描いてくれ。私は翔子さんを描く。たぶん私の方が早く力尽きると思うから、残りは君に頑張ってもらって、二人がちょうど二十歳ぐらいの同じ年齢になるように調整して欲しい」調整して欲しいと言われても、できるかどうかはやってみないとわからない、難しい注文です。しかし、元々美術のセンスがない純子さんでしたが、ラッキーにも最近絵手紙教室に通い始めたので、「まかせて!」と力強く答えました。頼もしいです純子さん。

満さんは松井さんに、全てが終わったらスケッチブックを焼却して欲しいと頼みました。松井さんは大きくうなずきます。ところが、その声でハッと正気に戻った哲也君は、スケッチブックを取り返そうとします。そこは松井さんがしっかり防御して、哲也君を羽交い絞めにしました。「よし、はじめようか」と満さんが言いましたが、ひとつのスケッチブックと一本の鉛筆を二人で同時に使うことはできないので、満さんがまずスケッチブックと鉛筆を持って、棺桶の中の翔子さんを覗き込むようにして描き始めました。すると、徐々に翔子さんの肌からシワが消え始め、肌に潤いが戻ってきました。それと同時に満さんが急激に老化します。「あなた、がんばって!」と純子さんが応援します。「先輩、しっかり!」松井さんもエールを送ります。哲也君は、泣きながら何かを叫んでいるようですが、言葉になっていないので聞き取れません。両親の死と愛する人の復活が同時に目の前で起こっているのですから、正気でいられないのは当然かもしれません。

こうなると満さん自身の寿命が本来どれぐらいだったのかが問題です。幸いにも彼の家系は奄美大島出身で長寿を誇っています。ところが、さすがに翔子さんが五十歳ぐらいの外見になったところで、寿命が尽きて、完全に絶命しました。これは計算が狂いました。計画では二十歳ぐらいに戻すつもりだったので、まだ三十歳足りない。「どするの! どうするの! どうするの!」と叫びながら、純子さんはもうやけっぱちになって、描きかけの翔子さんの顔を続けて描き始めました。すると翔子さんはどんどん若返り、ついに二十歳になりました。

ところが当然、純子さんは推定年齢八十歳ぐらいになっております。純子さんの家系は東京出身でそれほど長寿とは言えません。握力も低下して、歯はボロボロ、視力も低下してすっかりおばあさんです。それでも力を振り絞って哲也君の顔を描こうとしますが、上手く行きません。「もうやめてよ! 僕が助けるから」おっとこれはいけない、哲也君は放っておくと純子さんの絵を描き始めそうです。松井さんは手を貸したいところですが、哲也君を離すわけにはいきません。その時、翔子さんが目覚めました。すっかり若くなって輝くばかりの美しさをまとっています。翔子さんは棺桶から出ますが、目の前の状況がすぐに理解できません。当り前ですよね。しかし、松井さんは「翔子さん、こっちへ来て哲也君を押さえておいてくれ! 哲也君を描くから」と迷うことなく叫びました。ところが哲也君は「僕はいいから! 母さんを助けて!」と真逆のことを言います。翔子さんはどちらの言うことを聞いたらよいのかわからず、身動きできません。その間にも、懸命に哲也君を描こうとしていた純子さんが力尽きて絶命しました。

松井さんはしびれを切らせて、哲也君を突き放すと、素早くスケッチブックに駆け寄りました。ですが、哲也君も必死です。二人はビーチフラッグスのように、スケッチブックに突進して、奪い合いを始めました。それを見ていた翔子さんは、ようやく全ての事情を呑み込みました。そして、彼女は、もう迷うことなく、哲也君を後ろから羽交い絞めにしました。「離して!」と彼は抵抗しますが、彼女は渾身の力を込めて、決して離そうとはしません。「あなたの選択は間違ってない。ありがとう」と松井さんは言いながら、スケッチブックと鉛筆を手にして、哲也君を描き始めました。すると、哲也君はみるみる若返り、二十歳の若者に変身しました。一方、松井さんは、老化したものの、ダンディな八十代で、ギリギリ元の松井さんらしさを失うことがなく老化を踏みとどまりました。

哲也君はもう抵抗をしません。お互いが二十歳の外見になった哲也君と翔子さんは、お互いを見つめ合うと、うれしさがこみ上げて来て、しっかりと抱きしめ合いました。それを確認して、満足した松井さんは、言いつけ通りにライターを取り出してスケッチブックに火を点けました。するとスケッチブックは手品で消えるステッキのように、一瞬でパッと炎に包まれると、跡形もなく消えてなくなりました。後には灰の一粒も残っておりません。哲也君と翔子さんは純子さんの方を見ました。すると、いつのまにか、純子さんは満さんのすぐそばに倒れていて、お互いがしっかりと手を握り合って絶命しておりました……。

こうして青春を取り戻した哲也君と翔子さんの物語終わりを迎えました。二人の人生は新たなスタートを切ります。どうか哲也君、もうスケッチブックはないのですから、くれぐれも車に気をつけて、道路に飛び出さないようにしてくださいよ。これは作者からのお願いです。

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