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工芸的

現代美術の活動を再開するのに際して、自分の中で美術に関するあらゆることを再定義しようと考えました。その作業の中で、数々の疑問が生まれています。その中のひとつの話です。

世界の現代美術界で、アートフェアなどに代表される種類の作品を見ると、すぐに気がつくことがあります。それは工芸的な作品がないことです。理由はわかりませんが、ジャンルとしてはっきりと分かれているとしか考えられません。もしかしたら、工芸を美術の一分野として扱うのではなく、美術と対等なものとして位置づけているか、もしくは技術に特化したものは哲学をベースにしていないので、現代美術の持つ課題を担っていないと考えているのでしょうか。

一方、日本の現代美術には、工芸的な発想で作られた作品がたくさんあるように思います。そして、それらは作家が期待するほど西洋で評価されているようには思えません。西洋哲学成分が不足しているのか、受け入れる側に素養がないのか。しかし、日本人にはストライクなので、日々作られる工芸的作品も芸術としての役割がないわけではないと思います。

ところが、そこをあえて攻めている作品群もあります。現代美術としてです。ただ、僕の感想は上で書いた通りなので、そこは大きな疑問です。その疑問を失礼は承知で、テヅカヤマギヤラリーの『敷衍〜巧術其之玖』展で在廊していた池内務さんに聞いてみました。工芸的なものに向かう動機は何なのか。細かい会話は書きませんが、池内さんは古美術商の家に生まれているので、ズバリ「工芸的表現の是非の当事者」な訳で、僕のような少し距離を置いて見ている人間とは覚悟が違うと思いました。さらに、非西洋の人間が西洋美術である現代美術をやる意味についても、丁寧に答えていただきました。僕なりの理解でざっくり言うと「要点を押さえた上で緩やかに考える」という感じでしょうか。

いやぁ、しかし、Röntgenwerke AG の池内さんと言えば、僕から見たらほとんど有名芸能人に接する感覚です。でも、初対面の見ず知らずの人間の込み入った質問にも、丁寧に答えてくれるんですよ。すごい人ほど真面目な質問には、質問者を下に見ず誠実に対応する。この法則に外れはないなぁ。

ちなみに僕、安藤禄山は大好きです。あの象牙の野菜たちを初めて見た時は震えました。あんなの世界にないっスよね。

#アートの思考過程

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