見出し画像

挿絵小説『ラッキーボーイ』第10話

「オリオン号」

みなさま、ごぶさたでした。さて前回、哲也君と翔子さんは、愛ある別離を選択しました。何か理不尽な表現ですね。しかし、人生とは理不尽なできごとに満ちあふれております。そんな体験をした哲也君は今、上野駅の十三番ホームに来ております。今日は八月三十一日です。みなさん覚えていらっしゃるでしょうか。今日は満さんと純子さんの結婚記念日で、二人があこがれのオリオン号に乗車する日です。失礼、あこがれているのは満さんだけですね。純子さんにはわざわざ寝台列車で札幌に行く意味がわかりません。そして、チケットを手配した松井さんが見送りに来ております。十三番ホームには、すでに札幌行き豪華寝台列車オリオン号が、そのクラシックな外観で他を圧倒するようなオーラを放ちながら停車いたしております。おや、オリオン号は新型車両に変わっていますね。それを知った満さんは、一人の鉄ちゃんと化して、童心に戻ったようにデジカメでパシャパシャ車両の写真を撮りまくっております。

哲也君たちはその姿をあきれた顔で見ています。純子さんは思い出し笑いをするかのように微笑んで「こんなに晴れ晴れした気持ちで列車の旅ができるのも、松井さんが哲也とあの女を別れさせてくれたおかげね」と、また微妙な話題を口にします。松井さんは謙虚な人なので、「哲也君の決心のおかげですよ」と微笑んで受け流すだけです。「で、うちの人は教えてくれないンだけど、あの女にいくら払ったの、松井さん」と純子さんはさらに爆弾を投下します。これはいけません。世間の人が聞いたら、翔子さんが金のために別れを受け入れたと勘違いするじゃありませんか。実際、純子さんはその通りだと思っています。しかし、本当のところは、身寄りもなく頼る人もおらず、今まで哲也君のためだけに生きてきたような翔子さんに、気休め程度であれ生活を立て直す資金を提供してほしいと、松井さんが満さんに頼んで、三百万円を渡したのでした。高潔な精神の持ち主の翔子さんが、なぜそんな金を受け取ったのでしょうか。それは未練の塊の哲也君が、その事実を知った時、「ああ、なんだ。口では愛していると言っておきながら、実は金が目あてだったのか」と考え直し、新しい人生を未練なく始めるための愛想尽かしの意味があったのです。彼女はそのためなら悪女と言われてもかまわないと思っています。なんて人ですあなたは。これを本物の愛と言わなければ何と名付ければいいのでしょうか?

実は少し前に、哲也君が松井さんから直接、そのお金の話を聞いた時、驚きもしましたし落胆もしました。しかし、彼が本気で翔子さんを悪く思うはずがありません。たとえ彼女が目の前で人を殺したとしても、誰かが催眠術で操っているに違いないから、彼女は絶対に悪くないと言い出すに決まっていますから。

そんな翔子さんが、今どこで何をしているかと言うと、偶然にも同じ上野駅の構内のカフェでメニューをじっと見つめて、ストロベリーパフェを頼もうか、それとも抹茶プリンパフェを頼もうか、いやいやここは両方頼んでしまおうかと思案している最中でした。あれ、彼女はこんなに食いしん坊キャラでした? 彼女は四六時中と言ってよいほど哲也君を陰で見守る生活を送っていたので、生まれて初めて行先を決めない、ボストンバッグ一つの自由気ままな一人旅に出ようとしていたのです。もちろん、ホームに哲也君たちがいるのを知りません。

彼女がメニュー選びに迷っていると、隣の席の老夫婦がほほえましい笑顔を見せて翔子さんを見ておりました。翔子さんはその視線に気がついて頬を赤らめます。五十路の女性がメニューでパフェ選びに夢中になっているのは、確かにギャップがあります。「いいえ、私たちもいつも迷うンですよ、ねえ、あなた」「ああ、私はストロベリーと名がつけば条件反射でよだれが出て来てしまうンだが、差別はいけないでしょう? 他のパフェも平等に扱ってあげないと気の毒なので迷ってしまうンだ」何の話ですか? 

でもなかなかユーモアのあるおじいさんです。翔子さんは微笑ましくて理想の夫婦だと思いました。長年苦労はしたけれど力を合わせて生きて来て、今はいい意味で肩の力が抜けて余生を楽しんでいる感じが正直うらやましく思います。彼女にこの幸せが訪れることは決してありません。二人は今日が結婚記念日で、あこがれのオリオン号に乗車する予定だと告げました。どこかで聞いた話ですね。オリオン号の乗車賃は決して安くはありません。だからこそ日頃の感謝の意味を込めて、子供たちが両親の結婚記念日にこの列車の旅をプレゼントするのが定番なのです。黒田家の場合はちょっと違って、満さんが鉄ちゃんという理由ですが。

その時、構内のアナウンスが、十三番乗り場で、十八時発、寝台列車オリオン号の乗車が始まったと告げました。老夫婦は嬉しそうに席を立って、翔子さんに別れを告げました。「いってらっしゃい、良い旅を」と翔子さんも気分よく見送ります。そして彼女は、結局ストロベリーパフェを頼みました。この旅行は自分へのご褒美なのだから、誰に遠慮をする必要がありますか。これを食べ終わったら次は抹茶プリンパフェを攻めよう、彼女はそう心に決めました。翔子さん、その自分へのご褒美理論は肥満への片道切符ですよ、上野駅だけに……失礼しました。

十三番ホームでは、オリオン号への乗車が始まっておりました。しかし、満さんはまだ列車の外観をパシャパシャ撮影しております。よく飽きないものですね。まるで何年も会っていなかった犬が飼い主と感動の再会を果たした動画を見ているようです。

哲也君たちは正直うんざりしています。そこに先ほどの老夫婦がやって来て、失礼しますと言いながら、哲也君たちのすぐそばを通って乗車しました。純子さんはしびれを切らせて「私たちも早く乗りましょうよ、ここまで来て乗り遅れて、置いてきぼりなんて嫌よ」と言い出したので、ようやく満さんも乗車しました。

「ありがとうございました。何から何まで段取りをしていただいて」哲也君は改めて松井さんに御礼を言いました。「僕はお父さんが喜んでくれるのがうれしいンだ。若いときからお世話になりっぱなしだから、これぐらいのことはなんでもないよ」オリオン号の予約を取るのは至難の業と言われていますので、それをあっさり言ってのける松井さんはかっこいいですね。哲也君もひそかにこんな大人になりたいとあこがれています。もし彼が同じことをしていたら、向こう十年、知人に会うたびに自慢しまくるでしょう。尻の穴の小さな男ですね。でも、そこがかわいいと思っているあなたは立派な哲也君マニアです。

一方、翔子さんはストロベリーパフェを早くも完食いたしました。まだまだ胃袋には余裕があります。まあ、パフェですからね。頭の中は抹茶プリンパフェカモーン! と言っておりますが、気軽に追加でもう一つ頼むのが困難な状況が発生いたしました。カフェの店員さんが、ちょうどシフト交代の時間らしく、新しくシフトインした大学生風アルバイト君が、福士蒼汰似のイケメンだったのです。どうですか、あなたなら、二杯目のパフェを迷わず注文できますか? 翔子さんがそんなことを考えていると、上野駅構内が数秒間ビビッと軋みました。地震かなと思った次の瞬間、グゥワッシャ――――ン!! と激しい衝突音がして、建物が大きく揺れました。この揺れは地震ではありません。翔子さんは直感で何かの事故だと思いました。そしてカフェの外を見ると、構内は白い煙に見る間に覆われていきます。火災報知器がけたたましく鳴り始めました。これは一大事です。ホームでなんらかの列車事故が起こったのは間違いありません。イケメンアルバイト君は仕事を放り出して避難したようです。ちょっとがっかりして翔子さんは構内の通路に出ました。煙の中を駅の利用者たちが逃げてきます。壁にへばりつくように立っていないと、逃げてくる人たちと危うくぶつかりそうになります。翔子さんは、先ほどの老夫婦が気になったので、人々が逃げてくる方向に走り始めました。ああ、そっちへ行ったら危ないのに、なんてことをするのです、翔子さん!!

つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?