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読書
こんな本を読んでみました。松井裕美/木俣元一編『古典主義再考Ⅱ 前衛美術と「古典」』(中央公論美術出版/2021)です。と言っても、少しスルーした章もありますが(本のカバーは行方不明で捜索中です)。
この本は、少し前に読んだ、デイビィッド・コンティントン著『現代アート入門』系の人たち?の論考が編まれています。主に両大戦間の前衛と古典の関係を扱っています。
内容は、たいへん示唆に富んでいましたが、それをまとめて紹介するモチベーションがないので、これを読んで連想(妄想)したことを書きます。なので、以下は、本書の内容とはズレています、たぶん……。
さて、美術の歴史は、新しい価値観が、既成の価値観を否定することで、更新されて行きますよね。印象主義がサロンを否定して時代を作り、次にキュビズム、未来派、ダダが出て来て、また新たな時代を作りました。
でも、ピカソやマン・レイはアングルを引用していますよね。ピカソは美術の革命児であると同時に、古典も大好きです。それは、既成の価値観は否定するけれど、古典ならばOKということでしょうか。
つまり、直近の過去は否定するけれども、古典は否定するものではなく、上手く利用するのが、美術の在り方の一つではないかと思います。なぜなら、古典とは普遍性を持った表現のことであり、それは人類共通の財産だからです。
新しいアイデアが、既存のアイデアの組み合わせでできているとしたら、既存の表現、つまり古典の知識の量が、新しい表現を生み出す分母になります(しかも、古典は増える一方です。割合で言うと、この世の美術作品のほとんどは古典です)。
逆に言えば「なんか作品がありきたりだなぁ…」という状態は、美術史あるいは歴史の勉強不足と言えなくもありません。あくまで、個人の意見ですが。
そこで問題は、現時点で、どれぐらい過去ならば古典と呼べるかです。僕の感覚では、活動期間が第二次大戦以前の作家というところでしょうか。ちょっと長いですか? ウォーホール作品などは、ほぼ古典だろ、と言えなくもないですが、その理論が現役バリバリなので、古典となったとは言い難いと思います。デュシャンしかり。僕は結構マジで、ウォーホールやデュシャンを葬れない(美術の古典籍に入れない)のが、現代の問題だと思ったりします。まあこれも、あくまで、個人の意見ですが。
#アートの思考過程
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