挿絵小説『ラッキーボーイ』第3話
「翔子さんの秘密」
黒田哲也君は「僕は誰がなんと言おうと翔子さんを探し出してみせるよ!!」と、両親と父の後輩の松井さんに宣言して、家を飛び出しました。ところが通りを横断しようとして前方不注意のためにピックアップトラックにひかれてしまいました。まさにオーマイゴッドです。
ピックアップトラックは二十メートルほど走ったところで停車しまして、若い男性ドライバー君が車から降りてきました。彼は急に飛び出した哲也君にふざけるな! と怒鳴りたい気持ちと、やっちまったぁ……という絶望的な後悔の気持ちが混じって、この世の終わりのような顔で身を震わせております。しかしここは閑静な住宅地で人通りもなく、目撃者は誰もいない様子です。その時、ドライバー君の心の中に、良からぬ気持ちが芽生えました。悪魔が舞い降りたのです。彼は素早く車に戻ると、ピックアップトラックを急発進させました。何ということをするのだ、この悪魔! 決して哲也君を天使とは申しません。ただの度が過ぎたおっちょこちょいです。しかし、状況は絶望的です。額から血を流した哲也君はもはや虫の息です。一一九番をする通行人もおりません。どうなるラッキーボーイ! このまま死んでしまうのか!?
その時です。一つの人影が軽やかに哲也君のそばに駆け寄りました。若い女性のようです。助かった、神は彼を見捨てませんでした。彼女は素早くバックからスマホを取り出すと一一九番に通報を……すると思いきや、バッグから取り出したのは一冊の古びた分厚いスケッチブックです。こんな時に何をやっているのです、お姉さん!? 彼女は鉛筆を握ると、血まみれで横たわっている哲也君の顔をスケッチし始めました。何たる悪趣味! こんな横暴を許していいのか。ところがお姉さんはなかなか絵が上手い。描きなれている。さては死にかかっている人をモチーフにしている変態画家か、はたまた現代のジェリコーか?
いやいや、待ってください。お姉さんが哲也君の顔をスケッチすると、虫の息だった彼の呼吸が復活して来たではありませんか。こんな偶然があるでしょうか。違います。哲也君の額にダラダラと流れていた血液が、まるで映像を逆再生しているかのように逆流して、傷口まで戻り、傷口は元通り傷ひとつない姿になったのです。ちょっと信じられませんが、これは事実です。そして奇跡です! 勘のいい方はもう気づかれたと思いますが、彼をスケッチしたお姉さんこそ、神崎翔子さんその人であります。彼女が使った魔法について詳しく説明をしたいのですが、これは翔子さん本人にもどんな力が作用しているのかわからないのです。そんなバカな、と思われるでしょうが、事実ですから仕方がありません。翔子さんは驚くべき特殊能力を持っているのですね。この小説はヒーローズか!? と思わず突っ込みたくなります。ヒーローズを観ていないのですが、この突っ込み合っています?
翔子さんがこの力を使い始めきっかけを簡単に説明しますと、それは彼女が小学生の時の話です。彼女は美術クラブに所属していましたが、施設で生活していたので高価な画材を買うことが出来ませんでした。ですがある時、見ず知らずのタイガーマスク的な匿名の人から、画材一式を寄付したいと申し出があり、受け取った画材の中にあの分厚くて変わったスケッチブックがあったのです。翔子さんは飛び跳ねんばかりに喜んで、学校にそのスケッチブックを持って行きました。
美術クラブでは人物デッサンをやりました。モデルは生徒が持ち回りでつとめていましたが、その時は昼休みに校庭で野球をしていて、ベースランニングで転倒して右腕を骨折した男子がモデルをやりました。彼は三角巾で腕を吊っていたのですが、翔子さんがスケッチをすると、あれあれ? 腕の痛みがまったくなくなり、ブンブン腕を振り回しても何ともないほど、骨折前の状態に戻ってしまったのです。
これにはほかの美術部員たちも驚きました。しかし、描いた当の翔子さんの様子もおかしくなりました。ただスケッチをしただけなのに息を切らしていたのです。これはのちにはっきりしました。翔子さんがこのスケッチブックで描いたものの寿命が延びて若返るのです。その代わりに翔子さんは、その延びた分の寿命を失うのです。もっと簡単に言えば老化すると言うことです。それがわかってから翔子さんは、このスケッチブックは二度と使わないと決めました。我らが黒田哲也君に出会うまでは……。
哲也君と翔子さんの出会いについてもここでお話ししておきましょう。二人の出会いについて哲也君は大学時代にバイト先で出会ったと思っていますが、実は初めての出会いは、もっとさかのぼって小学校の時に行ったキャンプ場です。
翔子さんはクラスメートからキャンプに誘われて喜んで参加しました。ところがキャンプファイアーで楽しんだ花火の後片付けを一人で押し付けられます。簡単に言うと、いじめられっ子だったのですね。雑用を押し付けるために誘われたというのが実態です。キャンプファイアーが終わって、みんなはキャンプ場の施設内にある宿泊所に戻りました。気が付けば翔子さんは取り残されていました。そして宿泊施設に向かうために、一人で深くて暗い森の中を抜けて移動しないといけません。森の中は真っ暗で、小学生の女の子には大変心細い行程です。でも、翔子さんは気持ちの強い子供で泣き言や愚痴や弱音を吐かない子供だったので誰も心配なんかしません。彼女は懐中電灯一本を持って森の道に入りました。半分ぐらい来たところでしょうか。懐中電灯の光が瞬きのように点滅し始めて、次第に小さくなってきました。土地勘があれば当てずっぽうでも進めるのですが、初めて通る光源のない夜の山道で右も左もわかりません。オーマイゴッド! さすがの翔子さんも寂しさと怖さと不安で涙が出てきました。声を出しても誰にも聞こえません。叫んでも誰も助けに来てくれないほど、森は深いのです。キャンプに来ていた友達はみんな翔子さんのことを空気のように無視していたので、姿が見えないから探そうとは誰も思いません。彼女は絶望から張りつめていた気持ちが切れて走り始めました。日常生活であらゆることに我慢を重ねて生きて来て、蓄積したものが恐怖心をきっかけにして限界を超えたのです。理性の皮がやぶれて、そのほころびから抑えられていた感情が噴き出したのです。こんな気持ちは施設に入って以来初めてです。彼女は真っ暗で行く手に何があるかわからない森の中を、大声で言葉にならない叫びを上げながら走りました。
もしこの先に断崖絶壁があって、飛び降りて死んでしまっても、逆に日常生活の全てから解放されて楽になれるという考えも頭に浮かんでいます。生まれてからこれまで、いいことがあった日なんて一日もなかった。どうせなら生まれて来なければよかったといつも考えていたのです。死ねるとは楽になれること!……。
その時突然、目の前に蛍のような光がフラフラとさまよって移動しているのが見えました。近づくと蛍よりも大きな光です。それは懐中電灯でした。手にしていたのは、小学校時代の我らが主人公哲也君です。彼は懐中電灯を持っているにも関わらず道に迷っていたのです。森の中で運命の出会いを果たした二人は、そのあと力を合わせて、無事に森から抜け出しました。哲也君は別のグループでキャンプに来ていたのですね。彼は暗いせいもあって翔子さんの顔をよく覚えていませんでした。しかし彼女は自分を救ってくれた恩人の顔を忘れませんでした。彼が隣の小学校の生徒というのもすぐにわかりました。二人の出会いは迷路のような森の中だったのです。
これまで哲也君に起こっていた奇跡、ミラクル、ラッキーの全ては、翔子さんのスケッチブックの力なのです。今回の交通事故でも、哲也君は彼女に救われました。ところがです。残酷にもこの力を使うと翔子さんはその分だけ老化してしまいます。実際、彼女はもはや彼と同じ年には見えません。どう見ても五歳以上は年上で、三十路の雰囲気まで出ています。この事実が彼女を失踪という決断に向かわせたのです。知らぬは哲也君ばかりなり。だが、それでも彼のことが心配で、始終見張っているのですから、翔子さんの献身も度が過ぎていると思うのですが。
哲也君が路上で意識を取り戻すと、翔子さんの姿はありませんでした。しかし、彼はそこに残った甘い香水の匂いに気づきました。翔子さんは必ず近くにいる! 哲也君はあきらめません。彼は燦然と輝く二人の未来を願って翔子さんを探し続けて、それからなんと五年の歳月が流れたのです。
つづく
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