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挿絵小説『ラッキーボーイ』第1話

「ラッキーボーイ」

みなさん、こんにちは。お初にお目にかかります。よくこのページまでたどり着いていただきました。

みなさんがこれから読もうとしている物語は非常に珍しい、稀有な、珍奇な、一風変わった、それでいて超絶ロマンチックなお話です。物語は平凡な都内某所の某横丁の某路上から始まります。えっ? もっと具体的な地名を書かないとわからないって?……では、わかりやすく書きますと、東京都裏側市西裏側町裏側12ー3です。余計にわからないですか? みなさんが知らないだけであるのですよこの地名が。信じる者だけが楽しめます。何でも疑う性格は直しましょう。しかしながら、この物語には異世界も、ハーレムのような学園も、フォースを信じるような世界も、いま流行りのものはまったく出てきません。ですが、感動号泣必至で全米がおもらしするほどの激しく面白い物語です。ぜひハリウッドからの映画化オファーをお待ちしております。言うのはタダ……。こういう前置きはシラケますね。ではさっそく参りましょう。

さて、どこからどう見ても容姿に特徴のない大学生の黒田哲也君が額からダラダラと汗を流しながら、炎天下の路上を歩いております。

直射日光で溶けだしそうに熱せられたアスファルトが足の裏にネチャネチャ吸いつくのを剥がしながら交互に足を出していますが、三歩に一歩はけつまずいているので、乳母車を押している道行くおばあさんから「あなた大丈夫? 手を貸しましょうか?」なんて逆に言われそうな勢いです。実際、哲也君はよくつまずくので、ひざ小僧はいつも傷だらけです。ひざ小僧の方も心得たもので、けつまずきそうになるたびに受け身を取っています。その受け身は山下泰裕八段に習ったのですか? と思わず声をかけたくなるほど見事なものです。まあ、こんな話を信じる人はいないと思いますが。嘘だと思ったら、こんど知り合いのひざ小僧に会ったときに確認してみてください。たぶんそのひざ小僧は黙秘権を行使すると思いますが。

実際彼のドジぶりは常識の域を越えていて、死にかけたことも一度や二度や三度ではありません。車にひかれたことや川で溺れたこと、マムシにかまれたり、底なし沼にはまり込んだりしたことなど数知れず。

ですが、なぜかそのたびに奇跡的に命をとりとめてきました。まさにミラクルです。両親は彼のことを、親しみを込めて〈ラッキーボーイ〉と呼んでおります。

ですが、そんなラッキーボーイにも、避けられない不運が今まさに襲いかかろうとしています。付き合っている恋人の神崎翔子さんから、ラインの返信が来なくなってしまったのです。現代人にとって絶望と書いて既読スルーと読みます。ああ神様仏様お袋様。ああ無常。

哲也君はウザいほど、返信の催促をしてもらちが明かなかったので、とうとう翔子さんの住んでいる古いアパートを探し当ててやって来てしまいました。彼女は元々自分の住んでいる家を秘密にしていたのですね。それって二人の間の微妙な距離を物語っていると思いますが、それは違うのです。その違う理由はまだ内緒です。

彼がここに来たのは初めてですが、想像を越えるオンボロさに開いた口がふさがりませんでした。翔子さんから古いとは聞いていましたが、てっきりやまとなでしこ的謙遜さから出た言葉だと思っていましたから。それが謙遜さからではなく、逆に話を盛っているほどだったので驚きました。古い程度の形容では表現が生ぬるくて美化しているのも同然です。

アパートの建物は全体がそのまま右に傾いて、上空から巨大なだいだらぼっちに押し潰されたように菱形にゆがんでいます。ここは直角を拒否した世界です。この状態でドアが開閉できるなんて、箱根寄木細工職人もびっくりするに違いありません。ちょうど黒澤明の映画『どん底』のセットの建物のようです。『どん底』を観たことがない方は要チェックです。実際にあったでのすね、こんな傾いた家が。

今にも抜け落ちそうな階段を上がるというチャレンジをして二階へ行くと、三輪車やゴミ箱などが乱雑に置かれた廊下が目の前に広がりました。けれども一つのドアの前だけ、見事にすっきりと片づいています。まったく不自然なほどに。ここが翔子さんの部屋に違いありません。そう思わない理由を探す方が難しいので、哲也君はドアの前に仁王立ちになると、大きく深呼吸をしました。

彼女が彼の何に怒って連絡を断ったのかわからないので、いきなり乗り込むのは少し恐ろしい気もしますが、ここまで来て迷っていても仕方がないし、それは男じゃありません。哲也君はじっくり考えて、ここはひとつ必死さを全面に押し出す作戦、つまり泣き落としで行こうという結論に達しました。あ、ぜんぜん男らしくないです。

「翔子さん!! 僕だよ!! 開けて!!」哲也君は思いっきり声を絞り出して叫びました。なかなかの名演技です。「翔子さん!! いるンでしょ!! 開けてよ!! 父さんと母さんが僕たちのことを認めてくれないのは、翔子さんの素晴らしさに気づいてないだけだよ! 僕の説得が足りなかったンだ!」哲也君はドンドンドン!! とドアを強く叩きました。あっ、待ってください、ドアが壊れそうです! 器物破損の現行犯で逮捕する!……いえいえ、ドアの留め金が腐っているだけでした。「まだ約束していた遊園地に行ってないし、キスだって、エッチだってしてない!! もっともっと一緒に楽しみたいことがいっぱいあるから!!」あらまあ、公衆の面前でなんてことを! しかし、これが黒田哲也カッコ二十歳の心の叫びです。

その時です。ドアの奥で物音がしました。翔子さんはやっぱり部屋の中にいた! しかし、彼女がどんな顔で出てくるか想像ができません。怒った顔、泣き顔、変顔、すねた顔。様々な顔を頭の中で高速シミュレーションしながら、彼はドアが開くのを待ちかまえておりました。ところが出てきた顔は想像を越えていました。それは激怒したオニオコゼを魚類図鑑からコピペしたような中年のおばさんの顔です。つまり別人です。

「うるさいよ! 人の部屋の前でなに騒いでいるの! 警察を呼ぶよ!」オニオコゼおばさんは魚のように口をパクパクさせて怒っております。少し酸素が不足しているようです。

「おばさん、翔子さんを出してください! いるのはわかっています!」おやおや、彼は翔子さんが一人暮らしと知っているはずですが、どうやら部屋を間違えたのに気付いていません。つまり、彼は絶望的なほど感が鈍いのです。本当に翔子さんが彼のどこに惚れたのか教えてほしいぐらいです。

「翔子さん?」オニオコゼおばさんはやっと彼が隣の部屋の神崎翔子さんを訪ねて来たことに気が付きました。「翔子さんって、隣の神崎さんのことだろ? あの子なら三日前に夜逃げしたからもういないよ」翔子さんと夜逃げというワードが結びつかないので、哲也君の頭の中はぐるぐる回り、めまいがしてフラフラとなり、ついにスローモーションのようにその場に座り込みました。

「お気の毒さま。いい子だったけど、何も言わずに出ていくなんて、よっぽど大変なトラブルに遭ったのだろうね、借金か男関係か、それを思うと心配だね。これでもけっこう世話してあげたのに……」哲也君は遠のく意識の中で、オニオコゼおばさんの言葉を脳内でシャットアウトしました。自分に都合が悪くて心がダメージを受けそうな情報は自分から脳に入れないタイプなのです。脳もひざ小僧と同じように長年の経験から受け身を身につけたにちがいありません。便利なシステムです。

さあ、哲也君は無事に翔子さんを見つけ出すことができるのでしょうか。波乱の展開が待っている次回をこうご期待!

つづく

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