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2020年。

年が明けました。2020年はぜひとも、飛躍の年にしたいですね。で、12月はP20号を2点制作。あれ、少ないなあ、何やってたっけ先月……。

最近また『崇高』について、ぼんやり考えたりしているのですが、僕の中にアカデミックなものは何もないので、全ては根拠のない妄想です。ただし、美術家なので、その思考は作品に反映されます。たぶん。

ところで、近代社会のエンジンは『進歩』です。でもその結果が、最近の気候変動などを生み出しているので、少しは何かを考えたくなります。そこで『進歩』の反対語を検索してみると『退歩(望ましい状態から遠のいていくこと)』なんて書かれています。こう書かれると「やっぱ進歩一択だよね」となります。でもこれは、言葉のマジックじゃないかと思います。文化的に『進歩』の反対は『祖型の反復』でいいんじゃないのでしょうか。となると、神話の世界に逆戻りしてしまうので、そこまで戻らずとも近代の始めを考えたいと思います。

そこで『崇高』です。この言葉自体は昔からあるようですが、美の観念の一つである『崇高』を再定義したのはエドマンド・バーク(1729-1797)の『崇高と美の観念の起源』です。そこでは、美を『小ささ』『柔和さ』『明瞭さ』とし、崇高を『巨大さ』『恐ろしさ』『曖昧さ』とカテゴリー化しました。崇高はこれらを通して美に到達する両義的なものです。要は「あれっ、現代美術は崇高に近くね?」と思うわけです。

この本『崇高と美の観念の起源』を購入はしましたが、まだ未読です。そして『崇高』はバーク、カントからリオタールまで扱われながら、美術界で応用され、結構手垢がついた概念らしいです。そもそも、僕はそのカント、リオタール山脈を越えられそうにないので、近代の崇高の祖、バークと共に制作をしようと思ったりしています。つまりある種の、祖型の反復です。

僕はバークの時代の『崇高』の成り立ちが好きです。この『巨大さ』『恐ろしさ』『曖昧さ』はどこから来ているかと言うと、アルプスです。当時のイギリス上流家庭の若者は、偉大な西洋文化に触れるためにイタリアに旅行する慣例がありました。グランドツアーです。その旅行でアルプスを越えるのですが、美しい山々とそれを越える厳しさの両義的な感覚が崇高の原点です。

現代美術の両義性はこの崇高性と考えるのが自然な気がします。個人的な問題として『巨大さ』はともかく、『恐ろしさ』『曖昧さ』は、誰から見たらそう見えるかが鍵です。つまり、誰に見せたいかです。世界はインターネットの普及で均質化に向かっていますが、どうやら日本は美術界も含めて、古き良き内外差の世界から抜け出す様子が見られないので、注意が必要です。

さて、そんなことを考えつつ、今年も美術の山の頂上を目指して登ります。

今年もよろしくお願いします。


#アートの思考過程


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