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読書『芸術の哲学』

渡邊二郎著『芸術の哲学』(ちくま学芸文庫/1998)を読みました。大変面白かったと同時に、勇気付けられました。少し前に『美/学』という教科書みたいな本を読んだのですが、その中でこの本が参考文献として紹介されており、きっと良い本に違いないと思って手に取りました。僕がこの種の本を読む理由は、現代美術は西洋美術だから、西洋を理解しないと本当の意味で作品を作れないと思うのと、もう一つ、自分の考え(自分が再定義した仮説)が妥当なのかどうかを確認するためです。

内容は、著者が行った講義が元になっているので、大変シンプルな構成です。「芸術の哲学」を取り上げる狙いから始まって、アリストテレス、ニーチェ、ハイデッガー、ガダマー、フロイト、ユング、ショーペンハウアー、カントの芸術観や定義を順に解説して行くものです。著者はキッパリと芸術哲学と美学は違うと書いています。

個人的に印象深かったのは、ハイデッガーの芸術の定義が「芸術とは、真理・真実・真相の創造的な保存」とされているところです。「「創造」する者なくしては成り立たないのと同様に、そこに成就された真理を見守り「保存」する者なくしては、存在しえない」と言っています。僕も作ると残すは、ほぼ同価値と思っているのですが、インスタレーション全盛の現代では、少数派の意見かもしれません。しかし、そこは勇気をもらいました。

あと僕は、創作の基本は「論理とカオス」の関係(衝突)にあると考えています。そして、ここに取り上げられている哲学者の定義をよく見ると、みんな大体同じことを言っているように感じます。ニーチェの「アポロ的VSディオニュソス的」「ソクラテス主義VSディオニュソス的」、ハイデッガーの「世界VS大地」、ユングの「個人VS集合的人間」、ショーペンハウアーの「概念VS理念」、カントの「芸術美(趣味)VS芸術美(天才)」など(ただし、カントは複雑)。つまり、芸術の源泉はカオスにあると、みんな言っているように思えます。もちろん、質的にはそれぞれの違いはありますが。

で、ここからは個人的な妄想です。どの時代の芸術家もカオスを求めていたとすると、それは具体的に何なのか。いわばカオスの美術史です。僕の解釈は、前近代最大のカオスは神ではないかと思います。哲学者は延々と神とは何かを考え、芸術家は延々と神にまつわる物語を表現して来ました。では近代以降の神なき世界のカオスは何か?ここで2つの派閥に分かれます。現実社会のカオス(=不条理)に向かう派と、写真の登場で役割を失ったので、自ら芸術の新しい表現自体に向かう派です。その他、浮世絵やアフリカ彫刻など、西洋世界の外からカオスを取り込む態度もありますが……。

まあ、妄想はさておき、僕が絶対に読んでも理解できないであろうカントやショーペンハウアーなどの芸術の定義が知れて、大変勉強になりました。

あと、ハイデッガーのところで「いいなぁ」と思う記述があったのですが、長いので要約すると、芸術作品は『真似、模倣…模写…再現ではない…それ自体が存在の真理・真実・真相の新たな出現・顕現・提示・開示である。…そこでこそ人が、世界の真の開示性と向き合う場所なのである』

……芸術作品は世界にとって重要っぽいです。

#アートの思考過程

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