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論理とカオス

現代美術作品には新しさが必要ですよね。この新しさとは、少なくとも美術の文脈上において、未知のものであるはずです。それが含まれてないと、現代美術作品として成立する必要条件を満たしていないと言えます。あくまでも原理原則として。

でも全てが未知であれば、現代美術作品として認識できないですよね。表現の分類上、その他には含まれるかもわかりませんが。だから概知も必要です。

その未知に対する概知を、論理で説明できるものという意味で論理と呼び、一方の未知のものをカオスと呼ぶのが僕の中のマイブームなのですが、重要なのは作品を成立させるために必要な、その論理とカオスの成分比(構成比)です。

その成分比は、見る人の立場や環境で変化します。僕の作品で言えば、僕はキャンバスにアクリル絵具で描いていますが、これは100%概知なので論理側です。歌麿の描いた江戸の女性を元に描いていますが、歌麿も浮世絵もほぼ概知です。つまり、僕の作品にはカオスの成分がほとんどないので、現代美術作品として成立しているのかどうか疑わしいレベルです。

ところが、僕は作家としての目標を、モチベーションをMAXに高めるために「西洋美術史に名前を刻む」と決めました。現代美術は西洋美術なので、そこに名前を残すのが現代美術家の自然な願望だと勝手に解釈した結果です。

なので、誰に向けて作品を作っているのかと言えば、それは間違いなく西洋美術史を作っている人たちです。そうじゃないと目標から外れてしまいます。で、その人たちにとって歌麿や江戸時代の女性は概知かと言えば、間違いなくカオス側です。

だから、僕の作品の成分比は日本の人にはほとんど論理ですが、僕が対象にしている人から見れば、カオス成分がたっぷり含まれています。つまり、その条件下では現代美術作品として成立していると思っています。もちろん、それだけで作品が成立しているわけではなく、複数のレイヤーがありますが。

ちなみに、僕の過去作のインスタレーションなどは、カオス成分が過剰だと思っています。しかし、これはまあ、自分ルールの話なので、一般論ではありません、あしからず……。

#アートの思考過程

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