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『芸術崇拝の思想』

読みました。松宮秀治著『芸術崇拝の思想、政教分離とヨーロッパの新しい神』(白水社2018/2008)。この著者は現代美術への共感が少ないので、ラストが尻つぼみで終わった感があります。僕の理解では、何千年も続いてきた人類の崇拝の歴史が、近代になって芸術に転化したにもかかわらず、現代美術はその価値を溶かしてしまっていると憤っていらっしゃるようです。読めばその理由も納得ですが。

さて、全編面白いトピックばかりだったのですが、僕が心に残ったのは、中世における宗教は文化を超えるもので、そのシンボルは聖人であり、聖人の条件は殉教者であるというところです。
その一方で、近代の文化英雄は国民、民族の枠を超えない存在です。つまり、非西洋人でもキリスト教の聖人にはなれますが、国民国家や民族国家の英雄は必ずその枠の中から選ばれます。

それの何が面白いのかと言うと、僕は現代美術は西洋美術であると強く思っています。だからこの定義では、現代美術の英雄は西洋からしか出て来ないわけで、僕は現代美術の英雄にはなれないことが確定です。しかし、現代美術を現代の信仰と解釈すれば、聖人になれるチャンスが生まれます。もちろん現代美術教の信者になって、殉教者になるのが条件ですが(まあ、そこはもう選択済みです)。

それともう一つ。これは特に本書に記述があったわけではないのですが、僕は美術表現は、時代の制約を知らずに受けていると思っています。では、今この時代の制約とは何か。それを本書を読んでいるうちに、「コンセプチュアルアート(概念芸術)」ではないかと思ったんです。まあ、そりゃそうだろうという話ですが。
問題は、歴史を見れば、過去の美術表現のスタイルは、必ず終わっているということです。しかしながら、ロココの時代が終わればロココ作品が残り、ロマン主義の時代が終わればロマン主義作品が残り、写実主義、印象派、キュビズムも同様です。でもコンセプチュアルアートという魔法が解けた後に残されたものは、果たして作品と呼べるのか。前近代の西洋美術は基本的に宗教美術ですが、われわれは、宗教抜きでもそれを鑑賞できます。では、コンセプチュアルアートをコンセプト抜きで受容できるのかどうか。まあ、モノによりますか。

前近代の、芸術という概念のない時代に生み出された作品は、厳しい環境の中で作られて後世に残っているだけあって、作品としての強度が高い気がします。一方、紙を丸めてポイっとホワイトキューブに置いただけの作品がもしあるとするならば、それはコンセプチュアルアートという魔法で守られた、非常に脆弱な構造しか持たないものではないか。その魔法は必ず解ける時が来ますから。

なんてことなど、いろいろと連想をしながら読んでいたら、めっちゃ読むのに時間がかかりました。上の例は僕の解釈で、読む人によっては別の読み方になるかもしれません、あしからず。

#アートの思考過程

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