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11月ですね。

11月ですね。10月の制作はP30号の1点のみでした。これ、先月の制作途中の画像と同じ作品です。つまり、この2ヶ月で仕上げたのは、これだけです。しかも、背景を黒くしないバージョン。さぼり?……はい。少し制作のペースを抑えて、本を読む時間を増やしています。日々、勉強不足を痛感していましたので。年内はこのペースの予定です。

さて、僕はよく「浮世絵は、当時のプロマイドです」とか「今で言うグラビアですから」と、気軽に説明をします。世間一般の認識もそうですよね。しかし、断じて浮世絵は、今のプロマイドでもグラビアでもない、ということに、先日ふと気がつきました。反省します。

どういう事かと言うと、浮世絵が盛んになった江戸時代の中期は、狩野派の全盛期ですよね。つまり絵の才能があれば、狩野派に入門したいと思うのが普通です、たぶん。でも、その頃の狩野派は、お手本通りに描くシステムが確立していたので、そこに絵師の個性は必要ありません。一方、浮世絵には、もっと自由な表現の世界がありました。市井の表現ですから。入門もそれほど難しくなかったはずです。つまり、その時代の個性豊かな才能が、浮世絵界に集まったのではないかと思うわけです。

例えて言えば、映画産業は一時、斜陽になりましたよね。当然、制作本数が減ると、ベテラン監督の手堅い作品しか作られなくなります。そんな時に、個性豊かな若い才能は、ピンク映画に集まりました(ナニをしているシーンが何か所かあれば、あとはどう撮ってもよいという話です)。そして、ピンク映画に数々の傑作が生まれました。ベトナム戦争とアメリカン・ニューシネマも似た状況から生まれたと思います。

つまり、浮世絵は今のグラビアである、という説が正しければ、写真界の個性豊かな才能が、何かしらの理由で、集まっている場所という、時代的な状況が必要です(もし、実際にそうなら、ごめんなさい)。でもそれって「木村伊兵衛も、土門拳も、森山大道も、杉本博司も、みーんなグラビア出身」という状況でしょうか……。それが、時代の表現と言うものですかね?

さて、では今、現代美術界に、時代の才能が集まる場所は発生しているのか? それは、言葉を変えれば、時代の窮屈さや圧力の、裏返しの場所、つまりカウンターカルチャーですよね。今はカルチャーが弱すぎて、カウンターがカウンターにならない気がします。時代の表現のメインがサブカルですから。

でも、そもそもの話で言えば、ずっと日本の現代美術界は、才能が育つ苗床のような環境かも知れません。言わばカルチャー界の月見草。たぶんそこで、ドメスティックな権威になると、苗床の王になっちゃうのでしょうか。つまり、現代美術に限れば、花を咲かせて実を収穫するのは、海外ですかね?……苗床の王より果実の王。

#アートの思考過程

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