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挿絵小説『ラッキーボーイ』第9話

「別れ」

みなさま、ごぶさたでした。さて前回、翔子さんはカフェで哲也君と待ち合わせをしていて、突然、松井さんの訪問を受けたのでしたね。松井さんは純子さんから二人を別れさせるように指示を受けておりました。そして(愛しているのなら別れるのが本当の愛情)という正論をビシビシと直球で投げ込んできました。翔子さんは松井さんの話を黙って聞いておりました。反論すると、理屈で負けてしまうのがわかっているからです。高橋英樹似の松井さんは、物腰が柔らかくてダンディで、いつも軽い微笑みをたたえている素敵なおじさまですが、その顔で正論を言われると逆に抗しがたい空気になります。それはなにげに紙相撲で横綱に挑むようなものです。

翔子さんは、その圧に耐え切れずスクッと立ち上がりました。「失礼します」そう言うと、彼女はレジに向かいます。「彼を愛しているンでしょう? だから彼の幸せを考えて別れるンですよ」松井さんはわかっていませんね。彼女は外見こそ四十路ですが、心の中は二十五歳のバリバリの乙女なのです。翔子さんは、そのまま店を出ました。松井さんもすぐに後を追って出ていきます。すると店を出たところで待ち合わせにやって来た哲也君と鉢合わせになりました。「あれ、松井さん、どうしたンですか?」哲也君は意外なところで松井さんと会ったので、少し驚いております。彼は松井さんに全幅の信頼を置いているので、すぐに笑顔になりました。「君たちの将来について、相談したいと思ってね」この紳士的な態度が曲者です。「行きましょう。聞く必要ないから」翔子さんは、松井さんの圧力をさらにヒシヒシと感じているようで、警戒心が顔に出ています。「松井さんはいい人だよ。いつも僕に的確なアドバイスをくれるンだ」哲也君、またそんなのんきなことを言って!「じゃあ、この人の言う通りに、私たちは別れる? 愛しているなら別れろと言うのよ、この人」翔子さんもめずらしく攻めますね。哲也君は松井さんがここへ来たのが純子さんの依頼というのを知って、態度を一変させました。「お母さんが心配している」と聞いても、逆に「知りませんそんなこと!」と声を荒げます。哲也君も今日は少しエキサイトしているようです。もう少し落ち着いて! と思った矢先に、哲也君は松井さんをやや乱暴に階段の下に押し返そうとしました。帰ってくださいという意思を断固とした態度で示そうとしたのです。(もうお忘れだと思いますが、このカフェのドアの前は急な階段になっております)しかし、松井さんはそれをかわすように身体を横に向けました。すると力の加減というものを知らない哲也君は支えを失った状態になり、バランスを失いダイブする要領で、下りの階段を目がけて頭から突っ込みました。それは高飛び込み日本代表クラスのダイブです。十メートルは超える長さの階段の三分の一ほど落ちたところで、まず頭でバウンドすると、クルクルと三回転して、そのたびに階段の角で、額、肩、腰を、肉がえぐられるほど打ち付けて、最後に階段下のコンクリートの地面に、頭を強打し、首の骨がにぶい音をたてて砕けました。あーあ、目も当てられない光景です。まさに地獄絵図。これに驚いたのは松井さんです。落ち方が尋常ではなかったのを見て、顔面が蒼白になっております。「哲也君!!」すぐに階段を駆け下りたのですが、倒れた哲也君のありえない方向に傾いた首の角度から、即死しているのは明らかでした。「なんてことだ!?」松井さんは圧倒的な自責の念に襲われて世界の終わりを迎えたような顔をしています。それは人体切断マジックを失敗したマジシャン以上です。

翔子さんはリズミカルなステップで素早く階段を下りると、スケッチブックと鉛筆を取り出しました。松井さんは驚きの顔を見せますが、これから起こることを察して、固唾をのみました。話に聞いていた翔子さんの不思議な力をこれから目の当たりにするのです。しかし、事故とはいえ哲也君を殺してしまったかもしれない動揺で心はぐらぐらと揺れています。今はただ、どうか彼女の力が本物で、哲也君が無事に助かって欲しいとすがるような気持ちです。

翔子さんは哲也君のスケッチを始めました。今回は完全に死んでいるように見えますが、果してスケッチブックの力は通用するのでしょうか……。ですが、心配は無用のようです。哲也君は呼吸を回復しました。骨の再生する、言葉では言い現わすことができないぐじょじょじょ、ぶちゅぶちゅ、ごぼぼぼ、きゅんきゅん、ごーごー、しゅんしゅんしゅんという医療現場でも聞くことのない生々しい音とともに、哲也君の蒼白だった顔に赤みが帯びてきました。松井さんは、この奇跡のような光景を見て言葉を失っております。筆舌に尽くしがたいというのはまさにことの事だと強烈に実感しました。それと同時に、翔子さんの顔に刻まれたシワがさらに深くなりました。髪の毛もみるみる白髪に変化します。今回は少し翔子さんにも負担が大きかったようです。その変化は過去最高です。見た目年齢は、どうひいき目に見ても五十路をまぬがれません。松井さんの心に安堵と驚愕が交錯して呆然としているところで、哲也君の意識が戻りました。「……松井さん、そういうことですから、僕たちは別れません」そういうこととはどういうことです哲也君。彼の頭の中は階段を落ちる前から完全に繋がっているのか、死んでいる時は記憶が途切れているのか、興味深いところです。

松井さんはこの現象をつぶさに観察して、全てを理解しました。その上で、哲也君に向かって言います。「やはり君はこの人と別れなければならない。彼女はまだ二十代のはずだろう。それなのにこの姿だ。君はこの人の寿命が尽きるまで、この力を使わせるつもりなのか? 君は彼女を殺すつもりなのか?」(殺したいほど愛している)という極限の愛の表現がありますが、松井さんの正論に哲也君は返す言葉がありません。松井さんは、次に翔子さんに向き直って言葉をかけます。「あなたの自己犠牲は立派だが、もう充分でしょう。もっと自分のことも考えた方がいい」翔子さんはそれほど素直にこの言葉を聞いたわけではありません。あなたに何がわかるの? という気持ちが強かったのです。しかし、哲也君が松井さんの言葉に感化されて自分を見る目に自責の念が強くなることは確実なようです。いま五十路の翔子さんを見つめる哲也君の目は、完全に同情一色に染まっています。純粋な哲也君は今の段階でかろうじて二人の関係を愛情ととらえてくれていますが、それはいつ変化してもおかしくありません。ああ無情。彼女は別れを決断せざるを得ませんでした。

翔子さんのこれまでの人生とは、献身とは何だったのでしょうか。単なる自己満足だったのかもしれません。しかし、人生にも、愛にも正解はありません。だとしたらそんなことに頭を悩ますのは無意味です。見返りは無いに等しいにもかかわらず、愛する人に寿命を捧げる人生がここにあった。ただそれだけの話です。翔子さんは松井さんに別離を約束しました。

つづく

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