風の時代を読む
都会人と田舎で農作業をしている人が一日に見る景色の中にどれ程の情報量の差があるか?これは実際物理的に算出する事が可能であろう。例えば都会人の一日の生活を覗き見たとして、まず朝起きてから家を出るまでは当然家に自分が置いた物しかない空間にいる訳で、それは主に人工物でおそらく一つ10画位の物までしか置いてないであろう。例えば洗濯機は4画、机は8画等。次に家を出たとして、そこにもコンクリート、アスファルトでピシッと整備された道、車、ビル、机、クーラー。クーラーに至っては一日中気候が変わらないし、LEDに至っても一日中、日差しという名の明かるさも変わらない。仕事が終わって家についたら、またその繰り返し。一方田舎で農作業をしている人の一日は、家の中こそ変わらないが、一歩外に出たら、すぐに無限の情報、即ち、草、木、落ち葉、畑が広がっている。無限の情報というのは、草、木、落ち葉、畑は実際の画数で言ったら何画あるだろう。その情報量は無限大で、葉っぱ一つとっても無限に画数があり、都会暮らしのせいぜい一つ10画に満たない情報を遥かに凌駕していると言えよう。恐ろしいのはここからで、何十年も両者の生活を続け見たとして、その数十年後には恐ろしいまでの差が両者にある事は、薬物依存者なら簡単に想像できるであろう。積み重ねて気付いた時には死が近づこうとしているのに、脳がスポンジ状態の奴隷である事にも気付かないまま、自身で考え行動する気力すら奪われた状態で、自身で考える事が出来ない為、人と大きく違いのある人を認める脳の容量が無いまま、最後は大気と一体化していく事になろう。生きたまま死んでいる人。だから90才になって尚、死にたくないなどと言う人が出てくるのであろう。それは今まで生きて来なかった証拠であろう。
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