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ひろえっちの本質ノート #4 「できる」は「できない」の先にある

伝え方未熟を痛感!

相手に何かを伝えようとしても伝わらないとき、つい「なんでわかってくれないのかな」と思ってしまいがち。
だけど、ホントはそうじゃない。自分の「伝え方未熟」が引き起こしている現象なのだ。この「伝え方未熟」はわもんで知った言葉で、以来、私はどんな場合でも、伝える側の責任100%と思って伝える、というのを自分ルールとして定めている。

それで、いつも自分の伝え方未熟を感じる場面が「やりたい、と思ったことは、やり続ければできるようになる」ということ。
当たり前だ、と思うかもしれないけど、できない経験をし続けることは、人によってはとても辛いことに感じてしまうのだと思う。

超難問!「本当にできるようになりますか?」

答えは「わかりません」だと思う。
こう聞かれて「大丈夫!できますよ!!」を言うのは簡単だけど、本当にそうなのかどうかは、誰にも分からない、が一番正解に近いような気がする。
この質問の裏には「できるようになる保証があるならやるけど、そうでないならやらない」という心理があるのかもしれないな、と思う。

ウチのダンナさんが、コーチングのクライアントさんに話しているたとえ話がたまたま聞こえてきて「上手いこと言う!」って思ったんだけど(ダンナさんはたとえ話の達人だと思うww)それは「競馬をやるのに『当たる馬券なら買うけど、当たらない馬券なら買わない』って、それは無理でしょう?だけど『当てたい』と思うなら、買わなければ、そもそも当たる確率は0なんだから、買うしかないですよね」って。
当たり馬券が最初からわかっているなら、そもそも賭け事して成り立たないし(笑)全然面白くもなんともない、ってことにもなる。

ということは、何かが「できるようになりたい」と思ったら、とにかくやってみる以外に方法がないんだ、という、至極当たり前のことだけど、伝え方未熟な私には、上手に伝えられていないことも多々あるんだな、と思うのだ。

自分からチャレンジする気持ちにならなければ、何事も成就しない

このことは、自分の経験からも、コーチングをしてて、クライアントさんの成長変化のプロセスからも、痛感していることの一つだ。
よく、子育て中のお母さんから「ウチの子の『やる気スイッチ』、いったいどこにあるんでしょうか?」なんて聞かれたりするけど、ポチッと押して、はい!とやる気が出るスイッチなんて、ないんじゃないかな。
そもそも、やり始める前から「やる気」なんてないような気もする。
せいぜいあるのは「その気」じゃないのか?ちょっと「その気」になって、やり始めているうちにハマり出した状態を「やる気」と言う方が、私にとってはイメージがピッタリくる。

最初からやる気満々になる必要はなくて「やってみようかな」と、その気にさせることだけできればいいんじゃないかと思う。
そんなことをぼんやり考えていたら、Facebookの投稿シェアされていたTwitterの投稿でこんなのを見て、えらく感激してしまった。

これほどわかりやすく伝えることができるなんて!ということと同時に、「できないことは悪いことじゃない」ということを子どもが理解できたことがすごいな、と思った。
これは「説得」ではなく「その気を引き出した」という、かなり高度なコーチング手法だと思う。自分から「やってみようかな」と思う、というところさえ出てくれば、相当、可能性が高まったといえるんじゃないだろうか。

失敗じゃない、まだ成功していないだけ

コーチングのスペシャリストである本間正人先生が「失敗ではなく『未成功』なんです」とおっしゃるのを初めて聞いた時は、目からウロコだった。
よく「できるまで続ければ失敗ではなく経験になる」なんて言うけど、それはできるようになった人が過去を振り返った時に言えるだけで、できない経験の最中にいる人にとっては苦痛なだけだ。
「できない」は「今はまだできていないだけ」と思ってもらえるようになれば、この絵を見て諦めなくなった子どものように、気持ちが変化していけると思っている。

どんな事例だとわかりやすいかな?と考えて、結構な確率で話すのは、私の「結婚」についての体験談だ。
私は今の結婚が3回目なんだけど、これは、割と珍しいほうじゃないかと思う。「バツイチ」なんて言葉はすっかり定着してるけど「バツ2なんです」と言うと、ちょっと「おっ」という反応に出会うことが多い(笑)。
さすがに私の母も、私が3回目の結婚に踏み切ろうとした時は「あんたねえ、もういい加減にしたら?本当に懲りないんだから・・・」とかなり呆れかえっていた(結局、数年経ってからは「結婚してよかったね」と言ってくれてたけど)。
母の指摘は実に真っ当である。失敗してしまった、と思っていた離婚直後は「なんで私はみんなが普通にやっているような結婚生活ができないのだろうか?」と、できない自分に腹を立ててみたり、落胆したり、という状況だったのは間違いないからだ。
これで懲りないなんて、どうかしてる、と思うのも無理からぬ話。

でも、ある時ふと思った。
失敗した、と思って、そこでやめてしまったら、本物の失敗になってしまうけど「できるまでやってみよう」と思ってやり続けた結果、もし、満足いく結果が得られたら、過去に失敗だと思っていたことも「いい経験」とか「貴重な学び」ということになるのではないか、と。
結婚というのは、育った環境も考え方もまるで違う他人同士が家族になるという、よく考えてみればかなりリスキーでチャレンジングな取り組みだ。
じゃあ、うまくいくまでやってみたらいいんじゃないか、と思った私は、いい出会いに恵まれるように、いろんなことに取り組んだ(内容は秘密ですww)。
その結果、今のダンナさんと結婚することになって、それはもう、ガラッと変わって、本当に面白い人生になったのだ。

終わり方は「できるまでやる」か「自分の意思で降りる」かどちらか

とはいえ、全てのことが自分の希望通りにできるようになるかどうかは誰にも分からない。
できないまま終わったら失敗、ってことになるしなあ・・・と思うけど、それもまた考え方で、私は「これは、自分が今回の人生でやる必要がないことだったから、ドロップアウトします」と、自分で宣言して(口に出して言わなくても、自分の中での宣言で十分)、能動的に「やめる決定を下す」だったらOKだと思っているのだ。
「やめ時」は、自分の中の「納得感」だけだと思う。
私も、3回目に結婚を決めた時「これでダメなら、自分としてはやるだけのことはやり尽くした、ってことで、スッキリやめる決断ができるだろう」と思っていた。

一説によれば「諦める」の語源は「明らかに認める」だという。
なるほど、全てやり尽くして、自分の能力や意志や好みなど、全部明らかになって「それなら、できるようにならなくてもいい」と思えたなら、やらない選択をする自分を認めることができるんじゃないかと思う。
でも、一般的な「諦める」は、そこまで全てが明らかになるまでやっていないことがほとんどなんじゃないだろうか。
私自身、中学生くらいの時に、シンガーソングライターになって、ピアノの弾き語りで自作曲を歌う、というのにすごく憧れて、チャレンジしてみたものの、全然うまくいかなくて「私には才能がない」と勝手に決めつけて諦めてしまったんだけど、今、それが実現してることを考えたら、あの時の「諦め」は、単に自分に言い訳をしてただけのことだったんだな、とわかる。
今、人前で自作曲をピアノを弾きながら歌えるようになるまでには、かなり、紆余曲折、うまくいかないことだらけだった。
声だって、なかなか出ないし、ピアノも上手く弾けないし・・・できないことのオンパレードだった。
でも、やる気が落ちることは全くなくて、始めてから2年も経たずに、ほぼ、やりたいと思っていたことができるようになった。

最初の一歩である「その気になる」は、やっぱり「やってみたい」「できるようになりたい」という欲求以外にトリガーはないんだろうな、というのが結論だ。
その気からやる気に移行するかどうかは、ゴールに到達したい欲求が本物なのかどうか、ということだけだとしたら、何よりもまず「心の底から湧き上がる欲望」に気づく、ということから始めるのが一番なんだろうな、というのが結論。
今、それを質問しても「分からない」とか「何もない」という人が多いのがとても気になっていて、本当の問題があるとすれば、そこなんじゃないかなという気もして、また次のぐるぐるのループに突入しそうであるー《続く?》

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