ひろえっちの本質ノート#9 人の幸せって何なんだろう?
答えは自分の中にある
毎週水曜日はEMS(Essential Management school)の授業を受けている。
「本質行動学」というものを学んでいるんだけど、これ、本当につかみどころのないものだな、とよく思う。
学問ではあるけど、何かの権威の後ろ盾があるわけでもないし、研究対象は多岐にわたっていて、これ自体をどこかに分類して収納することはできないような学び。
もともと、答えの出ない問いを考え続けることが割と好きな私にとっては、こういう時間を取れることは極めて楽しく、毎週楽しみにしている。
EMSはどういうところか、というとその定義として
EMSは幸せなライフをマネジメントしていくために自ら学問していただく場
と書かれている。
いい言葉だなあ、としみじみ思う。
「マネジメント」の役割というのは、EMS的な定義で言うと「対象の望ましい状態をなんとかして実現していくこと」とある。
この表現はとってもしっくりくるなあと思っている。この「なんとかして」というところがめちゃくちゃ好き(笑)。
目的がそうだということは、当たり前だけど、マネジメントする対象である「幸せなライフ」がいかなるものか、ということをわかっていない限り、学ぶ意味0、ってことになっちゃう。
いや、待てよ。
これ、なかなか大変じゃない?もしかして・・・。
だって「あなたにとっての幸せってなんですか?」って、よくコーチングのセッションの中でクライアントに質問するんだけど、スパッと答えられる人、滅多にいないよー。
「幸せ」というものは、当然のことながら、人それぞれ全員違うものなので「これが幸せですよ」と言われたって「はぁ?」って感じになっちゃう。
つまりこの問の答えはこれまた当然のことながら、その人自身の中にしかない。
普通の幸せという幻想
11年前、魔法の質問の認定講師になって、そこから、今の仕事に向かう道を歩き始めた。
魔法の質問のメソッドはシンプルかつ強力だ。
「答えは自分の中にある」も、その時に初めて知って、衝撃を受けた考え方だった。
それまでの私は「答えを外に求める」ことをし続けて、やたらと他人を羨ましく思ったり、万人共通の「テンプレート型幸せモデル」があると信じていて、自分をそこに合わせることが幸せになることだと思い込んで、結婚にも2度失敗。
仕事でもストレスを抱え込んで病気になり、最終的には公務員の仕事を辞めて離婚して、全部強制リセットしてしまった。
そんなときに「答えはあなたの中にある」と言われて、とにかく悶々とするしかなかった。
自分の中に幸せとは何かの答えがあるというのか?
そもそも、私にとっての幸せって一体何なんだ???
わからないことだらけで、激しく落ち込んでしまった。
今朝、ふと思い出したことがあった。
それは、失敗してしまった最初の結婚で、相手から言われた言葉。
「そんなに何かやろうとしなくていいじゃないか。『普通』でいいんだよ、『普通の生活』がしたいんだよ」
そう言われたのだ。
普通って何なんだ?私は普通じゃないのか?
やりたいことがあっても我慢してやらないでいることが普通なのか?
頭の中がぐるぐるして、そこから一気に関係が悪化していったのだった。
結局「普通の幸せ」なんて、どこにもありはしない、ただの幻想に過ぎなかった、ということを知ったのが最初の結婚だったのかもしれない。
人生を一変させる「問いの力」
魔法の質問は、本当に人生を一変させる力があるものがたくさんある。
おそらく、私が、いわゆる「普通の人生」で飽き足りなくて、やってみたいことにどんどんチャレンジしたり、面白いことや好きなことで自分の周りを満たしたいと思うのは、生まれ持った性質から来るものだけど、それを実行に移すエネルギーを与えたのが「問いの力」だった。
今でも、自分にも使うし、コーチングのクライアントにはしょっちゅう使うものが「何でも叶うとしたら、何を叶えたいですか?」という質問。
自分の思考で作ってしまう「制約条件」を取っ払って、自分が心の底から望む状態は何なのかを見つける問いだ。
10年前の私は、この質問がとても苦手だった。
当時の私は「現実的に目に見えるものや根拠がはっきりしているものしか信じない」という状態だったから、そもそも、現状からかけ離れた理想像を語るなんて、全くもって不可能!
そして、そんなことをしても何の意味もない、という思い込みが強かったからだ。
しかし、よく考えてみれば、人間は未来を予測などできない。
未来というか、1秒後のことだってわからない。
これを書いている間にも、思いがけない人からLINEやらFacebookメッセンジャーやらでいろんな人から連絡が来るけど、その度「おっ!」と思ったりする。
そんな私が、3年後5年後に自分がどうなっているかをわかったような態度でいる方がおかしいのに。
そこから、意識的に「検証可能なもの以外信じない」という姿勢を自分で壊すように行動し始めた。
全くもって信じがたい話が目の前に来たとしても「あー、そういうこともあるのかもしれないなあ」くらいに受け止めるのだ。
実は、魔法の質問の仲間に入った時「この人たち、何か変な宗教にでも取り憑かれてるんじゃないのか?」と思った自分がいた。
今となっては笑い話だけど、本当にそう思っていたのだ。
だけど、宗教なら思い切って入信すれば良いではないか、と飛び込んだところから、世界が変わっていった。
「変な宗教」が幸せのカギかもしれない
今は、私が広めているネイチャー理論のことを「変な宗教」と言う人がいて(笑)、それを聞くたびに「あーあ、私が昔思ってたのがそのまま返ってきたわ!」と思わずニヤニヤしてしまう。
私が幸せについて考えていって今到達しているのは「自分が信じられるものがあり、それに従って、欲求を叶えていくこと」という感じだ。
欲求を叶える=自己実現なので、自己実現こそが幸せの本質だと思っているんだけど、その時に「私はこれで良いのだ」という、確信力が伴っていると、その幸せ感はより盤石なものになるんじゃないか、と思っている。
かつての私は「根拠があるもの、エビデンスが示されているもの、現実に目の前に再現されるもの」だけが真実だと思っていて、それ以外のものは信じなかった。
そのために「何でも叶うとしたら」なんて前提出されても「根拠がないことは考えられません」で終わってた。
だから、いつまでたっても、心の満足は得られず「もっともっと」と望んでしまう自分、他人と比べて「自分は足りていない」と思ってしまう自分がいた。
それはまるで、科学的・論理的に説明が可能なもの以外信じない「科学万能主義」という、それまた別な宗教を信じている状態に過ぎなかったんじゃないかと思う。
ネイチャー理論なんて「なぜそうなるんですか?」の問いには一切答えないので、それを「非科学的だ」と排除することは最も簡単だ。
でも、そう言う人だって、解説をしてあげると「当てはまる」と思わざるを得なかったりする。
「学習学」を提唱されている本間正人先生が、ネイチャー理論のようなツールに対して「非科学的だ」という批判があることについて「それは『非科学』ではなく『未科学』領域だと思います」とコメントされていて、これは秀逸な表現だ、と思ったのだ。
本間先生は、コーチングを行う中で、言葉や論理だけでは説明のつかない「何か」を感じ取って、それをフィードバックすることがよくあると言う。私も「わもん」を学んで、その感覚がわかるようになったので、本当にその通りだなと思うわけだけど、これまた、究極に非科学的とか宗教じみていると言われてしまう事象の一つなのだろうなと思う。
私にとって科学とは「この世の森羅万象のごく一部を捉えている方法論」という認識だ。
今は当たり前になっている量子論の話を17世紀の学者に教えたら「悪魔教か!」と言われちゃうんじゃないかと思う。
そのくらい、科学は「未知の領域を開拓し続け、進化し続けている方法論」としてパワフルなものである一方、そのパワフルさゆえに、それ以外のものを「変な宗教」として排除しがちなものなのではないだろうか。
宗教の布教といえば思い浮かぶのが「信じるものは救われる」という言葉で、そんな何かにすがるようなことで幸せになるわけないだろう、と揶揄されがちだけど、これぞ本質じゃないかと最近よく思う。
ただし、信じる「対象」は、究極的には「自分大好き教」で、その教祖や神は自分自身、ってことだ。
そして、過去のたくさんの宗教が、互いに影響しあって教義を発展させてきたのと同様、既存の宗教の教えを取り入れたり、さまざまな学びを繰り返すことで「自分大好き教」の教義もどんどん発展し、その人なりの幸せというものが実現していく、そんなふうに今は考えている。
変な宗教バンザイ!
自分の好きなものや広めていることを「変な宗教みたい」って言われたら、腹が立つ人もいると思う。
そりゃそうだ。大事なものを貶されたと思うから。
だけど、すごくない?宗教ですよ?(笑)
それだけ、人に影響を与えるエネルギーを持ったものだ、ということを認識してもらえているという意味において、素晴らしい褒め言葉だ。
それこそ宗教っぽいけど、私は仏教思想が好きだ。
中でも「唯識論」は、あんまりよくわからないながらも、いいなあ、といつも思う。
超簡単に言えば「世界なんてそもそも存在していない。自分が『ある』と思うからあるのだ」という話。
唯識的に物事を捉えると、変な相対主義にもならず、かといって、無用な信念対立にも陥らなくて、極めて快適に生きられる、という実感があるのだ。
何を信じるかの自由が認められていることは本当に幸いなことだと改めて思う。
だとしたら「私は何を信じたいのか」が自分でわかっている人こそが、幸せな人、ということもできるのかもしれない。
そして今日も「自分大好き教」の教義に従って、やりたいことをやり、理想の未来を考え続けるのであった《完》