2024/04/11

・重大なタスクがあると、そこに脳みそのキャパを取られて目の前のコミュニケーションに神経を注げないのがつらい

・いろんなこと、まあどうにかはなりそう。

頑張ってこう。

クラシックの春限定がセコマにあった。買い。
今日もろもろを全部すまして飲みたい。


思うに、どこか大きな企業に勤めたら、「働く」という場面において、為す事の全貌、目的などを少なくとも部分的には知らない状態を作ることになるのだと思う。直接的な感覚(センス)を眠らせることが、可能だし、必要だし、そうせざるを得ない場が出てくるのだと思う。
対して「自分が生きる」ことと直結した、コンサマトリーな労働を迫られる状況にある。全てを意識しなければならない。しかしそれでも残る、労働と生きることの間接性から、生きることの意味が逆照射もできるのではないかとも感じる。また、「省略」に意識的にもなるだろう。

「意思決定、目標設定、方法の確立、実働を1人で熟す」なかでしか身につかないものがある。それは、明瞭だが、いま意識したいのはむしろ、それでは身につかないものをどうするか。身につかないものは何で、また身につけるべきか。

取り急ぎ思うのは、学生上がりの個人事業主が知らない「社会人のマナー」なるものがあり、そして「マナーを知らないやつだな」と思われることによる機会損失があること。「社会人経験を一度積んだ方がいい」という言説の根拠もそこにある。マナーが実務上本質的に不可欠なのかとは関係なく、そのマナーを守るか守らないかで品定めする人が中にはいることを意識すべきだろう。(マナーへの疎外!)しかし、まあ、世の中の大抵は本質的でないものの方で回っており、それに良いも悪いもないのであるから、必要最低限を補う術を意識的に持とうと思うし、現状、その手段には事欠いていない。

「センスが悪い」というのは、あまり使いたくない表現です。そこで出発点としては、「センスに無自覚な状態」という言い方をしてみます。
 最初は「センスが無自覚な状態」で、そこからセンスに目覚める。自覚的になる。
 つまり、もの選び、組み合わせに自覚的でない状態が最初にある。そこから、より意識的な状態になっていくわけです。
 だけれど、実は、センスに関して「意識が高く」なることが本書のゴールなのではありません。禅問答みたいな話ですが、意識的すぎるもの選びや作品は、かえって何かが足りない感じがする。むしろ、「無意識」が必要である。無意識こそがセンスを豊かにする。このことが、話が進むにつれて問われる予定です。

千葉雅也『センスの哲学』(文藝春秋:2024)pp.36-37

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