2024/04/05、君と世界の戦いでは

4時半に起きて、一人シンクを掃除して、朝食を食べ、荷物を詰めて7時半すぎに家を出ようとしたら、軽トラのバッテリーがあがっていた。スモールライトがつけっぱなしになっていた。

9時05分のフェリーに乗るので、それまでにはフェリー乗り場に行かねばならない。
数件電話をかけ、4件目、ここ数日引越しバイトを手伝っている運輸会社の専務が、「おう、今迎えに行ってやる」と通話後5分で来てくださった。

ありがたい。

グレーのハイエースに揺られ、鴛泊へ。
とても気持ちのいい方で、いろいろ雑談をした。ぼくと同い年の息子さんがいること、かつて川崎に出稼ぎに出たが暑くてたまらなかったこと、今は島の気温もあがっていて、今年の夏は暑くなりそうなこと、これからは時代も変わって、島の仕事を継ぐ人がいないこと。
「まあ、君も大変だな、頑張れよ」と言葉を戴いた。

せっかく若い時期に島に来たのだ、それが島が「再生」するなにかにならずとも、島を盛り上げ賑やかにしたいという気持ちが、不遜ながらある。たくさん若い人を呼んで、そういう「盛り上げ」が並び立つ形を作りたいし、関係人口を300人くらいは創出したい。

(しかし)人口が減り、高齢化が急激に進む中で、島が衰退していくのは、少なくとも今のところ、「摂理」という言葉が似合うくらいには、自然なことの運びであるとも思う。そこで生まれてそこで生き続け死にたい人の願いは担保されかしと思う気持ちと、それとは別に、誰もが「地方創生」というけれど、じゃあ100年後の未来を構想する時、これから生まれてくる人が、たとえば利尻島に住むことをどう考えるのか、というのは、政治的な観点と文学的な観点と双方から、考えられていいはずだという気持ちがある。
そういうことをオープンエンドな状態から明確に価値判断して、未来をイメージして、前向きに進んでいる人は、おそらくそんなに多くないだろう。
能登の震災もそうした問いを浮上させたかに見えたが、各々言いたいことを好き勝手言って見せただけで、結局雲散霧消してしまったかに見える。

まちづくりに限りませんが、私たちは課題や問題に直面すると、すぐに「対策」を考えようとします。心理学的に言えば、問題や課題を目の前にすると、自分の心の中に不安が生まれるので、その不安を解消するために、「とりあえずできそうなこと」を考え、自分の不安をなくそうとするのでしょう。これが「問題」だ、だからこの「対策」をとる、というような「出来事→出来事」レベルの反応が非常に多いのです。「スーパーの撤退」が問題だ、「空き家の増加」が問題だ、「今年の出生数がまた減ったこと」が問題だ、「だから、どうしよう、こうしよう」という対策づくりに走ります。また、まちの人や域外の人々を対象に、「まちづくりのアイディアをください」というアイディア・コンテストを行うこともよくあります。様々な可能性を考えることや、それがまちづくりの刺激になるという側面はもちろん大事なことですが、やはり「出来事→出来事」レベルのアイディアになってしまうことも少なくないようです。
「目の前の問題」は、「目の前の症状」であることが多いのです。スーパーの撤退も空家の増加も出生数の減少も、それ自体が「問題」なのではなく、より根本的な問題の「症状」ではないでしょうか? そして、スーパーの撤退や空家の増加や出生数の減少という"問題状況"を、どういう状態にもっていきたいのでしょうか?スーパーが残ればよいのでしょうか? 空き家はどういう状態になればいいのでしょうか? 出生数やまちの人口はどうあれば、持続可能で幸せなまちになるのでしょうか?(…)
すぐに問題の解決策を考えたくなる、対策に走りたくなる衝動を少し我慢して、まずは、全体像をじっくりと考える必要があります。考えることは二つです。「そもそもどういう姿にしたいのか」、そして「なぜ、今そうなっていないのか、その構造がどうなっているからか」です。

枝廣淳子『好循環のまちづくり』(岩波新書:2021)pp.2-4

とても大事な指摘だ。
しかし、僕はこういうと、原理的なことをすぐ考えたがり、発想が唯物的になり尊重すべき対象ぼやけてしまうので、とりあえず、今生きている人と、その子供くらいの文学の視点を導入して照準を絞る必要がある。
また、重要なのは「とりいそぎどうするか」の近視眼と「文明史的にこの状況をどう捉えるか」の遠視眼とのあいだに、いくつものパースペクティブを意識的に設定することだと思う。

地方は既得権益化していて、一度徹底的に死んでもらって若い人が作り替えていくべきだ、ゾンビが居ては生き返れない、みたいな言い方をする人がいる。わからなくはないが、雑すぎる議論だ。
あるいは、田舎の年寄りは何もわかってない、新時代を生きられる俺の仲間をたくさん連れてきて村を作るんだ、という奴にかつて会ったことがあるけれど、これも雑すぎる感性だと思う。

アイロニカル方向に行くともうそればっかりになるし、ケア方向に行くとそればっかりになる。もっと難しいことを考えてほしい。

千葉雅也のツイート

作り変えていくことには、ラディカルな意味で破壊が伴う。それは、自身の足場をも掘り崩すようなーーアイロニカルなーー営みにもなるだろう。だからこそ、その現場で、これまで生きてきた人、現に生きている人、これから生きていく人、これから生まれてくる人がいるということは忘れてはならない。そしてそれをわかった上で、なお進んでいかなくてはならない。そしてまた、ミイラ取りがミイラになる宿命も含めて、物事に対する構造的な理解をする必要もある。その宿痾をひとつの身体で引き受けて、自己否定を繰り返して死なないためにもそうである。

世界に対して「君」はあまりに小さい。これが政治の感性。「君」には無限があると考えるのが文学の感性。この無限と(極小ではない)1のあいだに、私たちの世界体験は存立している。

カフカの言葉に、「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ」という言葉があり、ぼくはずいぶんと長い間これを自分の中に住まわせてきた。(...)
人間には、時として、世界がそのような形姿で現われる、そういうことがあるのではないか。自分の目の前にひろがる世界、自分がそこに属する世界、いや、自分がそうである世界がもはや自分ではない、そうしたことを認めざるをえないというように。
ルネ・マグリットの一つの絵では、脚がそのまま靴になってしまう。それを有機物が無機物に犯され変質するさまとして思い浮かべるなら、ぼく達はそこから一人の人間の姿を思い浮かべることができる。彼はたとえば、ほとんど樹木となっている。彼は魔法をかけられたのだ。その彼という樹木のなかで、幾本かのびる枝先の一つの先端だけがまだ“彼”だという時、その“彼”は、自分に向かい、“君と樹木の戦いでは、樹木に支援せよ”と、最後の伝令を、送らないだろうか。ぼく達にも、もし見ようとすれば、世界はそのようなも
のとして見えている。正確にいうなら、九割九分の非・孤独と、一部の“たわいもない孤
独”からなる世界。考えてみればずいぶんと“新鮮な”世界がそこにはあるのだ。

加藤典洋『君と世界の戦いでは、世界に支援せよ』(筑摩書房:1988)pp.7-8

まあ、もう少し俺はいろいろな判断を保留してみたい。ともかく、毎日毎日皆さんに助けられる日々を感謝して、しっかり進んでいく所存である。


今日は西興部を訪ねます。

稚内の喫茶店「北門館」
レアチーズケーキとサイフォンコーヒーセットで600円

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