2024/04/21、しっくりとしたルーティン

漁師のお兄さんが、採ってきた行者にんにくをお裾分けしてくださった。
別名アイヌネギ。根の部分を刻み、ニンニクがわりに油で熱し、あとは唐辛子と、ざく切りにした葉をゆでたパスタとあえてペペロンチーノをつくった。

これがうますぎて、昨日は3食、今朝もこれを食べた。繰り返し作る中で、自然と工夫もしたくなる。オリーブオイルにバターを混ぜたり、バターだけで、さながらほうれん草のソテーみたいにくたっとさせたり。醤油をあえてみたり、キノコを足してみたり。

昨日アーレント『活動的生』の「労働」の話になった。「労働」は終わりのない円環的な活動。肉体的な欲求を満たす活動をさす。それ自体は、「(人工物の世界」を、保全はしても、形作りはしない活動である。
ここではアーレントへの批判は保留するが、友人と話していておもったのは、日々の生活がしっくりきていないと、何かものづくりだったり、アドリブ的な行動のパフォーマンスが高まってこないということだ。逆に、何かものを真剣に作ったり、演技すること、しゃべることなどに賭けている人は、日々のことにもだらしがなくない。身だしなみだったり、日々の整理整頓だったり、お茶の飲み方だったり。それは単なる客観的な丁寧さにはかぎらず、その人にとって丁寧だ、というような意味でね。なんにせよ「しっくりくるように」やってる感じがある。
ぼくはそれを、まさひろさんから教えてもらった。
がさつさは、良くないよね。

たとえばさきほど述べましたように、山村の社会には「仕事」としての労働と、「稼ぎ」としての労働を区別する発想があった。人間が山村という自然条件のなかで生きていくために必要な労働が「仕事」であり、収入を目的としておこなく労働が「稼ぎ」だった。この労働観にしたがうなら、「稼ぎ」としての労働は、労働全体のなかの一部分にすぎず、普通「生活」としてとらえられている領域でも、多くの労働がおこなわれていることになる。このような労働観からとらえられたらとき。労働はどのようなものとして考えられるでしょうか。私はこの視点にたつかぎり「労働とは何かをつくることだ」というようなもっとも素朴な労働観が核心をついているという気がします。この場合、労働は何をつくっているのか。物をつくるという場合もあるだろうし、農作物をつくるという場合もあるだろう。しかしそれだけではなく、物に対象化されないものつくる労働というのも当然あるはずだと思うのです。
 たとえば、さきほどの村の例でいきますと、村の寄り合いにでるというこも「仕事」に属していた。別に寄り合いによって、物が作られているわけではなに。しかしそこでは何かが決まっていく。たとえばそれは、これからの村づくりというようなものかも知れない。とすると、ここでも物ではない何かが、寄り合い参加者たちの手で作られていることになる。

内山節『自然・労働・共同社会の理論ー新しい関係論をめざしてー』(人間選書:1989)p.19

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