2024/10/08

利尻の寒い夜に、久々に人文書を読み通した。
綿野恵太さんの『逆張りの研究』。読むのは、発売まもなく読んだ、昨年夏以来、二回目。

今日、ひさびさに一冊の本を読んで思ったが、本、とくに、人文書を読むことには、ある種の気持ちよさがある。
ここで言いたいのは、難しい概念や哲学者の人名が書き込まれた本を読めて得意げに思うとかいう、人文書に批判的な文脈で言われる悪趣味な気持ちよさではない。本を読む中で、「自分なりに考える」ことがもたらす気持ち良さ、爽快感である。

寝込んでいる時期、外に出て、運動すると、それだけで爽快感がある。体を動かすと、「ぼんやりしていた自分の輪郭がはっきりする」そんな感覚を覚える。この世界に確かに自分は居る感じ。とても気持ちがいい感覚。

寝込んで、SNSばかりスワイプしている時、だらだら動画を見ている時、私たちは、物事を考えられていない。自分なりの思考が、そこにはない。考える自分が、情報の山に埋もれている。はたまた情報の海に溶けている。
本を読むことは、ぼやけすぎた自分の輪郭を、蘇らせてくれる。この点で、人文書を読むことは、身体を動かすことに似ている。運動が私たちを刺激して自分の身体の感覚を取り戻すことに寄与するように、私たちはページをめくり、読む作業を通じて、自分の思考の感覚を取り戻す。

最近、自分の大学生活を振り返って、「自分は、日々本を読んでいたが、なににもなっていないじゃないか」、と自虐的なる節があったけれど(これは定期的にある)、日々運動をして健やかさを保つのと、少なくとも一部重なる意義が、読書にはあったと思う。「悪趣味な気持ちよさ」も、確かにあっただろうが、本を読むことで、自分が作り変えられていくような気持ちよさがあったのも事実だ。

また、さらには、「書く」ことには、具体的な形に落とし込む、という点で、「読み」で掴んだ輪郭を、より鮮明にする効果があると思う。だから、たとえば日記をここに書くのも、たいそうに意義とか考えず、「健康を保つための日々のジョギングしている」くらいに、自分の健やかさを保つものだと捉えたらいいと思った。

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