2024/04/17、ゼロの身体をまずは磨こう

日記の更新が捗らなくなっている。慌ただしいということがあり、理由はそれに尽きる気もする、けれどもあえて言うなら、「考えるのが面倒くさくなっている」のだと思う。
2つ思い当ることがある。その1つ目をここに書く。
この面倒くささは、ぼくという人間にとって必ずしも悪いことではない。というのは、考えすぎる、というのがぼくの悪癖だからである。
考えすぎ、という表現も解像度が低いだろう。事前に考えすぎる、ことが問題なのだと思う。さらに言ってしまえば、その「考え」というのは、理知的な思考、計画ではなくて、臆病さから来る逃避が形を変えたものに過ぎない。その実、本当に必要な思考が踏めているわけではない。怖くて、体をこわばらせ、実質を見れば頭も動かず、無意味な恐怖で支配されている。
利尻に来て、日々目の前のことに追われている。目の前のことに追われているといえば響きが良くないかもしれないが、それはつまり、臆病になる前にまず身体が動いているということだ。勇気とか、おそらくそんなにかっこいいことではなくて、動くことを迫られ、現に動いているという事実が、今は重要だ。
臆病になっている暇などない。オレが動かな仕方がない。
この、考えない「ゼロの身体」=「考え・気持ちではなく、生活が進む中での身体の動きそれ自体がドライブ源になるような身体性」をまずはみにつけたい。そして、そこから、できれば理知を、身体から分離することのない、言いかえれば刻み込まれた「野生の勘」としてのそれを、十分に発露させていきたいものである。そこまでには、まあまず少なくとも2年。


文章を書くスピードが速くなっているとも感じる。実際、上の文章には、いくつかのカテゴリーミステイクがある、けれど、この、考えずに書いている感じも、まずは大事にしたい。一般に日々の考えはその多くが実は自動化されている。思考するというのは、その自動化された思考を客体化することであり、
考え1→考え1に対する考え2→考え2に対する考え3…。
というふうにリニアにつらなり、片面的に折り重なり、ネットワークを結んで本当の思考が出来上がるのだと思う。本来の意味で考えるのには、だから時間が必要であり、複数の観点が必要である(その観点をだれでも扱えるように取りだしたのがたとえば5w1hのようなフォーマット)。
おそらく、書くスピードが速くなっているというのは、思考=逡巡をせずに、今かけることを、そのまま放出しているということ。それは、そこで留まっては只の無思考ということになるが、しかしここには、「逡巡をする手前でオレは何を取りだせるか」が賭けられている点で重要になる。時間を観点をあるいはフォーマットを導入すれば、そのゼロ度は失われていくだろう。その代わりときには精緻になるかもしれないが、このゼロ度で書けることを書き残しておくこともまた、根拠ははっきりといえないが重要だ。繰り返すが、このゼロの身体をまずは磨いて、そこから真の意味で、思考をはたらかせていきたい。

千葉雅也『センスの哲学』でいうセンスは、身体性=私の固有性と結びついていたが、感性的なものは、身体とはまたどこか差異化した方が、感性概念が豊饒化するように思った。いい本でした。

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