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セルフネグレクト

鏡。血を吸うカメラ。
「この世で一番恐ろしいのは、自分自身の恐怖する顔を見るときである。」

小さい頃から鏡で体をよく見ていた。
動いている姿は嫌いだった。動く自分を見た記憶は数えるほどしかない。




大学を休み都落して今は和歌山県新宮市にいる。逃げのびた。


昼は畑を耕して食後に20分かけてコーヒーをいれる。ゆっくりと時間を使うことは丁寧というより大胆に思える。ともあれ朝から体を動かし昼過ぎにはゆっくり淹れたコーヒーを飲み夜は本を読んだりものをかいたり人と喋る、そういう日々のなかで、自覚へと至る。

小麦の種蒔く準備のため鍬(くわ)で畝と畝のあいだの溝を掘っていくのだが、鍬を一定の高さから振り下げ土をすくい脇に放る、この一連の動作がスムーズにいかない。全然進まずひとり疲れるばかり、背中も腕も肩も痛い。そんなようでは日が暮れると言われた。

そして思う。ぼくは自分の体勢や動作を全然把握できていない。




水たまりに足を突っ込んでいることがよくある。体をあちこちにぶつける。次の瞬間に体を置く場所への意識が勝手に途切れる。ふつうに痛いし靴は泥だらけになる、でもあまり気にしていない愚かな自分がいる。どう考えても不自然なように動いて、失敗する。
自分の意識と体が全然繋がっていない。かつて高校の体育祭で踊るダンスの練習中にビデオをチェックしたら自分の動きが脳内のイメージとまるで違っていてひどくショックを受けた。

思えば、身体に動作を落とし込むときは常に言葉に頼ってきた。器用な人は自分の身体について(頭でなく)身体で知っていて、いうなれば身体で考えて、自分に合う「動き方」をおそらくごく自然に見つけている。ぼくにはそれが難しくて、言葉を介してきた。鍬を振るときは先端を目線で追い続けたほうが楽だ、振り下ろしてから次に振り上げるまで円運動が途切れてしまったらエネルギーは無駄になり消耗がはげしい、とか。


外からの刺激で知見が蓄積されたりふとしたことで気がついたりという遠回りの過程や偶然の幸福を経ないかぎり自分について制御ができてこない、一般にそれはそうなのだが、身体が独りでに制御してくれる部分が極端に小さい。ぼくは、身体的な経験が意識にのぼるまで待って、頭で整理し、ああでもないこうでもないといいながら身体に落とし込んでいっている。意識的な制御の比重が他の人より大きい。

人生に対して言い訳がましいかなとも思うが、そういう時間がぼくにはかかる。身体にイメージがなじんで来るまでが異様に遅い。であるから、いつのまにか自分を無知ゆえに苦しめているのだろうし、他人に対してもきっとそうだ。自分を知らず他人も知らない。なんでお前はずっと犬かきをしているんだ、そろそろクロールすることをおぼえなさいと放送部時代のコーチに言われたことを思い出した。

自己イメージを得る営みは、ひとつには環境によって強いられたときに起こるのだろう。知らねばならなくて、知る。「社会的マイノリティ」は自らがどのような存在であるか社会によって意識させられやすい。レバノン出身のジャーナリスト/作家アミン・マアルーフの言葉を借りれば「アイデンティティとはつまり傷」であって、その点自分は、例えば右足に生来軽い麻痺があるけれど、ぼくと初めて会う人のほうがぼく自身よりおそらく何倍も気を遣ってくれている。ぼくの遅鈍は周囲の「優しさ」を物語る。自分を輪郭づけることはある面で(ときには自分が壊れてしまうのではないかと思うほどの)痛みを伴うことであって無理にやる必要はない。

しかし、今のぼくにとっては「自分を知る」ということが純粋な快楽となっている。人生のそういう時期に差し掛かっている気がする。ああ、おれというものはこういう考え方をするのだな、自分の身体はこういう動き方をするんだな。これはまあ変わらないとは言い切れないけど、とりあえずクセなのだな。

身体は生きてきたなりに傷を負っていて、これからもこの時代に生まれた者として、相応の傷を負っていくのだろうか。茂木健一郎は―――ぼくは彼のことを何かにつけて馬鹿にしているのだが―――「人生はそもそも自分ガチャだ、自分に納得していく過程だ」なんて言っていた、なんか軽くて嫌いだ。また「人間の条件は反応ならざる応答から生じる複数性だ」とアレントは述べている。

「思うより人間はバカだ」みたいなことが判られてきたように言われしかもそれを言うのがさも賢いかのようにされている時代だ、けれど、単純な反応の外側があるとしたら、応答が出来るとしたら、ぼくたちには相応の時間が必要なのだろう。人生をかけて傷を得ながら、傷に駆動され、傷にいつか納得するという果てしない過程。いつの間にか進んでいるどうしようもない過程。せめて慰め合いながら受けて立つしかない。そうして自らも歴史的な存在と成り果て、いつか死ぬ。そのくだらなさ―――バカさというよりも滑稽さ―――をまるごと愛せはしないだろうか。

薄が風に吹かれるシーンから思い出されるのは、国木田独歩の『武蔵野』、に歌われる芭蕉の句、を朗読して聞かせたコーチの声。(「同じ路を引き返して帰るは愚である」と今年は何度言っただろう?)それらを夢想しながら眺めた山並みの数々、日暮時。薄はススキであって、もろもろのイメージに結びつかなかったほうが良かったのではないかと思うこともあるがしかし現に結びついてしまっている。そのことを知る。そして考える。なぜそれらが印象に残っているのか、イメージの連なりについて思考するのは楽しいし、ではどうしようかと見晴るかすのだ。
鏡から思い出すのは、殺される直前に凸面鏡を向けられた女性の怯えた顔、怯えた自分を鏡を通して見た女性の恐怖の表情だ。映画「血を吸うカメラ」(原題:Peeping Tom)。トラウマ体験を軸に据えた映画それ自体が、鑑賞時のぼくにとってずいぶんトラウマチックだったようである。


いや、本当は、傷なんてどうでもいいからどこかにいきたい気持ちと、傷ーー自分の今の姿ーーを見やりたい気持ちと両方抱えている気がする。

「人が何に動機づけされてるかを想像して悲しくなっても仕方がない。何かに動機づけられてしまっているその人の体捌きを、ステップを、目線を、眺めて、できることなら愛して、気が向いたらたまには手を取って一緒に踊ればいい。気が済んだらベッド眠ろう。」なんて昨晩思ってメモしていた。ぼくは踊りがとても下手だ。

まあ、この身体で、この自分で、なんとかやっていけるかな。種を蒔き、鍬を振り下ろし。自分のクセを丁寧に確認しながら、そう思える日を探るのが最近だ。なかなか難しいけれどね。あまり心配はしていない。

2021/11/20 西宮

追伸1127 常に関係の中でのモードチェンジに気を配りたいとも思っていて(このテーマでしかノートを書いてきていない気がするけど)もう少し語彙が揃ったらかくかな


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