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生きてりゃゴミは出る

昨日・おとといは大荒れに荒れた。
このマガジンは「心が乱れた時の記録」だが、乱れたなんてものではなく、台風のように荒れた。

最初のきっかけは奥さんだった。
12月に入ってから、自分が面倒に思っていることを遠回しにやらせようとしてくる。少なくとも僕にはそのように思えた。
そのこと自体はささいなことなのだけど、ずっと溜まっていた「自分が面倒に思うことをどうして俺がやらなきゃいけないんだ」という思いが爆発した。
「お前が嫌だと思うことは俺だって嫌だわ!当たり前のようにやらせようとするな!」

奥さんは面食らったようだ。
「やらせようとしたわけじゃない」
「そんなに嫌だとは思わなかった」
そう言って、怒りでフーフー言っている僕の話を落ち着いて聞いていた。

これがおとといの朝のこと。
思えばこれが最初の始まりだった。
このあと僕は母からの電話にキレ、仕事を一緒にしている友達にキレることになる。

母親からの電話は午後に来た。
父親は認知症の気配が近づいてきている78歳だ。
同居する母は4歳下の74歳。2人で埼玉のマンションに暮らしている。

どうしたの?と聞いてみると、携帯電話を買い替えたのだけど、トラブルが起こってどうしたらいいかわからないとのこと。
先週まで使っていた電話の電源が入らなくなってパニックになっている父とスーパーに行ったら「1円でスマホ買えます」という勧誘に引っかかり、あれよあれよという間に2人とも契約させられたという。
電源が入らなくなったのは1台だけ。壊れているかどうかもわからないのに2台も機種変したが、その後理解できないメールが入ってGmailが使えなくなったと話していた。

両親はスマホを持っているが、理解できていない。
アプリのインストールもできない。スクリーンキャプチャもできない。
一度丁寧に教えてできるようになっても、数日すればできなくなってしまう。
そんな状態だから、ちょっと知らぬ人に親切にされると神様に出会ったかのような気持ちになってしまう。
それで相手の言うなりになってしまう。

しかも相手の言っていることを理解したり、話の根拠を調べたりすることができないものだから、強く主張されたことに疑いを持つことができない。
違和感を持っても「きっとこの人が言うのが正しいのだろう」と信じてしまう。
だからことあるごとに「自分が理解できないことがあったときは勝手に動かずに先に俺に相談してくれ」と言っていた。

しかし、認知力の衰えた父は自分の理解できないことが起こると軽いパニックになってしまう。
パニックになると「困ったら息子に電話」ということがすっ飛んでしまい、とにかく何かしなければならないと焦りだす。そんなところに親切そうな顔をした人がいたら簡単に引っかかってしまうのだ。

もし僕に電話を一本入れてくれていたら、なんの問題も起きなかった。
母親は父親より理解力が残っている。
電源が入らないならやるべきことを伝えられるし、もし故障だと分かったとしても両親の手を煩わせることなくスムーズに良質なサービスを契約できる。
しかし今回はそれが叶わなかった。

認知能力が衰えてきている両親と離れて暮らしているもどかしさ、パニックになる父親に対して「落ち着きなさい!」と意思表示できなかった母親の態度(僕が子供の時だったら、ビシッと言えていた)、情報弱者を食い物にしようとする通信業界の体質、それらがぐちゃぐちゃになって僕の感情をかきむしった。

最後は母親と話す電話で叫んでいたように思う。車の中で。
「なんでだ!」と。
その激しさは自分でも信じられないほどだった。

そして昨日は仕事を一緒にしている友人にである。
事務所にする部屋のフローリング準備。
自分が使うからしっかりと床断熱をしたいということで現場に到着する。
買い足りなかった資材があるからということで友人はすぐにホームセンターに向かった。
僕は作業を開始する準備をした。

まずは部屋の片付けからだった。
物を移動し、床が全面見えるようにする。
すると荒れ果てた現実が露出した。
壁を補修した時に使ったであろうパテがそこらじゅうにポツンポツンと垂れていて固着している。金ベラでこそげ落とさないといけない。
仕方がないのでこそげ落とす。
一つ二つがポツンとあるわけでなく、ダラダラこぼしているような状態だからすごい量だった。
ようやく終えて掃除機できれいにしようと思ったが、掃除機ヘッドがついていない。
探そうにも建物中が適当に物が置かれていてぐっちゃぐちゃ。全然見つからない。ゴミの山の中を探すような気分だった。

ようやく探し当てて掃除機をかけていたらなんだか切なくなってきた。
「なんで俺こんなことしてんだ?」
この作業は友人は今日中に仕上げたいと思っていた作業。
しかし僕と友人と2人では死ぬ気でやってもしかしたら終わるか終わらないかという感じなので、時間の余裕はない。
なのに、床の上には物が散乱し、片付けたら作業開始できるような状態じゃない。
これで「時間内にやりたいです」はないだろうと思った。

整理できずにとりあえずその辺に物を置いておくというのはこの友人の習慣である。
お金儲けに直接的なプラスにならないことには手をかけられないタイプ。
しかし、整理されていない状況で作業することは非常にストレスだ。
何か物が必要なたびに作業を中断して物の捜索に当たらなければならない。
そんなことをずーっと続けてきたし、ことあるごとに整理してくれと言ってきたが改善してこなかったことに怒りがふつふつと湧いてきた。
この怒り、僕の中で溜めておくのか?

しかしこの日は溜めていたら仕事にならないと思った。
友人が買い出しから帰ってきたので話した。
爆発させないように抑えながら切々と。

友人は作業は進めずに休憩スペースに言ってしっかりと話を聞いてくれた。
「申し訳なかった」
「ずっと言われていたことなのにやれなかった」
「少なくとももう少し準備できたと思う」

友人は友人である。
普段非常に気を配ってくれるいい人だ。
いい人間だと思っているから付き合っている。
しかし言いたいことのすべてをいつもぶつけるわけにはいかなかった。そんなことをしたらさすがに人間関係はうまくいかない。
うまくいかせるためにはその場はスルーしなければいけないこともある。

これは奥さんとのこと、両親とのこともそう。
本当なら何か不満を感じたりしたら話し合えばいいのだけど、いちいち話していたらスムーズなコミュニケーションは難しい。話し合いばかりで楽しい時間を味わうことができなくなる。
だからその場は自分が飲み込んでスルーするのだけど、結局飲み込んだ感情は自分の中に残っている。圧力鍋の蓋のように封印しているけど、出口を求めて動き回っているのだ。

だからどこかで圧力を下げるために放出しなきゃいけない。
それが昨日・おとといだったのだと思う。

昨日の夜は静かだった。
荒れ狂ってエネルギーを使い果たしたのだと思う。
この時初めて自分が乱れていたことに気がついた。
書こうと思った。
心が乱れたらまずは紙とペンで自分のために書く。

書き終えたとき、最後に自分に問いかけた。
「この感情、これからどうしたらいい?」
すると自分の心の声が返ってきた。
こんな内容だった。

どうもしなくていいよ。スッキリしたろ?生きてるって楽しいだろ?怒るってのも素晴らしい味わいだろ?よかったじゃないか。みんな話聞いてくれて受け入れてくれたじゃないか。最高にいい経験だったじゃないか。世界は完璧じゃないんだよ。しょうがないんだよ。でも諦めて悲観して我慢ばかりしている必要ないんだよ。どうしても我慢できなかったら思いを伝えればいいんだよ。お前がちゃんと誠実に生きていればちゃんと聞いてもらえるんだよ。何も心配いらないよ。大丈夫だよ。よかったな、素晴らしい2日間を過ごせて

聞こえてきた心の声

世界は完璧じゃないし、すべてが自分の思い通りになるわけではない。
そんな中で生きていくのだから、我慢してストレスが溜まることがあってもしょうがないのだと思った。
飲み込んだマグマが溜まることは仕方がない。

でもマグマは一定量以上溜まると圧力鍋の蓋では抑えられなくなる。
圧力鍋はその時鍋が爆発しないように、圧力が高くなりすぎる前に圧力を抜くシステムがある。回転しながら蒸気を逃してくれるアレ。
今回僕の心はそれに似たシステムが作動したのだと思う。
人間というシステムが「これ以上無理するな」と安全装置を働かせてくれた。

おかげで僕は楽になった。
今日は不思議なほどに楽になっていた。
誰と話しても心から笑いことができた。
呼吸もいつも以上に楽だった。
息をすることに幸せを感じた。

昨日の夜ノートに気持ちを書いていた時に初めて気がついた。
だれもかれもがちゃんと僕の話を聞き、受け止めてくれていたことに。
爆発する僕を観察しながらじっと話を聞いてくれた。
何も言い返すことなく、認めてくれた。
なんだか不思議な気持ちだった。

僕は聖人じゃない。
よりよい人間であろうとは思うけど、肉体がある限り、感情と無縁に生きることができない。
欲と無縁に生きることはできない。

僕が生きることでゴミが出る。
燃えるゴミ・プラスチックゴミ・不燃ゴミ・粗大ゴミ。
それをゼロにするのは無理だ。
同じように心のゴミが出るのも仕方がないのかもしれない。

ただそれを溜め込みすぎちゃダメなんだろう。
ある程度適切なところでゴミは捨て、整理する。
そういう習慣が自然と身につくようにするためにも、心が乱れたら紙とペンに自分の気持ちをつづるのがいいのだと思う。
今まで何年も瞑想を続けてきて、僕はだいぶ穏やかになり、うまく生きられるようになったけど、それでもゴミは出る。
瞑想を補完してくれるもの。それが紙とペンで自分の心と向き合うということなんだろうな。


▽ 鋸山(千葉県)の麓で呼吸で体を整える場所を運営しています。

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