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愛はどこまでいってもエゴ。
「この世に善悪など存在しない。」
少し前にひろゆきさんがご自身のYouTubeで語っていた一言だ。
「人を殺すのは悪でしょう」という反論が飛んできそうだが
それすらも肯定、称賛されていた時代がかつて日本にもあった。
哲学好きな友人も似たようなこと(確かニーチェの引用だった気がするが)を言っていた。
「真実なんてない。存るのは事象と解釈だけ。」
二つの発言とも、大変な衝撃を僕に与え、忘れっぽい僕がメモを取らずとも鮮明に覚えているものだ。
少し話をスペシフィックにしていきながら「それは知性と真逆」という僕の"解釈"からこれまで論理的に考えようともしてこなかった「恋愛」について、自分なりに考え、まとめてみようと思う。
27年生きていると、周りにも結婚する友人が増えてきた。
子どもが複数いる同級生も珍しくない。
みんなこの20年、大なり小なり恋愛を経て生きてきたのだろう。
まだ結婚をしたことがない友人たちも、想いが実らず枕を濡らした日々があったのかもしれない。
しかし、その行為...
"自分の恋愛感情に対して相手もそうであってほしいと願う" ことは、
それ自体は、果たして「正しい」と解釈できるものであろうか。
人間の判断基準を”理屈”と”感情”に、乱暴に分類した時に
”理屈”ではそれは「誤っている」と判断できるだろう。
「好き」という気持ちは一方的なものであり、本来見返りを求めるものではない。
相手が自分のことをどう思っていようと、相手にパートナーがいようと
「好き」なことは自分にとっての事実で良いし、解釈で良い。
しかし面倒くさいのが”感情”ではそう割り切れないということだ。やはり、
「好き」な人には振り向いてほしいし、他の人に想いを寄せてる姿なんか想像もしたくない。
...というここまでは、わりと共感してくれる人も多いのではないだろうか(これも「そうであってほしい」という"感情"が働いている)。
「人間の判断基準を”理屈”と”感情”に、乱暴に分類した時に...」
と先述したが、実際はこの分類、グラデーション的に配置できるものだと思っている。僕がどちら側なのかは、個人的に考えてみるとして...
正直な話、誰がどこに位置していようと、
”理屈型”すぎるがゆえに恋愛下手であろうと、
”感情型”すぎて周りから「メンヘラ」と呼ばれようと、
どうだって良い。
何故なら、僕は僕が愛する人を愛すだけだから。
間違ってはいけないのは、それによって誰にも迷惑をかけないということ。
繰り返すが、愛するという行為は自分のものだけである。
だからこそ双方からの矢印が、互いに向いた時、
そこに存在する美しさに尊さが生まれるのだろう。
また話が飛躍するが(僕の解釈では繋がっているが)...
自分が好きなアーティストやお笑い芸人に品行方正を求める行為は
もはや愛ではないし、当事者からしてみれば迷惑極まりないはずだ。
その人の行いで感情が冷めたなら、冷めただけ。
それでも作品や、芸が好きならば、好きなだけ。
それで良い。
ファンレターを送るのは理解できる。しかし「送ったので返信ください」と言う人がいたら、それはおかしな人という判断を受けてもしょうがない。
一昔前の、距離感の近いアイドルビジネスの異常なほどの流行や、
誰もが発信者となれる時代がもたらした、ファンと友達のボーダーラインの非視覚化により、苦悩を抱える発信者側の友人を何人も見てきた。
”理性”と”感情”をコントロールできるのがホモ・サピエンス(Homo sapiens、ラテン語で「賢い人間」の意味)の特徴であり、長所だ。
自分のエゴによって人を傷つけてはいけない。
そんな分かり切ったことを忘れさせ、人をおかしくするのが恋愛なのかもしれない。
しかし、本当に相手のことを想うならば、境界というものはしっかりと見極めなければいけないだろう。
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