【大衆】
北海道でのいじめの事件が表ざたになって、
自分もそれを動画で知って、今のいじめの恐ろしさを感じた。
動画でそれを知ったわけだけど、
結局、今はいじめにもそのネットだったり、SNSだったりを使うことで、陰湿さを増している。
そして、どうやら隠蔽されそうになっていたこの事件を
ネット民?が公に広めて、国会で取り上げられるまでになった。
インターネットの
力。
インターネットの力は、その数。拡散力。
そして、顔の見えない誰かと、直接つながっていくことができること。
その速さ。
YouTube界の有名人が、
「この件について誰か調べて。」
一声かけると、びっくりするくらいの情報が、あっという間に集まるようだ。
ネット上には、ハンター?特定屋?よくわからないけれど
そういう人がいて
まぁ例えば、芸能人の家だったり、プライベートな行動が簡単にばれてしまうらしい。
北海道のいじめ事件は、さすがにひどい話だと思うし、ネット上でもかなり取りざたされているので、つい、観てしまったんだけど
「加害者を探せ」
「未成年だからって、実名報道されないのはおかしい」
そんな流れから
「加害者を曝せ」
になっていって、ついに今日見た動画では
本人の名前も、顔写真も、親の仕事も、立場も、年収までもがさらされていた。
確かに、許されることではないんだ。
一人の少女の命を奪ってしまった、いじめ・・・
でも、結局、正義の名のもとに、同じことを繰り返しているんではないか。
「やられたらやりかえす」・・・ですか?
なんだかぞっとした。
「マリーを殺せー」って叫んでいる大衆が浮かんだ。
そして、オルテガの「大衆の反逆」を思い出した。
「オルテガによる大衆の定義」
主体性をもたず、ただ人間集団の数の力や既成の権威の力に依存し、名前(私という固有性)という責任を持たない匿名に埋没する一般大衆のことです。
だから支配者層や富裕層やインテリ層にも大衆はたくさんいるわけです。
それは仲間集団と同じであることに喜びを覚え、個人の責任を希釈された集団的無責任(「赤信号みんなで渡れば恐くない」)に安心をおぼえ、反対に出る杭は打ち、他集団への極端な排他性と不寛容さをもつ人々です。
数の力と権威の中にある何者でもない自分自身に陶酔し、自身に対しては何も課さず反省もせず満足し、義務を果たそうともせずただひたすらに権利を主張します。
彼らは自分を疑わず、知的な人間であると思い込み、能天気なほどの平静に生きます。
・・・
もし、万が一、こうして晒すことで、今度は加害者の少年や少女が自殺したら
「あーせいせいした!」
ってなるんかな。
こんなことしても、きっといじめはなくならない。
大衆が、加害者を特定し、追い詰めていく行為は、
いじめた本人と、同じことをしているに過ぎない。
もっともっともっともっと、根本的な部分に問題があるということに、早く気付かなければならない。
・・・
えっと。
(ここまでで終ろうとしたんだけど)私なりの答え合わせをすると、結局は、家庭、学校、地域・・・それらが、彼らを、十把一絡げに大衆の一員として育ててしまうことに問題がある。
一人一人と、きちんと向き合って、それぞれの話に耳を傾け一緒に悩んだり、一緒に泣いたり、本気で叱ったり、そういう存在がいないこと・・・
大人たちが忙しすぎること
「本気で愛してくれる誰か」
の存在にちゃんと気付いていたなら、大人でも子供でも、
絶対に犯罪なんか起こさないと思う。
そして、コロナが・・・
コロナは大きな壁となって、私たちの前に、立ちはだかろうとしている。
人と人を、引きはがそうとしている。
負けるな!人間!
2021年4月28日(水)ModernTimesヒロ
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?