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子どもは残酷

子どもの頃、ザリガニ釣りをやった事を思い出した。ザリガニを一匹捕まえて、腹の肉を凧糸に結びつけ、川に垂らすと面白いように釣れる。ザリガニにしたら共喰いだ。ひどい話だ。

今どきの子はキャッチ&リリースするのかな?僕らの頃は捕まえるだけ捕まえて、バケツに持ち帰って、何匹かは水槽に入れ数日飼うが、その他大勢はバケツの中で腐敗して行ったような気がする。

子どもは成長の過程でグループを作り、群れで活動する時期があると言う。たしかにその頃かも。自転車で隣町まで冒険と称してプラモ屋に行ったり、朝早起きして虫が集まる樹を探したり、牧草地にアケビ狩りに行ったりした。

二、三人集まれば「〜やろうぜ」となる。

ザリガニとる時も「こんなにとってもどうせ飼い切れなくて死んじゃうからやめようよ」とは言えなかった。

群れの中で遊ぶのが楽しいので、優先順位でそれを選んでいたのだ。

オタマジャクシのたまごも、カマキリのたまごも、ただただ狩猟採集の本能にしたがって取りまくった。

今の時代の子どもは違うのかもしれない。僕の過ごした小学校中学年はこんな感じだった。少し大人になって「あんな取り方すべきじゃなかった」なんて思う事もあった。

子どもは、ザリガニを釣って遊んでいる時はそれを「いのち」として認識しているのだろうか?自分が所属する組織への帰属意識や居心地の良さを優先して、やってはいけない事とわかっていても、なんか空気でやってもいいような感じになってしまう。

これは「成長過程」だからこれでいいのだろうか?それともやはり理性的に自分を抑える事を教えるべきなのだろうか?

物事に没頭すること・グループの一員として活動することは子どもの脳の発達に大切な事だとしても、それが殺生につながったり、場合によっては個人への執拗な肉体的・精神的攻撃だった場合は?

漂流教室を単なるオカルトチックなSFとして見るべきではない。そこに現れるグループ同士の対立や抗争が、極端にデフォルメされた世界を舞台に発達段階にある子どもの姿をある意味「イキイキ」と描いているのだ。

でも僕の小学校中学年は結構楽しかったと思う。空き地に行けば年下も年上もいて、缶蹴り、高鬼、泥警やったり、小さい子がいるときはルールが簡単なのやろうとか工夫したり、なんか学校以外の遊び場があった。ちょっとおっかない感じの年上のお兄さんとも遊んでるうちに仲良くなったり、空き地の近所の家にいたずらしたり(本当にすいませんでした)。


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