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いちばん怖いことばは……

 ルーチン化してきた朝の散歩に、今朝は忘れ物をして出かけてしまった。いつも持参していくカメラにSDカードが入っていなかったのである。予備のカードも持参していない。何かあったらスマホのカメラ機能を使えばいいやと思ってはいたが、SDカードを忘れていったのはショックだった。

 忘れてしまったのは年齢(とし)のせいだろうか? このごろ、小さな失敗も、内心ではかなり大げさにあわてる。身近に女房がいたら、(きっと、うれしそうに)「ボケたのよ」というにちがいない。いわれたとしても決して認めないだろうが、「まさか」と一笑に付すだけの心からの自信もない。

 ほんとうにボケのはじまりのシグナルかもしれないからだ。内心ではその可能性を否定ができないでいる。今後、二度と忘れないように気をつけながら、もし、家族がいて、二度目の失敗があったら、きっと黙っているだろう。

 20年前でもありえたささやかなしくじりである。もし、50代いのころにカメラのSDカードを忘れたとしても、まったく気にとめずにいただろう。まして、だれからも「ボケた」などとはいわれなかったはずだ。

 年をとってからは、何かにつけて「ボケた」といわれる(ような気がする)。いや、自分が、まず「ボケたんじゃないか」と思ってしまい、気にしてしまう。もし、また、同じしくじりを繰り返したら、きっと冷静ではいられず、あわてるにちがいない。

 ボケたといわれても決して認めない。ぼくだけでない。年寄りはそういうものだ。同居している家族がいればなんとかしてくれるだろうが、ぼくはいまやひとり暮らしなので、ボケたらどんどん悪化していくしかない。それがなんとも怖い。

 最近、カメラのスペアのバッテリーを充電していないのをきれいに忘れていた。ボケのはじまりのシグナルではなかったのかと、とても気になっている。自分に自信が持てなくなっているからだ。

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