万博の気の毒な雄鶏
来年に開催が予定されている関西万博への関心が薄いという。1970年の大阪万博の盛り上がりはすごかった。その15年後、つくば科学万博は落ち着いていた。どちらへもいった。前者は仕事として、後者は、なぜ、出かけたのかわからない。
もうひとつ、「万博」と名がついたイベントへ連れていってもらった。1952年ごろだろうか。戦後の時代である。場所は、たぶん、東京の日比谷公園だった。連れていってくれたのは、父のいとこのお兄ちゃんだった。
小学校へ上ったばかりのころなので、何を見たのかはまるで記憶にない。だが、ある場面だけは鮮明に覚えている。二畳間ほどの部屋に大きな白いニワトリが1羽放されていた。白色レグホーンの雄鶏だった。ほかには何もない。大きな雄鶏がいるだけだ。
解説を読んだお兄ちゃんによると、将来、原子力でたくさんの卵を産むニワトリが作られるという。そのために、大勢の人の目にさらされてニワトリは緊張していた。
つい数年前、広島と長崎に原子爆弾が投下され、おびただしい人々が虐殺されたばかりである。原子力というだけで、その一角は静まり返り、緊張している。幼いぼくにもたじろぐものがあった。
ニワトリを1羽放しておくだけとはふざけた話だとぼくは思った。ビキニ環礁の水爆実験で死の灰を浴びた漁船の第5福竜丸がクローズアップされたのは、それからまもなくである。
各国の相次ぐ核実験によって、デリケートな地球という星は隅から隅まで放射能に汚染された時代だった。日本では主に魚を食べていた時代である。ぼくも放射能まみれの魚をさんざん食べさせられていたのだろう。
原子力でたくさんの卵を産むニワトリを作り出す? そんな妄想が通用した時代でもあった。
それより、「日本原水爆被害者団体協議会」がノーベル平和賞を受賞し、世界にその存在を認知されたほうがどれだけ意義深いかわからない。