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136年の風雪を経て

 雨の日以外は、毎朝、参拝している小さな神社があり、そこに明治21年12月に寄進された手水鉢(ちょうずばち)が置かれている。さすがに136年の風雪を経て、石造りの手水鉢も満身創痍といった風情である。6年後が日清戦争で、さらにそれから10年を経た明治37年が日露戦争となる。

 このあたりは畑の中に墓地がある。ひときわ立派なお墓は、どれも、昭和に入って戦死した方々のお墓である。日中戦争で亡くなった方、太平洋戦争で戦死された方とさまざまだ。命と引き換えに立派なお墓が残ったともいえる。きっと、日清、日露に戦役で亡くなった方もおられるだろう。

 それぞれの家の祖先のお墓は、戦後のある時期、農村が豊かになってから、さらに立派なものが建ったらしい。戦後の農村政策の成果である。なんにせよ、豊かになるのはいいことだ。明治21年の農村は、まだ、貧しくて当たり前の時代だったはずだ。日本全体が貧しかった。テレビの旅番組を見ると、日本があまねく豊かさを享受しているのがよくわかる。

 そんなころに寄進された手水鉢である。住民の信仰心の厚さがこめられた鉢である。戦後、間もないころに育った者が幼い日、貧しさを探すのは容易だった。豊かさが圧倒的に少なかった時代だからだ。

 50年前、ぼくが30歳のころだが、テレビで活躍していたとある先輩から、「昔は食えないというとほんとうに食えなかった。いまはせいぜいぜいたくができないというだけだろ」といわれた。彼のいう昔もまた戦後だった。

 日本は豊かになった。だが、いまだに「食えない」現実はある。100年後、この手水鉢はなくなっているだろう。いまでさえ、水が漏れているほどなので、この先の100年、ここに据えられているのを期待してはならないだろう。

 同時に100年後のこの国を思う。果たして、すべての人々が「食える」国になっているのだろうか——と。

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