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【そこそこちゃんとした】ライフストーリー【自己紹介をしよう】

 こんにちは。定期更新目指すとか言っておいて早速間が空きました、すみません。

 そういえばここではきちんとした自己紹介ってしてないんだなあと思い、今回は自分のライフストーリーをざっと語ってみようと思いました。


 自分は1991年(平成3年)に、静岡県の中部にある藤枝市で生まれました。

 市内にある鉄道駅はJR藤枝駅ひとつ、止まるのもJR東海道線の各駅停車だけ、という頃でした(今は快速的なものができたみたいですが)。観光地もあまりない、田舎のベッドタウンといった感じの街です。

 特徴といえば市の名前にもある藤の花でしょうか。あちこちに藤棚があって、その下にはベンチが置かれていたり、水道があったり。市内の大きな公園では藤まつりというお祭もあります。


 母は短大とはいえ音楽(ピアノ)で大学を出て、ピアノの先生をしていました。他にもフルートも吹く人で、市内のアマチュア吹奏楽団にも参加していました(現在は市民オーケストラで吹いています)。

 父親はサラリーマン。海外(時々国内)への長期赴任が多く、自分が実家にいた期間のうち父親が実家に住んでいた期間は1/3といったところかと。

 兄弟はおらず、基本的に母と二人だけの家で育ちました。ただ、近所に母方の祖父母が住んでいて、母が家にいられないときにはそちらに預けられていました。

 経済的には、いわゆるお金持ちではなくとも暮らしに困るということはない幼少期でした。かなり恵まれているレベルだったと思います。


 生まれつき髪はプラチナブロンド(色が薄い部類の金髪)、目は灰色がかった水色でした。それまで親戚にアルビノの症状がある人はいなかったそうなので、生まれたときは皆とても驚いたのだろうと思います。

 地元の総合病院やこども病院のいろいろな科をまわったので診察券がたくさん家にあったとか、(当時まだネットが発達していなかったので)紙の本(家庭の医学など)でアルビノについて調べたとか、色々なエピソードを母や祖母から聞いたことがあります。

 アルビノの中には耳が聞こえない方もいるらしく、泣き声が大きい子供だった自分もそうなのではないか、と心配されたそうです。音の鳴るおもちゃを買ってきて鳴らしてみたら反応したのでとても安心した、と聞きました。

 アルビノの症状として代表的なもののひとつに「日焼けをしやすい」というものがあります。普通の方よりもかなり少ない紫外線量で日焼けをし、黒くならずに赤くなります。程度がひどいと痛みがひどかったり水膨れになったりします。

 自分の住んでいた地域では大体の家の子供が近所の幼稚園・保育園に入るのですが、一番近くの幼稚園では外遊びが盛んだったことからそこはやめることにしたそうです。代わりに車で行く距離(市内各所を幼稚園バスが回っていた)の、室内で遊べる設備が充実した幼稚園に入園しました。

 ですが母の気遣いとは裏腹に、幼少期の自分は外で遊ぶことが多かったとか(笑)。

 その頃はまだ何が普通か、何がそうでないかわからない年頃だったのか、髪や目の色が周りと違うということすら認識していたか怪しいし、周りからも特になにも言われた記憶はありません。弱視や羞明(まぶしく感じやすい)などの目に関する症状についても特に気になったことはなかったと思います。

 ちなみに自分は0歳のときから眼鏡を使っているので、眼鏡のつるの先端が当たる耳の後ろあたりの骨が、眼鏡のつるの形に多少凹んでいます。


 小学校に上がるにあたっては特別支援学校も一応検討したそうですが、最寄りの学校でも車を使って行かなければならない距離であったこと、自分の諸症状がさほど重くなく一般学級でもなんとかなるであろうレベルだったことなどから、地元の公立校に入学が決まりました。

 学年が変わるたび、母が担任の先生に説明に行き、保護者会でも説明をしたそうです。その甲斐あったのか、先生方からはさりげなく、的確に配慮を頂いていたのかな、と思います。席を一番前にしてもらい、遠くを見るための単眼鏡(双眼鏡の片目版)を使いつつ普通に勉強についていけていました。

 ただ、もともとアルビノとは関係ないところで運動神経があまり良くない子供だったのだろうと思うのですが、体育は苦手でした。

 小学校くらいの頃だと、勉強ができる子より運動ができる子が人気になりがちな印象があります。その反動というか、運動が苦手だと嫌われる原因になりやすいのかな、と今になって思います。

 また、周りより少し大人びたところがあり、かつ思ったことは躊躇わず口にする性格だったのもあり、運動が苦手だったことや見た目が違うことと併せてクラスでは浮きがちな子供でした。大半が同じ幼稚園から上がってきたメンバーの中、違う幼稚園出身だったのも原因の一つかと思います。

 学年が始まるたび「どうして皆と色が違うの?」と聞かれることがあり、そう聞かれることそのものと、自分がそれに対する返答を持っていないことの両方に困惑した記憶があります。「生まれつきなんだよ」と返事していましたが、今から考えるとこれ、返事になっているようでなっていませんね。

「外人?」と聞かれることも多く、こちらの質問に対しては「日本人だよ」で済むのですが・・・

 そのように色々な原因が重なって、小学校では常に軽度のいじめを受けていました。靴を隠される(大体いつも同じ、すぐ見つかる場所にある)、上靴の靴裏(なぜか中ではなく裏)に画びょうが刺さっている、班ごとに机をくっつけて給食を食べるとき、机をくっつけると少し離される、自分が触れると触れた位置をあとで手で払われる、など。他に言葉でのいじめも沢山ありました。

 辛かったのは、先生に相談しても暫くはなくなるもののまたすぐ再開すること、クラス替えでメンバーが変わってもなくならないこと、そして母に相談してもいつも第一声が「あんたが悪いんじゃないの?」だったこと。

 祖父母と母は「同じクラスになったのならそれは全員友人」「こちらが悪いことをしなければいじめられるなんてあるわけがない」「他人に対して闘争心・競争心・嫉妬心・害意などを抱いたらその時点で頭がおかしい」という内容のことを言い聞かせる人たちでした。今はこれがいかにおかしい内容かよくわかるのですが、当時は自分がおかしいのか周りがおかしいのかわかりませんでした。

 また、先ほども書いた通り少し大人びた子供で、かつ「話す」ということに関しては達者だったので、正論で祖父母の言うことの矛盾を指摘したことなどもありますが、「意見が異なった場合年上の方が正しいに決まっている」と信じている人たちだったので、「子供が屁理屈をこねるな」と頭ごなしに否定されるばかりでした。


 小学校低学年の頃のいじめは主に男子からだったのですが、3年生あたりからは女子からもいじめが始まりました。男子のそれと違って、表には見えない、頭を使ったやり方でした。いわゆる「ハブり」が近いでしょうか。また、2人(A,B)の女子からそれぞれに「Aがあなたのこういう悪口を言っていたよ」「Bがあなたのこと嫌いって言ってたよ」と聞かされる、などもありました。疑心暗鬼になって辛かったです。

 また、小さい頃から自分は比較的男子が好むものを好みがち(見るアニメや選ぶ色、服など)で、それも浮いていた原因の一つかもしれない、と思います。

 見た目が違うことで周りから浮いているのだから、せめてそういうものは女子に合わせないと、と思って頑張ってそういうものを好きになろうとしたり、選んだりした時期もあります。しかしそれはとても辛いことで、心がすり減っていきました。当時はそのことに気付かず、「なんとなく辛い」という感覚だけがありましたが。


 いじめ、好みの違い、周りと同じになれない・・・そういった色々な理由から、小学校5年生の3学期あたりからいわゆる不登校になりました。保健室登校の時期もありましたが、先生から「どうして学校に来たくないの?」と聞かれて明確に答えが言語化できず、辛くて自殺を考えたりもしました。

 そして地元の公立中学校は自分の通っていた小学校から殆どメンバーが変わらないので、メンバーが変われば、勉強が好きな子供たちのいるところに行けばこの辛さも減るのかな?と思い、中学受験を目指すようになりました。塾に通い、それまで知らなかった子供たちと知り合って一緒に勉強するのは楽しかったように思います。

 ですが、小学校の出席日数が原因で中学受験には落ちてしまい、地元の公立校に入ることになりました。そこでもやはり馴染めずに不登校は継続しました。


 学校に行かない間はずっと家にいて、本を読んだり、レンタルショップで借りてきたアニメのDVDを見たりして過ごしていました。また、母が通わせていたピアノも、一度嫌になってやめていたのですが、中学生の頃「やっぱり弾きたい」と思い再開します。

 不登校児を集めたイベントや合宿の類、適応指導教室(不登校児や学校に馴染めない子供を集めて指導する公共の施設)にも参加しましたが、オタク友達は増えたもののそれ以外に得るものはあまりなかったかな、と今になって思います。

 思えば当時は人との関わりに疲れ果てていて、しかし誰かと交流はしたい、という気持ちが強くありました。直接的な関わりではなく作品・芸術という形でなら、という感覚でアニメや本にはまっていったのかな、と感じます。そしてその感覚は今までずっと続いていて、音楽をやっているモチベーションの一つになっています。


 周りが高校をどうするか考え始めるくらいの時期、自分もどうしたいのか考えなければ、と思いました。女性・障碍者・不登校・地方出身、と将来の就職が危ぶまれる要素ばかりの自分が中卒なんて絶対まともな働き口が見つからない、高校くらい出なければ・・・でもどんな高校なら入れるのか?と考えたり調べたりして、通信制高校というものを知りました。

 幸い学費もかなり安く、実家から公共交通機関だけで1時間ほどで通える場所に学校が見つかったので、そこに入ることにしました。

 テスト中に先生が殴られて担架が来たり卒業式で生徒同士の殴り合いが起きたり、学内で窃盗事件が普通にあったりとそれなりに荒れていましたが、登校日数が少なかったおかげでなんとか(それでも4年かけてでしたが)卒業できました。


 高校3年生の頃、また卒業後のことを考えたとき、自分の条件からすれば高卒でもダメだ、大学くらいは出ないとまずい、と思いました。しかし学力・出席日数(通信制なので年間数十日)・小中学校での経験からどんな大学なら合格・通学できるのかと悩みました。

 また、その頃には「普通に合わせようとすると疲れる」ことがよくわかっていて、「合わせる苦労をしなくてもいいように大勢の同年代の人たちと関わらざるを得ない場所から離れたのだ」ということにも気付いていたので、「普通じゃない人たちがいるところへ入ればいいのでは?」という思考に至りました。

 全く真面目ではないにせよ3歳から音楽教室、小学校に入る頃からはピアノの先生のところに通っていたし、音楽は好きだったので「音楽大学なら入れるのでは?」と思い、母に話してみました。学費の高さ・将来の不安定さなどから反対される覚悟でいたのですが、母はあっさりとOKしてくれました。

 そしてここがさすが大学の音楽専攻出身の慧眼と思う点なのですが、「あんたの実力でピアノ科に入るのは何年かかっても無理」「声楽なら始めてから短めの期間でも入れる場合もあるし昔から声が大きくて歌が好きなんだから声楽の先生を探しなさい」「地元の先生同士は繋がりがあるはずだからまずは高校の音楽の先生のところに行きなさい」というアドバイスが即座に出てきました。

 そして母言われた通り高校の音楽の先生から声楽の先生を紹介して頂き、通い始めました。

 どこの大学を受けるか、という話になったとき、声楽の先生とピアノの先生が口を揃えて仰ったのが「経済的に可能なら首都圏の大学に入りなさい」ということでした。首都圏と地元ではコンサートの量も質も全く違うから、と。そしてこれは事実だったと今深く実感しています。

 個人的にも「これ以上実家にいたら自分は本当にだめになる」と感じていたので、先生方の言葉を理由に首都圏の大学を受けさせて欲しい、受かったら一人暮らしをさせて欲しい、と母に頼み、OKがもらえました。


 また、首都圏、というか東京に住みたかったのにはもう一つ理由があります。中学校あたりから我が家にもパソコンが導入され、ネットが使えるようになりました。引きこもりに近い生活をしていた自分はすぐにはまっていき、高校の頃に現在自分がスタッフを務めている日本アルビニズムネットワーク(JAN、アルビノ当事者と家族の団体)のホームページを見つけました。

 ネットに理解のない祖母からは「どうせ詐欺なんじゃないの」などと言われましたが、自分は同じアルビノの方に会ってみたい、という思いがありました。そしてホームページから連絡をとり、ミーティングに参加させてもらえることになりました。

 そこから2~3ヶ月に1度くらいの頻度で、静岡から東京にミーティングに参加しに行く、という生活を母と二人でしていました。その頃はJANが本格的に活動を始めようとしていた時期で、東京に住めばその活動にも関わりやすくなる、と思いました。

「普通」に苦しんでいた自分にとって、「自分が普通になれる」当事者ばかりの空間・時間は救いになっていたのだと思います。


 幸いなことに埼玉と東京にキャンパスを持つ武蔵野音楽大学に合格することができ、首都圏で一人暮らし・大学を出る、という夢を叶えることができました。

 一人暮らしは大変なこともありましたが、それ以上に家族という束縛のない生活が幸福でした。母は潔癖症かつ完璧主義なところがあり、家の中のものを母の作ったルールの中の所定の位置に戻さないと逐一怒られるというような生活だったので、それに怯えなくて良いのは快適なことでした。

 自分が如何にそれまで家族という縛りを窮屈に思っていたのか、それによって精神が疲弊していたのかがよくわかりました。


 音楽大学という環境は、演奏と礼儀にさえ真摯であればそれ以外のことにかなり寛容で、自分のような人間でも受け入れてもらうことができました。まずは毎日朝起きて学校へ行き、人と話し、演奏や学業をこなす、という生活に馴染むこと、慣れること、続けていくことで精一杯でしたが、とても充実した時間でした。

 最初は「大卒という資格を得るための手段」でしかなかった声楽ですが、大学で学んでいくうちにもっと学んでみたくなり、声楽専攻は大学院へ進む学生が多かったこともあって大学院受験をすることを決めました。この時も母は「受かるなら行けば?」というような対応でした。

 大学院では実際の演奏に関する授業がぐっと増え、「仕事」として学外で歌う機会などもあり、「声楽を仕事にしたい」と思うようになりました。

 また、修士論文も書かなければいけなかったのですが、どうせ書くなら好きなことに絡めて書いたほうが楽しいしクオリティも上がるだろうと思い、大半の学生がクラシック音楽そのもの、それも自分の専攻楽器に絡めた内容が多い中「アニメとクラシック」という組み合わせで書いてみようと思いました(論文を読んでみたいという方が結構いらしたので、ご連絡頂ければメールなどでお送りします)。

 演奏と論文を両立しなければならなかった大学院2年の頃は本当に大変で、正直記憶が曖昧になっているところさえあるレベルですが、全力で学ぶことに集中できた、人生で一番幸せな年だったかもしれません。


 大学院修了後もまだまだ勉強しなければ、と思い二期会オペラ研修所に入所。アルバイトや演奏活動もしながら、今度は大学とは違う場所での学びの生活でした。そして研修所3年目(最後の年)には母校の研修員(授業の演奏補助要員を務める委託職員)にも合格することができ、この年も目の回るような忙しさでしたがなんとかこなしきることができました。

 研修所の修了の時期にちょうど新型コロナウィルス騒動が始まり、現在に至ります。


 昨年はもっと自分を知るべきかな、と思い発達障害などの診断に使われるWAIS-Ⅲという検査も受けてみました。結果は「発達障害と普通の人(という言い方も変ですが)の中間」というもので、これまで自分がなんとなく脳という意味で周りと少しだけ違うな、と感じていたことの正体の一端をつかむことができました。

 この検査ではその人の脳がどういったことがどの程度得意か・苦手かということを測るのですが、その得意と苦手の幅が極端に大きい人が「発達障害」だそうです。自分は得意・苦手の幅が一般人より明らかに大きいけれども、「発達障害」と診断が出るレベルには至らない、ということでした。

 何が得意で何が苦手か、どういう対処の仕方があるのか、を知ることができて、自分の扱いに熟達するヒントが得られたと思います。


 そして現在は大学の研修員として授業で学生たちと一緒に歌いつつ、アルバイトをしつつ、という生活をしています。高校の頃に始めたJANのスタッフもずっと継続していて、当事者としての活動も時々させて頂いています。


 かなり長くなってしまいましたが、自分という人間の大まかなライフストーリーを書いてみました。次回以降は、どこかの時期・或いは属性に絞ってより深く掘り下げていってみたいなと思います。



論文についてのFB投降↓

https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=2153504251627229&id=100009030252192

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