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猫ミームが嫌いな理由を言語化する

最近流行っている猫ミームだが、嫌いなのでなるべく目に入れないようにしている。

何となくで流行りに逆らう逆張りキショ野郎の謗りを受けるのは本意ではないので、その嫌悪感の理由を言語化しておきたい。


都合よく解釈される猫たち

このミームの登場人物としての猫は、実際に存在する動物の映像からの切り抜きである。
それにダンスをさせたり喋らせて寸劇を演じさせたり、といったものがミームの基本様式になる。



そこでは、元になった動画における猫の仕草の文脈は捨象され、面白さを表現するという製作者の思惑によって切り貼りされる。
これは巷で度々ヘイトを集める(そして私自身も嫌悪している)『動物のビデオにアテレコや字幕を入れる』バラエティ番組の作法と相似形である。

猫ミームを見た時、まずは切り貼りされた動物の悲哀に思いが馳せられ、次にそれをした人間の(自覚的・無自覚的問わない)悪意をそこに見出すのだ。
面白さや愛くるしさはそこからはこれっぽっちも感じ取れない。

例えばあなたがダンプトラックのタイヤにゴリゴリと轢き潰されている時、その様子を切り取られ、『マッサージきもちいいなぁ〜♡』『そこそこ、もっと強く〜♡』というアテレコを付けられたとしたら、どのように感じるだろうか。

自分の行動や言動、置かれている状況の文脈をシカトされて解釈されるのはそれだけでも腹立たしい訳だが、それが面白さ本意での切り貼りという形で表現されていたらどのように感じるだろうか。ブチギレるしかないだろう。

それこそ猫ミームの一種・Happy_Catにしろ、あの跳ね踊る猫は『ペットショップ閉店日の猫』という悲劇的な(ともすれば動物倫理の問題をも孕む)一幕の登場人物なわけだが、そこに『ハッピィハッピィハッピィ^〜』などというBGMが付けられている。
神経を逆撫でする意図を見出されたとしても不思議ではあるまい。私がその猫だとしたら作者を憎悪することだろう。



動物観察・愛玩に人間の都合のいい解釈は邪魔


そもそも猫ミームに限らず、動物映像へのアテレコや字幕などといった脚色が鬱陶しいのは、それが人間の意図・オモシロ中心主義の介入の産物であるためである。

これは個人的な感覚論になるが、動物を観察・愛玩する際は、その動物のありのままを見ることにこそ魅力がある。
その場合において、人間による面白さの表現といった意図は邪魔以外の何物でもない。

『これは求愛行動です』『これは外敵への威嚇です』『これは飼い主への愛情表現です』という風に、その動物の行動の意図が科学的に、そして明快に示されるようなものであれば、何も文句はない。

無論これらも『人間による動物への一方的な解釈』の一分類であることは確かだが、研究や調査により蓄積された知見、それによる客観性に依拠している故に、一定度信頼することができる。
これは『こうすればオモロいだろ/バズるだろ』という、エンタメ主義に基づく不誠実な思想による解釈・脚色とは一線を画すものである。
少なくとも、猫ミームにおける動物へのアプローチとは大いに異なるものと言えよう。

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改めて強調すると、猫ミームは徹頭徹尾『面白さ本意のクリエイターが』『その動物の意図を無視して』『自分の考える面白さを表現する画材として』動物を使用するコンテンツである。

動物の愛らしさは感じられず、かといってコメディ作品群として見るにはあまりにも低劣である。
したがってそれに魅力は微塵も見出せないし、むしろ嫌悪さえ覚えた次第である。

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