『いぃ〜!!にぃ〜!!りぃ〜!!ひぃ〜!!みぃ〜!!』
阪急電車の車内での私の気持ちのいい午睡は、突如子供が上げた、上記のような奇声によってぶち切りとなった。
『にぃ〜!!ちぃ〜!!いぃ〜!!』
頑なにイ段に執着する子供の奇声は、治るどころか一層激しさを増していく。
電車は丁度西京極を発車したところで、私が降りる駅は京都河原町。
周囲の状況や残り時間からして、二度寝は絶望的だ。
『みぃ〜!ぢぃ〜!きぃ〜!』
肝心の親はというと、この小さきシャウトの主の声を窘めることもなしに、小鳥相手にそうするかのようにちゅちゅちゅと唇を鳴らしてあやすだけだった。
『いぃ〜!りぃ〜!ひぃ〜!』
素晴らしき安らぎのひとときへの妨害に憤りを覚えたものの、『すいません、少し静かにさせてもらえませんか』などと声をかける度胸もまた私にはなかった。
聞こえるか聞こえないか程度の舌打ちをして、乗っていた車両の端へ、つまり奇声の主から距離を取る形で席を移動した。
電車が空いていて本当によかった。
ところが、1分も経たぬうちに、例のイ段の騒音は再び元のボリュームを取り戻して耳の真横に現れた。
距離をとっていたはずの例の親子が、あろうことか私を追うような形で立ち位置を移動してきた訳だ。
おまけに先ほどよりも距離を詰められており、さながら喚く子供とそれをあやす自分を見せつけられる構図になってしまっていた。
『にぃ〜!!しぃ〜!!ぴぃ〜!!ぎぃ〜!!』
『おおよしよし、ちゅちゅちゅちゅちゅ…』
誠に勝手ながら、ここまで来ると嫌がらせだとしか考えようがなかった。
かといって抗議するだけの覚悟は決まらず、悩み抜いた末、ポケットにはSONYの最新鋭ノイキャンイヤホンが入っていることを思い出した。
すぐさま耳に捩じ込んでノイズキャンセリングのスイッチを入れると、例のイ段攻撃を完全に遮断…とまではいかないものの、聴覚に限ってはこのまま午睡に復帰できそうなまでにはマシになった。
例のイ段キッズと甲斐性なし親は西院で降りていった。
ひとの昼寝邪魔しといてあんたらだけ逃げんのか、とでも言ってやる覚悟がここでようやく決まった訳だが、その頃には例の親子はすでに改札口への通路へと消えていった。
ここまで怒りを込めた文体からお察し頂けることと思うが、私は子供が嫌いである。
このケースに関して言えば、子供の奇声にろくすっぽ対応しない親にも帰責性はあるだろうが、それを差し引いても子供が嫌いである。
予測不能かつ回避不能な衝動的行動、場所を構わず上げられる、耳をつんざく奇声…
不愉快なことに、私も彼らも『社会の一員』などというよく分からぬ括りで一纏めにされてしまっている以上、この騒音から逃れる術は目下見つからない。
カーズよろしく宇宙空間に吹っ飛ばされでもしなければ無理というものだろう。
さらに厄介なことに、こうした状態を完全に無くすとまでは行かなくとも、多少マシにしたいがために抗議したりすると、すぐさま『不寛容』のレッテルを貼られ、周囲からの指弾の的になってしまう。
『子供は宝』『子供は社会で育てるもの』というフレーズは、確かにある程度正当性はあるものの、近頃はこうした理不尽な状況を免責するための道具としてしばしば使用される。
子供は日本社会の今後を担う存在であり、同時に圧倒的なまでの弱者でもある。それ故周囲の人間による手厚い庇護が必要になる存在だが、その庇護は今や『翼賛』とでも言うべき状態にある。
文筆家の御田寺圭氏は、『道路族』、すなわち路上での子供の遊びによる交通妨害や騒音などといった、本例と近しい問題によせて、次のように述べている。
子供は弱者であるが故に周囲の人間による庇護と翼賛を得、その結果、少しでも対抗する人間に『不寛容』のレッテルを貼って糾弾することができる権力者にまで上り詰めたのだ。
私が例のイ段キッズに対して何度か抗議をしようとしてやめたのも、これに起因する。
いくら子供が公共の場でイーイー喚こうが、いくらこちらがうるさく思おうが、それに対する抗議は、正当なる権力者に刃向かうテロリストの所業として扱われることになるのだ。
そのようなリスクを背負い込むような度胸が私にあろうはずもない。
そもそもそんな度胸があろうものなら、この記事を書く理由も無いだろう。
そのフラストレーションは、こうしてネット上の記事ではなく『そのうるさいクソガキを黙らせろ』という音声の出力として、例の親子に面と向かってぶつけられたことだろうから。
結局のところ、私には祈ることしかできないのだ。
先述の通り、子供は奇声を上げるもの、そしてそんな子供でも社会の宝、そんな子供でも社会ぐるみで育てるべき…という理屈は、忌々しいながらもある程度の正当性はある。
この理屈を背景に持つ『権力を持つ弱者』たちの逆鱗に触れないようにするためには、彼らと出くわさないようにする、万一エンカウントした場合はすぐさまその場から逃げる…というのが得策であろう。
しかしながら、京都線での事例のように、向こうからこちらを追いかけてくるケースさえある訳だ。
警戒することならいくらでも出来るが、最終的に私が餌食になるかどうかは、全て彼らの気分次第なのである。
一度公共の場に出てしまえば、このようなストレスフルな目に遭う可能性が十二分にある。
しかし、そんなストレスフルな存在にもなまじ正当性があるだけに、表立った反逆や抗議は非常に難しい。
だから、私は『子供が嫌いだ』と表明し、彼らがせめて私に近寄らないようにしてほしい、と祈るしかないのだ。
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