肝炎と私

おはようございます。
Hiro_Matsunoです。
肝炎と私について書いていこうと思います。
ちょっとしたひねりも出てくるでしょうけどお付き合いください。

B型肝炎と私
これに関しては多くの人が間違えを犯しかねないのでちゃんとしたことを書こうと思います。
昭和49年当時はB型肝炎の母子感染の確率は高かったです。
今でこそ感染防止対策を取られるようになりましたが。
当時はB型肝炎という名はあまり出てきてはいない時代でした。
私の場合は兄と双子ということもあり私は未熟児状態で生まれています。
幼少期はあまり言葉を話すことが下手で言葉の教室に学外の小学校まで行き学んでいました。
小学校2年のときに言語障害を克服しています。
それから以降は普通の生活をしていたのですが高校2年時に当時のボランティア仲間と献血ボランティアをしたのがきっかけで献血をしました。
その後血液センターから自分宛ての一通の手紙が届くことになります。
その手紙こそ私がB型肝炎無症候性キャリア状態であること書かれていました。
それから以降性交渉などが怖くなり女の子が好きになるとあまり本気になれない私がいました。
女友達は多かったんですけど今の今まで本気で彼女にしたいと思ったことはありません。
それは自分が原因で悲しいことになることが怖いというのが本音なのです。
それは水平感染のリスクは取り去ることが出来ていないという現実があります。
それだし彼女に必ず患者である事実を告知しないといけないということが嫌だったということもあります。
私は29歳のときに慢性化し36歳まで経過観察でした。
36歳で治療をしなくてはいけなくなり拡散アナログ治療を受けることになりました。
44歳のときにセロコンバージョン化し通常生活は取り戻しましたが今でも核酸アナログ製剤を飲みつつける生活をしています。

何故悪化に気づけたのか
これは36歳のとき体調が著しく調子が悪いことがありかかりつけの大垣市民病院に行ってみようという話になり消化器内科にかかったため状態悪化を見つけることが出来ました。
このまま安静にしてれば大丈夫なんて判断していたら間違いなく更に悪化していたでしょう。
そのときに名古屋大学病院にみえる山本医師が実は36歳当時の私の主治医になってもらえまして今の治療をしましょうとお話をいただき治療を開始しています。
体調悪化にいち早く気づき治療が始められたため8年目でセロコンバージョン化が出来たとも言えます。
36歳当時のTaqmanの数値は9.1でした。
今はHBV-DNAに変わりましたが未検出になっています。

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慢性肝炎の治療を行なった時の対応と対処など書いていきたいと思います。 現在も進行中で治療を頑張っております。 助成などや治療・検査の選択法なども書いていこうと思います。 こちらが最新版になります。

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