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     凍てつく大地   (1)                青春を奪われたシベリアから帰還して

   話し手   鈴木 登さん

  (カバー写真はハイラルでロシア軍の無線傍受をしていた鈴木さん)

      《鈴木 登さんプロフィル》
大正12年生まれ、福島県郡山市守山町出身
16歳で上京し、中野高等無線に入学。参謀本部の通信士試験に合格。
昭和26年18歳で満州に渡り、ロシア国境に近いハイラルでロシア軍の無線傍受の任務に就く。
昭和20年の夏、満州に侵攻したロシア軍の捕虜となる。ハバロフスク近郊の収容所で、木の伐採、干し草作り、レンガ作り等の作業に従事。同僚からスパイだったと密告され、刑務所生活を送るも昭和25年の春に帰国。
鉄工所勤務後、自ら起こした鉄工所が倒産。病気で生後4か月の二男を失う。昼夜の仕事で働く中、牛乳のセールスの仕事を始め、明治牛乳本社普及部に勤務し、販売店経営を任され退職。
昭和46年48歳で葛飾区内に販売店を持って独立。隔日配達の導入、専属営業社員を置く等営業に力を入れ、1日当たり1万5千軒に3万本の牛乳を配達し、東京1位となる。平成元年、3男に経営を引き継ぎ、株式会社モルゲンを設立。
令和2年10月に97歳で死去             
  
 
   ❒9人兄弟の末っ子、郡山の実家は養蚕主体の農家
 
ピンポ~ン(インターホンの音)
 はい。どなたですか。ああ、電話をしてくれた。今玄関の鍵を開けますから、2階なんで階段を上がって来てください。
これは、どうも。こっちですので、奥へどうぞ。では、この椅子に腰かけてください。私も腰かけた方が楽なんで。
 自転車で来たんですか。この家は、すぐにわかりましたか。
 
 いやあ、長男から、私のことを話して聞いてもらうように言われたんですけどね。もう大昔の話ですからね。期待に応えられるような話はありませんよ。でも、わざわざここまで来てくれたんだし、こんな話でいいかわかりませんけど話してみますか。
 
 私は、大正12年4月23日の生まれで、92歳になりました。田舎は、福島県田村郡の守山町というところですが、合併して今は郡山市になってますね。私が復員して帰ってきたら、郡山市になってました。兄弟は7男で、上に2人姉がいました。そう9人兄弟でね。私は1番下の7男です。
 
 今は、子供がそんなにいる家はないですけど、昔はどこも大勢いたんですよ。家内だって8人兄弟ですもんね。昔は農業も機械化されてなかったから、収穫の時なんか人手がいったでしょ。そんなこともあったからじゃないんでしょうか。子供でもいれば助かりましたからね。
 今は、子供の教育費などに金がかかるから、作らないんじゃないですか。昔は徴兵検査までは、子供は実家の仕事を手伝ったんですよ。そして20歳になったら、軍人にならなくちゃいけない時代だったんです。昔は、嫁さんだって労働のためにもらうようなもんだったもんね。 
 
 父は、農業をしてました。米や野菜も作ったりといろいろやってましたが、養蚕が主でね。私たちが小っちゃいときは、繭を町1番採っていました。米や野菜は、郡山で売りました。市場や店に出すんじゃないですよ。郡山に行って、小売して歩いたんです。リヤカーに載せて運んでね。郡山は、福島県で最も人口の多かったところですし、日東紡等の紡績会社があったりしましたから。その会社なんかを回ったんで、外商するには良かったんだと思いますね。
 
   ❒16歳で上京、通信士をめざし中野高等無線に入学
 
 私は小学校を6年やって、高等科に入りました。その高等科が2年でしょ。でも高等科じゃあれだから、もう1年学校へ行ったらなんて言うんで、別の中学校の本科にもう1年行ったんです。
 
 小学生の頃は、当時できた満州開拓団に入って、海外の広い土地で農業をしたいと思っていたんですよ。満蒙開拓と言って、満州や蒙古の土地を開墾して畑を作ったんですね。ある程度経つと、開墾された土地が解放されますから、その土地をもらって農業ができるんですね。それは、日本の国がやってたんですよ。広い土地が手に入ることで、憧れて開拓団に入った人がいたんですけどね。結局は、満州国が独立したでしょ。日本人を連れて行って、軍事教育をして、いざという時に軍人として使おうとしたんですね。そうしたことは実際にあったんですから。 
 
 でも、中学の頃は、船に乗りたいと思うようになったんです。外国にも行けるしね。そしたら、同級生の友達が東京の中野高等無線に行くというので、学校から資料を取り寄せたんです。そこは、無線のオペレーターになる専門学校でした。無線の通信士になれば、運転の資格がなくても給料をもらえて、船に乗れるでしょ。それで、16歳の時だったかな。東京へ出てきて、中野高等無線に入ったんです。
 
 その時は、家にもう兄弟は私1人しかいなかったからね。上の兄と、7歳も年が違ったでしょ。親も「1番末っ子だから、1人位東京の学校に入れてもいいや。」なんて言ってくれてね。当時は戦争中だったから、無線のオペレーターは花形の仕事だったんです。
 
 ちょうど4番目の兄さんが、足立区の千住で下駄屋をやっていたんですね。そこに寝泊まりしながら、学校に行きました。初めの3カ月は道がわからないので、定期を買って電車に乗りましたが、その後は1時間以上かけて自転車で通ったんですよ。生徒は、確か20000人位いたんじゃないかな。無線だけじゃなく、もちろん英語なども教えますよ。それに、通信に関する国際法もね。モールス信号は世界共通なんで、無線はインターナショナルだからね。
 そこに入る時は、1年やればいい、1年で就職できるという話だったんですね。しかし、1年過ぎても、これじゃだめだと思ってね。さらに高等科に入って、結局2年半いたんですよ。
 

中野高等無線在学中の鈴木登さん

    ❒参謀本部の通信士募集試験に合格
 
 初めは、船に乗りたいと思って無線の勉強をしたんですけど、戦争になったんで船は危なくなったでしょ。そしたら卒業する時、参謀本部というのがあったんですね。桜田門の上に陸軍本部とともにね。大本営があったところですね。その参謀本部が通信士を募集してたんで、試しにその試験を受けたんですよ。何をするかわからなかったけど、海より陸の方が安全だと思いましたからね。
 
 その試験は、筆記試験じゃなくてね。無線だから、モールス信号の受信です。試験官が来て電報を打つんですよ。トツートツードロロドロロツーツードロロって打ったのを聞いて、ちゃんと文字にすれば電報になるわけでしょ。それを間違いなくできるかの試験です。その時はわかりませんでしたが、求められていたのは、無線を発信するんじゃなく、発信された無線、モールス信号を正確に受信する能力だったんですね。試験に落ちた人ですか、いましたよ。200名位は受けたと思いますけど、53名しか受からなかったんですから。
 
 無線の試験の後、作文の試験があって、希望する勤務地、給料等を書くよう言われて書かされました。希望を書いたってそのとおりにはできませんから、その人の人柄を見たんじゃないですか。何を書いたかって、私ですか。何も書かないですよ。「絶対に軍の命令に服従する。」私はそれだけです。希望する給料の金額を書いたって、会社でもどこでも、働く者の言うとおりにしてくれるところはないですからね。結果は、それを書いただけで合格でした。 
 
 同じ日の午後には口頭試問があって、希望の勤務地を聞かれたんです。樺太でしょ。カムチャッカでしょ。台湾でしょ。南洋群島でしょ。満州でしょ。それに朝鮮もあって、6か所の場所でした。給料はどのくらいがいいですかといった待遇面も聞かれましたね。面接は合格者が1人、面接官が1人の1対1で行いました。面接官は、作文で各人が希望した勤務地の現地で働く人でした。満州ならば、関東軍の司令部の人だったですね。
 合格者は台湾、樺太、満州の3つに分かれました。私は満州になりましたが、満州勤務は確か20人位だったですかね。私のように、希望の勤務地を言わなかった合格者は、面接官が勤務地を決めたんでしょうね。 
 
   ❒参謀本部から呼び出され、満州勤務を告げられる
 
 その面接が終わると、「1週間の予定で実家に帰って来なさい。」と言われました。「しばらく親にも会えなくなりますから、会ってらっしゃい。」ということで、解散したんです。その時は、まだどこに勤務するかは、教えてくれませんでしたから、わからなかったんですよ。でも、参謀本部の試験に合格したんで、そこの人間になったと思っていたんですね。
 
 そしたら、田舎に帰って3日位した時にね。電報が来て、参謀本部に集合するように言われたんです。参謀本部に行ったら、「満州に行け」と言われたんですよ。「君たちは、もう参謀本部の人間ではありません。これからは、関東軍の人間です。」と言われてね。そして参謀本部に入ったら、家族と完全に切り離されちゃったの。皆家族が、東京まで送ってきたのに、その家族と会わしてもらえずに、その日のうちに海外の勤務地にむけて出発させられちゃったんですよ。
 
   ❒有楽町駅で兄達と急行列車の窓越しの別れ
 
 私は、下関行きの急行列車に乗って東京から出発したんですね。私には、参謀本部まで田舎からついてきた兄が1人と、東京にいた兄が2人の3人が来てくれたんですけどね。何時間待っても私が建物から出てこないので、参謀本部の入り口にいた守衛に聞いたら、守衛が「もうここから出かけました。急行で海外に行くらしいですよ。その時刻頃の汽車なら間に合うだろうから、行ってみたらどうですか」というので、あわてて東京駅に来てくれたんですけど、会えなくてね。でも、その急行は隣の有楽町にも止まることになっていたんで、有楽町に行ったら私の乗った急行が停車していたんです。急いで、3人が別れてホーム上を小走りに走って、私を探してくれたんです。
 
 私が窓際に乗り、黒い蛇腹の中野高等無線の制服を着てたんで、見つけられたんでしょうね。窓が開かないので、どこに行くかは告げられませんでした。でも、2~3分間だったとは思いますが、発車するまで、何度も手を振って別れたんですね。
 わずかでしたけど、会えたのは私以外いなかったんじゃないですか。他の家族は、その日に出発したことも知りませんね。18歳の時でした。まさかすぐに出発するとは思ってなかったんで、誰も何も準備してこなかったと思いますよ。ある程度の金は持っていたでしょうけどね。
 
   ❒関東軍本部のある新京に到着
 
 私たち満州組は、関東軍の軍人に付き添われて翌日の早朝に下関に着いて、すぐに関釜連絡船に乗って釜山(プサン)に渡り、そこからは列車に乗って満州に向かいました。
 
 いきなり出発したんで、心の準備ができてなかったし、不安だったからでしょうか。釜山の駅で窓ごしにたばこ売りからたばこを買い、生まれて初めてたばこを吸いました。たばこ売りに声をかけたんですけど、初めてでしょ。軽い煙草にしてほしいと言ったら、確かラクダの絵が描いてあるたばこでね。英語で、「オアシス」って書いてあったですね。軽かったんですけど、1箱吸い終わるのに3日かかりましたよ。
 
 釜山からは翌日発の列車に乗って、関東軍の本部のあった当時の新京(シンキョウ=今の長春)まで行きました。新京に着いたのは、東京を出て4日後だったと思いますね。
 
 関東軍本部に着いて履歴書を書いていたら、中野高等無線で一緒だった私より1つ若い人が本籍地に私と同じ田村郡守山町と書いたんで、ビックリして声をかけました。満州に来たばかりで不安だったのに、同じ郷里の人がいたんでホッとしたからだと思いますね。その人は安藤さんと言い、ハイラルでも同じ無線傍受の仕事に就いたんですけど、昭和18年に南方に異動して行きましたね。今は日本に戻って、おまわりをしていますよ。私が鉄工所をやって不渡りをもらい、鶴見警察に相談に行ったとき、刑事として相談窓口にいたんですよ。顔を見たとたんに、お互いにすぐわかりましたよ。懐かしかったですね。
 
   ❒ロシア語と無線を傍受する訓練を受ける
 
 関東軍本部では、ロシア語と無線の通信を傍受する訓練を受けたんです。
 訓練で講習をしてくれた軍人から、「家族が心配しているだろうから、手紙をだしてあげたらどうか」と言われ、皆が手紙を書きましたね。その手紙は、軍の方で一緒に投函してくれました。あまり、多くのことは書きませんよ。変なことを書くと没収されたり、消されますからね。検閲といって、手紙の内容を見られるんですよ。
 

父親の鬼太郎さんと母親のスエさん

 
   ❒新京での住まいと給与
 
 ここにいた1か月間は、独身用の官舎に無料で住まわせてもらいました。長屋のような建物でしたが、2人で4畳1間と6畳が2間、炊事場とトイレ、風呂がそれぞれついている十分な広さの部屋に寝泊まりできたんですよ。自炊する人は自炊できるようになってるし、自炊しない人にはちゃんと共同の食事場所がありましたよ。世帯持ちの人は、家族とともに一軒家が与えられましたよ。
 
 待遇は良かったですね。燃料も軍から出してもらえたし、出費は食事代だけでしたから。外に出かけるのも、制限はなく自由でしたね。
 給与も、小学校の校長先生が55円だった時に57円ももらえたんです。それだけじゃありません。1級地、2級地等の勤務地によって額が違いましたが、手当が給与の130パーセント出たんですよ。
 
一般の労働者の給与が50銭位、50銭あればいい方だったかな、そんな時代にですからね。それは、海外で軍事教育を受け、国のために命がけで働く軍属だったからなんでしょうね。
 
   ❒ロシア国境の町ハイラルで無線傍受の任務に就く
 
 1か月の訓練を終了した私は、1日1本しか出ない満州鉄道の列車で、他の3人の仲間とロシアと蒙古の国境に近いハイラルという所にあった無線傍受場所に行ってね。そこで、敵の無線を傍受するスパイの仕事をしたんです。特殊情報部隊、特務機関って、昔は言ってましたね。ロシア国境に、無線の傍受場所が5か所あったんですよ。関東軍本部で訓練を受けた人は、それぞれその5か所の傍受場所に配属されましたね。
 
 傍受の仕事は、いつ無線が入るかわかりませんから、4人が交代で24時間任務に就きました。1台の機械に3人が就いて昼と夜に担当したら、翌日に休むという体制で任務を行いました。
 
 モールス信号は数字で送られてくるので、我々無線の傍受者はそれを受け、その数字をロシア語に詳しい別の数人の解読者が日本語に訳していたんです。発信はしないで、相手が打った信号を受けるだけの仕事ですけどね。受けた後に、ちょっとここの数字がわからなかったと言ったって、聞き返すことはできないんですね。そんなことしたら、傍受してるのがばれちゃうでしょ。だから、「大事にキャッチしなさい。」って言われたんですね。
 
   ❒無線の音の特徴で発信地を特定
 
 無線を発信する相手も、敵に傍受されると思うから、毎日周波数を変えるんですよ。そうして、キャッチされないようにしてるんですね。それだけじゃないですよ。通信士によって打ち方に癖があるし、発信の音も機械によって違うのでわかりくにいんですね。打ち方によって、音も変わるしね。だから、毎日傍受をする担当者は、その日に聞いた音の特徴をノートに書き残しているんです。そうするうちに、慣れてくると音の特徴を聞いただけで、どこから発信されたかがわかってくるんですよ。
 
 でも、わからなければ電波探知機に測定機がついているんで、相手の無線をキャッチすれば、こっちの方から出ていると他の傍受場所にも教えるでしょ。だから、各地の場所もその方向に探知機を向けて聞きますから。それで、どの辺から電波が出ているかがわかるわけですよ。大きな部屋に地図があってね。そこで測ってるんですね。測量と同じなんですよ。
 傍受の仕事は、嫌ではなかったですよ。電波をちゃんとキャッチでければ、また1つ傍受した数が増えたなと思いましたね。
 
 そのハイラルの傍受場所には、100人近くの日本人が配備されていました。そこには、兵隊もいましたよ。関東軍の司令部がある所に傍受場所がありましたからね。ハイラルにも関東軍の司令部があって、我々はそこに就いていたんですから。そこで受けた電報をその司令部に送るから、司令部ではどこに戦車部隊が来たとかいう情報がわかるわけです。
 
 もう戦争が始まったら、簡単なんですね。戦争が始まる前に、相手の動きを知るのが我々の仕事なんですよ。戦争が始まったら、数字でいちいちやってなんかいないですからね。
 
   ❒給与から50円を毎月実家に送る
 
 ハイラルでも新京と同じように、十分な広さの官舎があてがわれていました。家族をいつ迎えてもいいような場所でした。給与も、新京の時と同じで57円をもらっていました。ハイラルは国境に近い1等地でしたから、手当も給与の130パーセントが追加支給されてました。二級地は、給与の80パーセントでしたけどね。
 
 金は、使う所がないでしょ。町に出て酒を飲んだりはしましたが、軍で預かってくれるんで、皆貯金してましたね。軍の郵便局もちゃんとありましたから。普通の郵便局と同じですよ。金を送ることもできたんです。それで、私は毎月50円を日本の実家に送っていたんですよ。
 
   ❒父の訪問
 
 実家といえば、父親がハイラルの私のところに一度尋ねてきました。父の親戚の息子が軍人で、朝鮮の平壌(ピョンヤン)にいたんですが病気になったんですね。その父親はすでに亡くなっていたので、母親から息子の見舞いで朝鮮に行くので、父に「一緒に行ってくれと頼まれたんですよ。それで、朝鮮に来たついでに隣の国だから、ちょっと行ってくると、満州の私に会いに来たんですね。
 
 ただ、満州でも私がいた一級地に来るには、役場の旅行証明書がいるんですけど、父はそれを知らなかったんですね。それで持ってなかったんで、満州国の憲兵に捕まっちゃったんですよ。汽車の中でね。朝鮮から私に「これから行く」と電報をよこしたのに、3日しても来ないから捕まったんじゃないかと思っていたら、心配した通りその憲兵から電報が来たんでわかったんす。中国人でしたから、父の話が分からないので電報をくれたんですね。すぐに捕まったのは、私の父だと伝えましたよ。それで父は、軍から証明書を再発行してもらって、ハイラルに来ることができたんです。
 

ハイラルに訪ねて来た時の父親 鬼太郎さん

 
 父は、3日間泊まったんですが、そのときに父とどんな話をしたか覚えていません。確か、母の様子を話してくれたと思いますね。
 父が帰る際には、砂糖を6キロ、サイダーを入れた魔法瓶、シャツ等の着ものをバックに入れて持ち帰ってもらいました。砂糖は、満州では月に2キロ配給されてましたが、日本では手に入らないと聞いたんでね。荷物は開けて調べられるとまずいので、誕生日か何かにもらった菊の御紋がついて桐の箱に入っている「恩師のたばこ」を1個入れ、荷物の上に「恩師のたばこ在中」と書いて渡したんです。そのおかげで荷物を調べられることはなかったみたいですよ。ただ、魔法瓶は帰る途中にガラスが割れてしまったと聞きましたね。
 
 その後父からは、軍刀、仕込みのステッキなどが送られてきました。軍刀は、我が家の家宝でした。南方に行った人は、皆軍刀を持って行ったようですよ。命の危険がある者が持参したんですね。私が、いきなり満洲へ旅立ったので渡せなかったんですけど、我が家では誰も軍人になった者がいなかったので、心配してくれたんでしょうね。我が家は、兄達も皆背が低くて、徴兵検査に受からなかったんですよ。 
 
   ❒白系ロシア人の教室でロシア語を学ぶ
 
 ハイラルでも、出歩くのは自由でした。着任後、しばらくしてからもう少し勉強しようと、自分で金を出して白系ロシア人からロシア語を教わりました。週2回夜学に通いました。他に習っていた人もいたんでしょうけど、私の時は私1人だけでした。
 
 傍受の仕事についたら、モールス信号を聞いて数字にする自分達より、それをロシア語に訳す通訳官の方がもらう金が良かったので、憧れもあったと思いますね。それに、戦争が終わったら、ウクライナにでも行って牧場をしたいと思っていたので、習ったんですよ。戦争には勝つと思っていましたからね。
 でも、大東亜戦争が始まっちゃったでしょ。そんなこともできなくなっちゃったんですよ。金はいくらも取られなかったですよ。通ったのは、半年位だったと思いますね。白系ロシア人は、革命などでロシアがら逃げてきた亡命者で、私に教えてくれた人は、けっこう日本語も話せました。
 
 それでも、この時に覚えたロシア語は、捕虜になって刑務所でロシアの囚人達と一緒だったときに役立ったんですね。ロシア語を覚えるのは大変だろうって、英語を覚えるのと同じですよ。必要なものは、やはり覚えられますよ。自然にね。ロシアの捕虜になったときに、強制労働で一緒になったロシアの囚人とちゃんと話が通じましたからね。そのかわり、周りの日本人には恨まれましたけどね。日本人の囚人達の前で、「こいつはスパイだったんだぞ。」って言われてね。
 

ハイラルにいたときの鈴木登さん

 
   ❒不合格となった徴兵検査
 
 20歳になったときに、本当は福島でやるわけだったんですけどね。ハイラルで徴兵検査を受けました。身長や体重、胸囲、血圧などを測るんですね。「どんな仕事をしているんですか。」とも聞かれ、スパイであることを言うのは禁じられていたでしょ。「公衆の面前では一切言いません。」って答えたことを覚えています。
 
 その徴兵検査で落っこっちゃって、私は兵隊になれなかったんですよ。なぜかって、背が小っちゃかったんです。どの位あれば良かったかわかりませんけど、当時私158センチだったかな。昔は、今より背が低い人が多かったわけですけど、私は1番低い方でしたからね。でも、不合格になっても、別に何とも思わなかったですよ。軍人になれなくても、このまま今の仕事に就いていられるだろうし、それでいいやと思っていましたね。危ないこともないしね。
 
 無線を受けることは特殊なことなんで、人を採用するのは大変ですからね。教育しなくちゃいけませんからね。兵隊になると、引っ張っていかれて、ただで使われるんですから。 
 
   ❒無線の傍受は戦争前に敵の戦力を知ることが目的
 
 終戦の年にロシアが満州に攻めてくるまでは、国境は近かったですけど、ハイラルでは何も危険なことは起きませんでしたね。ロシアとは敵国でしたけど、不可侵条約を結んでいたからじゃないでしょうか。 
 
 電波をキャッチしていると、ほとんどの情勢は推測できちゃうんですよ。戦争が始まれば簡単に情報は出てきますけど、始まる前に相手の戦力や動きを知ることはなかなかできないでしょ。その時が、我々の勝負なんです。戦争が行われる前に、相手の動きがわかりますからね。
 
 事前に敵の力がわかれば、日本はアメリカとも戦争できなかったと思いますよ。もともと力が違いすぎて、勝てるわけがなかったんですよ。戦争が始まり戦況が悪くなっても、国民に向けては日本が優勢だなんて、違うことを言ってたんですからね。情けないもんですね。本当に無茶ですよ。          
                           (2)に続く
 
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