リング名を改名し、世界王座を勝ち取ったボクサー
皆さん、こんにちは~。
植物の育種家の体験記事を紹介しているトゲル/ Hiro Iwasawaです。「え?そんな名前だった」と思われた皆さん。私の記事を読んでくれている方ですね。ありがとうございます。はい。3月1日からnoteに投稿を始めた私ですが、今回の投稿から「トゲル/ Hiro Iwasawa」の名前を使わせてもらうことにしました。
投稿を始めて9か月、私の記事を読んでくれた皆さんのおかげで、これまでにビューを4,950、スキを600をいただくことができました。これだけ自分の記事を読んでもらえようになったので、ボツボツ独自のペンネームをつけさせてもらってもいいだろうと思って、改名させてもらいました。
新たな名前には、従前からの「イワサワ」の名はローマ字で残し、その前に「トゲル」の文字をつけました。この「トゲル」は、「やり遂げる」、「成し遂げる」の一部「遂げる」をカタカナで現したものです。(「棘」とは、関係ありません。)
自分が、夢に描いた新品種の作出を成し遂げよう努力する育種家の体験を書く者だということがこの名を付けた理由です。そして、私自身も育種家の皆さんのように、何事にも途中で諦めずにやり遂げる人になろうとの決意も込めさせてもらいました。
この辺でいつもだと、育種体験の紹介するのですが、今日は名前を改名したことでもあり、育種とは違う話を紹介します。改名した新たな名前によって自身が鼓舞され、それまでの弱さを克服して、何と世界№1、チャンピオンを勝ち取った元ボクサーの話です。
❒ ガッツ石松のボクシング人生
テレビの探偵番組やクイズ番組に良く出演している俳優、タレントのガッツ石松(74歳)をご存じですか。顔を見ればわかると思いますが、何か良いことがあると「OK牧場」と連発するといえば、わかった人も多いのではないでしょうか。
このガッツ石松は、45年前の1978年まではヨネクラジム所属のプロのボクサーでした。しかも、1974年4月11日当時の世界チャンピオンを8回KOで破って王座に就き、1975年12月まで5回防衛した世界ライト級チャンピオンだったんです。
中学卒業とともに栃木県から上京。最初のプロテストでは不合格となり、1966年17歳のデビュー戦を1回KO勝利。リングネームは「死んでも直らないほどのおっちょこちょい」の「森の石松」の名をもらった鈴木石松。世界王座に就く前の戦績は、26勝11敗6分であり、日本の世界王者で王座を奪う前に10敗以上しているのは、ガッツ石松のみでした。このガッツ石松が、世界王座の地位につくまでの歩みは、どのようなものだったのでしょうか。
鈴木石松の4回戦時代の初めは勝ったり負けたりで、1回でKO負けの経験もありましたが、後にヨネクラジムと契約していて世界チャンピオンを数多く育てたエディ・タウンゼントの教えを受けました。
1969年全日本ライト級新人王となり、1970年1月に世界王座挑戦がほぼ決まっていた東洋ライト級王者ジャガー柿沢と前哨戦を行い、番狂わせの一方的な判定勝ちを収め、柿沢に代わって1970年6月にパナマでWBA・WBCア世界ライト級チャンピオンのイスマエル・ラグナに挑戦しましたが13回KO負け。1971年には日本ライト級王者高山将孝に挑みましたが、10回引分けでタイトルは奪えませんでした。
1972年1月、5か月前にKO負けしている東洋ライト級王者の門田新一に挑戦してチャンピオンを奪取。その試合後に「今の目標はWBA王者のブチャナンです。」と語り、3年後にブチャナンに挑戦することになりましたが、東洋ライト級王者になった後に白タクの利権がらみで弟の絡んだトラック運転手などとけんかとなり、2人をKOした事件で逮捕され拘留。
1973年9月WBA世界ライト級王者のロベルト・ジュラン(パナマ)に挑戦しましたが、10ラウンドKO負け。このとき、勝敗以前に石松が話した「パナマのリングは暑すぎて、スタミナが持たない。これでは勝てない。」という諦めの早さに米倉会長が怒ったそうです。
でも、試合後には「ボクシング技術は王者に劣っていないので、スタミナがあれば、勝てない相手ではない。」と話したということです。
しかし、試合で少しでも形勢が悪くなると、試合放棄に近い行動をとって試合を取って勝てる落としたり、ランニングが嫌いで「走ってくる」といっては事務を出て帰りに水を被ってくる(本人談)ということが何度もあったため、ジム側が「ガッツのあるボクサーになってほしい」との思いで、リングネームを「ガッツ石松」に改名したのです。
そして、1974年4月11日、WBCライト級王者に挑戦。チャンピオンのロドルフォ、ゴンザレス(メキシコ)は、59勝のうち50KO勝ち5敗の戦績で99%勝てないとの不利な下馬評でしたが、試合ではガッツは絶好調で互角に打ち合い、8回左フックでロープに下がった王者に左右の連打でダウンを奪い、KO勝ちで王座を奪取して、世界チャンピオンとなったのです。
私、トゲルもこの試合を途中からテレビで見ていましたが、応援するファンの興奮もすごかったですが、特に勝った本人の喜び方がすごかったんです。試合後、石松は放送席に呼ばれてビデオを見ながら、「自分は左右のパンチを繰り出す間隔が短いので、右のパンチは相手に見えない幻の右なんです。」と話し、まだそのパンチを打っていない前から、ビデオの自分のファイティングポーズを指さして、「ほら見て。幻の右を狙ってるところですよ。」と興奮して話していて、一緒に見ていた父が「喜びすぎだ」と語っていました。
それだけこの日の戦いは、ガッツ石松がこれまでより一皮も二皮も向けた姿で、トレーナーのエディー・タウンゼントも「今日の石松、新しい力が入ったのよ。」と驚いたほどの会心の出来だったのです。
このファイトマネーで実家のボロ屋に住む両親に新築の一軒家もプレゼントした石松は、必ず5回は防衛するから」と妻に告げ、そのとおり
①1974年9月に判定でチェリー・ビネダ(メキシコ)を、
②1974年11月にKOでロドルフォ・ゴンザレスとのリターンマッチを、
③1975年2月に苦戦しながらも、終盤ダウンを奪って判定で元WBA・WBC王者のケン・ブチャナン(イギリス)を、
④1975年6月に判定で再選したチェリー・ビネダを、
1975年12月にKOでアルバロ・ロハスを破り、見事5度の防衛を果たしたのです。
そこには、勝てる試合でも、形勢が悪くなると試合放棄して落としていた以前の「鈴木石松」の姿はありませんでした。
過去に10敗以上の戦績だったガッツ石松が、なぜ世界チャンピオンになって5度の防衛を果たす強いボクサーになることができたのでしょうか。ボクシングの専門家ではありませんが、恐らくパンチ力やテクニックなどは、元々一流のものを持っていたのだと思います。しかし、もっとガッツのある選手になってほしいと事務所側が言ったように、試合を放棄したりするといったメンタル面で弱く、力を発揮することができなかったんだと思います。
そのような石松にとって、「ガッツ」という言葉を入れた名前に改名したことは、大変に大きかったのだと思います。世界チャンピオンになった後に、テレビ番組本人は次のように話しています。
「以前の自分は、相手にボクシングで敗れたというより、自分でこれでは駄目だと試合を投げていたんです。ガッツ石松と名前を変えたら、観客からガッツ、ガッツという声がかかると、その声が劣勢の時などでも何をしているんだ、もっと力を出せ、根性を入れろと四方からガンガンと響いてきて、モリモリと闘志がわいてきたんですよ。」
この本人の言葉が全てを物語っていると思うんです。新たに「ガッツ石松」と改名したその名前が、自分を鼓舞し、過去に十敗以上していたボクサー鈴木石松を世界チャンピオンにまで押し上げ、5回防衛を達成させたことを知ったときには、本当に驚きを禁じえませんでした。
人間にとって何物にも打ち勝つ強い人間となるには、それに立ち向かう強い精神力が必要だということを、まさにガッツ石松のボクシング人生が証明しているのだと思って、私のクリエイター名を変更したこの機会に、育種体験記事は休んで紹介させてもらいました。
私も、「なし遂げる」「やり遂げる」のトゲルという言葉をペンネームに付けさせてもらいましたが、今後も新生「トゲル/Hiro Iwasawa」として自身の目標を成し遂げて、頑張って生きてこられた育種家の皆さん等の体験の聞き書きに精一杯取り組んでまいります。
最後まで、読んでいただき、ありがとうございました。今後とも、よろしくお願いいたします。
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