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小児性愛に「愛」はあるのか?

Twitter上では小児型ラブドールの是非についての議論がまた盛り上がってきています。

それ自体にも思うところはあるのですが、それ以前に小児性愛、ラブドール擁護側からよく出るのが「なぜ性嗜好の中で小児性愛だけその思考を持つこと自体が批判されるんだ」という主張です。

それに対して批判側からでる答えは「他の嗜好は合意が前提だが、小児性愛はそうじゃないから」というもので、僕も概ねそれに賛成です。

ただ、僕自身はそのことに加えて、もう1つ小児性愛に感じている違和感があるので、ここではそれについて考察し、擁護側に一つの疑問を投げかけたいと思います。

それがタイトルにもした「小児性愛に愛はあるのか?」です。ここで言う「愛」は性愛だけでなく、もっとメンタルな愛情も含めたものです。

見落としはあるかもしれませんが、小児性愛以外の様々な性嗜好は合意が取れること以外にもう1つ共通点があります。(いや、厳密に言うと対物性愛とか動物性愛は合意が取れないか)

それは、その気になればその対象と添い遂げることができる、ということです。

もちろん実際には途中で様々な理由で別れることも多いでしょうが、可能性で言えばその他の性嗜好の人は「死がふたり(嗜好によっては二人以上?)を分かつまで」互いを愛し続けることは可能です。

対物性愛だって、自分が死ぬか対象が壊れるまでは愛し続けることができる。動物性愛は一方が動物なだけで死が両者を分かつまでの関係継続は可能です。

熟女マニアでも、SM嗜好でも同様です。極論すればネクロフィリアだって、適切な保存をすれば、長期間に渡って、下手をすると生者の方が死者の仲間入りをするまでその「関係」を維持することができるでしょう。(まあ、ネクロフィリアは「合意」は取れないですし、モラル的なことも含めて生理的嫌悪感を抱く人も多いでしょうが、少なくとも小児性愛が実行された場合のように直接の生きている被害者はいない)

翻って小児性愛に感じる違和感は、小児性愛者が永続的な愛情関係を対象にいだき続ける可能性はゼロなのではないか、ということです。

つまり、小児性愛者はその愛情の対象が時間の経過とともに必然的にその愛情の対象がその嗜好の規定するカテゴリから外れていってしまうという宿命を抱えているのです。その時果たして小児性愛者はその愛情を維持できるのか?

それが私が当事者や養護者たちにお伺いしたいことです。

これは『性愛」なんだからそんなプラトニックな側面のことを議論するのはナンセンスだ、というのであれば、ますます小児性愛者は小児の性欲の対象としてしか見ていないことが露呈し、擁護のしようがなくなります。

様々な性嗜好を持つ人たちの大半はそれが実現できるかどうかはともかく、その嗜好を共有でき、なおかつ恋愛的な愛情も持てる相手を求めているであろうから。

そこを否定するのなら、やはり小児性愛は他の性嗜好とは違う。

永続的な愛情を抱く可能性がない場合も同様です。


ぜひ、おしえてください。

小児性愛者の愛情に継続可能性はあるのか?を。

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