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日々

日々が、掌から漏れていく。現在にいるはずなのに、現在を生きている気がしない。ふとした空白の間隙から、不安の鎌が命を刈り取ろうとしてくる。だから、予定を詰め込みたくなる。隙間を埋めたくなる。創造に、今という時間を生きることに余白は必要なはずなのに…。

最近、こんな風に、現実に対して居心地の悪さを感じていた。なぜか。

当初、僕は自由ではないからだと思っていた。自由を掴めるだけの何かを持っていないためだと。

不幸の本質は、欲望と能力の不均衡にある。
(ルソー)
苫野一徳『「自由」はいかに可能か』より

なるほど、たしかに。経済的に自立しているとは言えないし、社会を生きていくだけのスキルも何もない。高望みをしているかもしれない。自己責任である。仕様がない。

だけれど、何か違う気がする。勿論、自己責任な所は確かにあると思う。思うけれど、何か他の理由があるのではないか。この居心地の悪さ、不快感の原因は自己責任とは違う所にあるのではないか。我田引水かもしれないけど、そう思った。

その答え、というか、納得できる理由を探していると、しっくりくる本が見つかった。
ジェニー・オデル(竹内要江訳)の『何もしない』、という本である。

この本の45頁に、次のことが書かれていた。

何もしないでいると投資に対するリターンは望めない。そんな態度はもはや高価すぎて手が出ない。これが時間と空間の残酷な合流点だ。非商業的空間が失われていくのと同じように、自分の時間と行動がすべて商業的なものになりうると私たちは気づいている。

はっとした。この現実に対する不快感は、自分の全てが何か「有用な」ことに使われなければならない、「生産的な」ことに使うべきであると無意識のうちに強制されていることから生まれているものだと気づいた。

旅に出るとか、芸術的なことをしてみるとか、何か新しいことを始めようとするも、少し経つと辞めたくなってしまう現象。これに遭遇する人も少なくないのではないかと思う。太宰治の『トカトントン』に出てくる、あれである。この現象も、こんなことをする暇があるならもっと他にやることがあるのではないか、と考えてしまうことが原因の一つなのではないか、と思う。

では、僕たちは不快感を解消するために何をすればいいのか。どうしたら居心地の悪い現実を抜け出せるのか。

ジェニー・オデルは、哲学者エピクロスが行った、庭園を購入して癒しの場をつくるといったことや、1960年代後半に米国で起きたような、共同団体を作るといったことは勧めていない。なぜなら、革命に関する独自のニュースサービスの展開を目的としたコミューンに所属していた男性が言うところの、「何もないところから新しくはじめることと、それでも時代に遅れまいとする態度とのあいだの、バランスが悪すぎるシーソーゲーム」に陥ってしまうからだとする。(同書、85頁)

ジェニー・オデルが勧めているのは、注意経済の中に生きていることを前提に、生産的なことをしなければいけないという暗黙の了解を、注意によって拒絶するということである。

余白が縮小しつつあるこのご時世、学生のみならず誰もが「アクセル全開」で頑張らなければならず、抵抗する余裕など残っていないという状況にあって、注意というのは私たちが唯一取り下げるこのできる、最後の切り札なのかもしれないということがある。
(中略)
もし注意(どこに注意を向けるかの決定)が私たちの現実をつくっているとしたら、注意のコントロールの回復は、新たな世界と、そのなかで活動する新たな方法を見つけるということも意味しうる。(同書、155-157頁)

つまり、注意をある一点に置くことで、それ以外の注意、すなわち暗黙の了解に気を取られないようにすることができる、というものである。

僕が抱いた不快感の原因とその対策は、以上のことだった。ふと思ったのは、思い出は拒絶の宝具となり得るということだ。というのも、昨日は僕にとって思い出深い日で、かけがえのない仲間ができた日なのだ。思えば、就職活動という、他者からの評価に注意を向けなければならない中で、注意をそらすことのできる癒しの存在になっていた気がする。

よく、思い出に浸る暇があるなら未来を考えろと言われるが、思い出を想うことは決して悪くないことだと思う。むしろ、強烈な感動は注意を向けやすく、心に癒しを与えてくれるものであるといえる。

ところで、新幹線には『トランヴェール』という旅雑誌が常備されている。
たまに読むのだが、そこに僕の好きな連載がある。

連載のタイトルは「旅のつばくろ」。『深夜特急』で知られる沢木耕太郎が寄稿する連載である。連載をまとめた本も出ている。

今日読んだ2月号、その一文に目が止まった。

しかし、やがてそのその店は消え、感動したという鮮やかな記憶だけが残った。

沢木耕太郎が若い頃に好んでいた料理店を回想しているシーンの話で、そのお店自体は消えてしまい、もう二度とその料理は味わえない。けれど、感動したという思い出は残る、と。

思い出に注意を向けるとはいったものの、いつか忘れてしまうのではないか、あの楽しかった日々、仲間との記憶は薄れていってしまうのではないか。

精神的に未熟な若輩者なので、時折そんなことを思う。だけれど、どうやら、思い出は残るらしい。安心した。

仲間と過ごした場所からは離れてしまったけれど、そこで紡いだ感動の思い出は残る。だから、大丈夫。そんな気持ちになった。

思い出という宝物を大切に、注意を向け、日々という今に生きていきたい。

思い出を思い、心残りを残し、余韻と余白を余らせて、僕たちは次なる物語へとひとっとび。
続・終物語』より

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