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人に過剰期待してる人が怖い

人に期待してる人の期待って、結局は相手が自分の思い通りになるという期待が高そうだなと思っている。

「一度話しましょう」とよく言う人は相手は話せば分かると著しく思い込んでおり、相手がそれで分かってくれないことに対して憤ったりする。ある人は年齢を理由に、ある人は「標準」の何かを理由に相手を否定し、あいつはダメだと周囲に言い放ってしまったり。

そもそも人は自分では無いのだからそんなにスッと自分の考えを理解してくれる訳はないので、分かってくれたらラッキーくらいのつもりで相手に伝わる表現やら素材やら態度やらを準備していくことにしている。

「〜は〜であるべきなんだから」なんて論理のは話し手の都合でしかなくて、その都合を持って行くことで相手が動いてくれないのであれば別の手を取るしかない。誰もお前の正義の話には興味なんてないし、ただいまそれが役に立ちそうなら聞くし役に立たなそうなら聞き流すだけなのだ。

で、これは性悪説というとそんなこともない。なぜならみんな邪悪だろ?と思っているわけではないからだ。では性善説なのかというと、それもなんか違う気がする。相手は自分と違うことを前提に考える説。例えば性違説?

相手に過剰な期待をしてそのあと手のひらを返すように裏切られたと相手を非難することに対して自分は嫌悪感があって、それなら最初からそんな期待などせず粛々と相手の理解をしていくことの方が建設的なんじゃない?と感じている。

こういう考えに至ったのは人に裏切られまくったからとかではなく、10年以上猫を飼っていたからに相成らない。ネコを思い通りにするなんて馬鹿げている。人も似たようなものであろう。

おかげで幼児が意味の分からない行動をしても「まーネコも最初こんなんだったしな」と思うのでそこまで腹も立たない。口に出してしまって奥さんにすごい目で見られたことはある。なお期待してないので幸せのハードルは低く、やってもらえたことに対しては著しく喜べるのでそれはお得だ。

人を信じている、人は素晴らしいとよく口に出している人ほど急に手のひらを返すように人のアンチになってることが多いと思うので、そういう人を見かけるとウワーコワイナーと思ってちょっと迂回して帰る。アンチはやっぱり怖いじゃない。

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