BAKEJO、ダービーを反省する。~長柄高校馬事文化研究部活動記録①

「やあ、もう誰か来て――って、うわっ!」
 部室のドアを開けた途端、目に飛び込んできたのは、”orz”みたいな恰好をした女子生徒の姿だった。
「えと……なに、してるの? 室谷さん」
 床の上で力なくうなだれるその子に、僕はおそるおそる声をかける。
「ん? ああ、ハヤタか……」
 その子は僕に気づくと、首だけこちらへ振り向いた。お尻は突き出したままだ。……目のやり場に困る。いつものことだけど、もうちょっと恥じらいってものを持ってほしいなあ……。
「入ってもいい……かな?」
「ああ、ごめんごめん。退くね」
 そう言って室谷さんは大儀そうに立ち上がる。すらりと伸びた手足と軽やかなストレートヘアが目を引く。目鼻立ちも整っていて、率直に言って美人さんだと思う。みんなは「黙っていれば」と留保をつけるのだけれど。
 ようやく室内に入った僕は、部屋の中央に置かれた長机へ向かう。腰を下ろすのはいつもの場所、入口に近いほうの向かって右側の席だ。ほかの席は女子たちが私物のクッションをパイプ椅子の座面に敷いているから、ちょっと使いづらい。
「それで室谷さん、いったいなにをしてたの? ずいぶん落ち込んでたみたいだけど……」
「いやね、ダービーを見返してたんだよ。JRA-vanのレース映像で」
 僕の斜め前の席に腰を下ろすと、室谷さんは長机に置かれたノートパソコンへ目をやった。部の備品である。ディスプレイは開けられて、電源もついている。あれを使って動画を見ていたらしい。
「ダービーって、昨日の?」
「昨日は佐賀で九州ダービーもやってたけど、私が見てたのは東京競馬場でやってた第八十八回東京優駿のほうで間違いないよ」
 いや、昨日ほかにもダービーをやってたなんて寡聞にして知らなかったけども……。というか、日本ダービーなら昨日も中継で見たよね? 馬事文化研究部のみんなと一緒に。
「だから、反省だよ、反省。なんでこのレース取り逃しちゃったかなあと思って。悔しいよねえ。だって鼻差十センチだよ、十センチ」
 ため息に悔しさをにじませて、室谷さんは天井を仰ぐ。糸が切れた人形のようにパイプ椅子の背にもたれかかる姿は、気の毒というか痛々しいというかだらしないというか……うん、やっぱり恥じらいが欲しい。
 とはいえ、室谷さんの気持ちもわからなくはない。
 昨日おこなわれた日本ダービーは、すごいレースだった。優勝したのは四番人気の牡馬、シャフリヤール。十番枠からスタートして道中は中段を追走。直線に入ってすぐは進路を失いかけたものの、騎乗する福永騎手が即座に内へ切り替えると、そこからが圧巻だった。ゴールまで残り三〇〇メートル、ついに視界が開けたシャフリヤールは、福永騎手の懸命のステッキに応えてぐんぐんと加速。先に抜け出していた圧倒的一番人気の皐月賞馬エフフォーリアを、ゴールへ飛び込むまさにその瞬間に鼻差で捕らえ、ダービーホースの栄冠に輝いた。一着のシャフリヤールと二着のエフフォーリアとの着差はわずか十センチメートルだったという。本当に僅差だ。
 そしてこのレースで室谷さんが本命にしていたのは、二着になったエフフォーリアのほうだった。
「エフフォーリア頭固定の三連単フォーメーション……。鉄板だと思ったんだけどなあ……。シャフリヤールは二列目に入れてたし、三着のステラヴェローチェも相手に拾ってたんだよ。それがまさかの裏目……。しかも鼻差だよ? いやホント、ゴールの寸前まではエフフォーリアが勝ってたと思うんだよね。直線での抜け出し方もバッチリだったし、最後まで脚も上がってなかったしさ。それがまさかのシャフリヤールですよ。福永さんですよ。『冷静と情熱の……あいだ……へへっ』ですよ。テレビ中継でゴールの瞬間のストップモーションが出たときは、マジで目の前が真っ白になったわ……」
 と、今度は机につっぷして頭を抱える室谷さん。嘆くなあ。この嘆き節、じつは昨日から何回も聞かされている。それだけ悔やんでも悔やみきれないってことだろう。
 それに、昨日のハズレは僕にも責任の一端がある。馬体を見て室谷さんにエフフォーリアをおススメしたのは、誰あろう僕なのだ。
「うーん、エフフォーリアは本当に良く見えたんだけど……」
 僕はこの長柄高校に入学する以前、親の仕事の関係でイギリスのニューマーケットというところに住んでいて、そこでかつて競馬の調教師をやっていたという友達のお祖父さんから馬の見方を教えてもらった。僕自身はそれが競馬予想に役立つとは思ってもいなかったのだけど、なんやかんやあって室谷さんが創設したこの馬事文化研究部の部員となり、素人なりにレースの検討をお手伝いしている。
 昨日のレースでも僕は、いつものように出走全頭の馬体について自分なりの見解を述べさせてもらった。
 もちろん最高峰のG1レースに出走してくる十七頭なだけあって、どの馬も僕の目には素晴らしく映った。しかしそのなかでも一番良く見えたのが、一枠一番のエフフォーリアだった。筋肉の付き方には惚れ惚れさせられたし、初の距離となる二四〇〇mも体型的にこなしてくれると思えた。もちろん人馬ともにレースで力を出し切ってくれたとは思うけれど、うーん……。レース直前に少し汗をかいていたとか、そのあたりの影響なのかなあ……。
「なんにせよ、ごめんね、室谷さん。せっかく一緒に予想してたのに、力になれなくて……」
「いやいや、ハヤタのせいじゃないって。予想は馬体だけじゃなく、そのほかいろんな角度からの検討を総合して出すもんだからね。データやら展開やらの予測は私たちがやってたわけだし、ハヤタはあくまで『馬を見る係』。ま、つまり馬券は自己責任ってことだよ」
 ふさぎこんだ僕を見かねたのか、室谷さんがそんなふうになぐさめてくれる。自分だって昨日のハズレで落ち込んでいるだろうに、こうやって他人を思いやれるところは彼女の良いところだと思う。
「ああでも、みや姉にはひと言かけてあげたほうがいいかもね。あの人、エフフォーリアの単勝にリアルに数万円突っ込んでたみたいだから」
 マジですか……。つまり、田村先生は昨日だけで本当に数万円のお金をスッちゃったってこと? 小心者の僕には聞くだけで体が震えそうな話である。
 室谷さんがみや姉と呼ぶ田村宮子先生は、この学校の世界史教諭で、僕たち馬事文化研究部の顧問を務めてくれている。室谷さんとは親戚関係らしく、フランクに呼ばれているのはそのためだ。普段は生徒思いでしっかり者の良い先生なんだけど、競馬が絡むとたまに人が変わってしまうところがあるというか……。そういえば今日の授業、どことなく声に覇気がなかったな、田村先生。
「みや姉もたまにこういうことやらかすからなあ。競馬の負けを引きずって仕事に支障をきたすとか、社会人としてどうなのよ、それ。賭けちゃだめだねー、競馬に人生は。お金は賭けても、人生は賭けちゃいけないよ」
 身内の気安さもあるのか、結構辛辣だね、室谷さん。きみがそれを言うかという気もしなくはないけど……。
 ちなみ念のため断っておくけれど、室谷さん自身が現在「買っている」馬券は、本物ではない。netkeiba.comという競馬情報サイト内の「俺プロ」という予想大会で投票できる仮想の「馬券」だ。予想成績に応じて賞品をもらえる大会だけど、金銭を賭けているわけではないので違法性はもちろんない。参加費なども一切なく、高校生の僕たちも利用可能だ。「金額」の上限など一定の制限はあるものの、本物の馬券さながらに買い目を構築でき、的中率や回収率も簡単に確認できるから、予想の練習にはもってこいらしい。
 室谷さんはこの「俺プロ」をはじめとするさまざまな競馬予想ツールを使って、将来、実際に馬券を買うときに向けて練習を重ねている。馬券で、馬券の儲けだけで生計を立てる。それが彼女の将来の夢であり、目標だ。
 室谷璃子は、「馬券生活者」を目指して日々競馬の研究に勤しむ馬券女子――BAKEJOなのである。
 お金は賭けても人生は賭けない、どころではない。
 お金も賭けて、人生も賭けようとしている。
 さっきおまえが言うか的なことも言いかけたけれど、それだけ本気になれるものがあるということは、ある意味で尊敬すべきことなのかもしれない。僕はまだ将来の夢とかはっきりしてないからなあ。人生を賭けてもいいと思えるほどの夢は。
「あ、似たような格言をいま一個思いついた。『スピードを出していいのは馬に乗ってるときだけ。幅寄せしていいのは車に乗ってるときだけ』」
 うん、唐突なうえに意味がよくわからないからこれはスルーしておくね。下手なツッコミをしてそれこそ人生を賭ける羽目にはなりたくない。とりあえず、幅寄せは車に乗ってるときもダメ、とだけ言っておく。
 というか、せっかく良い話風にまとめようとしてたのが台無しじゃないか。絶対にボケないと死ぬ病気にでもかかってるの?
「そんなことより、ダービーだよ、ダービー」
 また悔しそうにそう言って、室谷さんは手元のマウスを操作した。ノートパソコンでもういちど動画を再生させたらしい。僕は机に身を乗り出して、レース映像が流れはじめたパソコン画面をのぞき込む。何度見てもすごいレースだなあ。競馬歴の浅い僕でも、これが全馬死力を振り絞った好レースだったということはひと目でわかる。
「かぁ、ここだよ、ここ! ホントにゴールの瞬間、首の上げ下げだよねえ。これ、エフフォーリアが勝ってたとしても全然おかしくないって。ていうかさ、百回くらい見直せば、一回くらいエフフォーリアが勝ってるんじゃない?」
「いや、それは無理でしょ……」
 そんなことになったらもうSFすら通り越してホラーの領域である。さすがにそこまではカバーできない。まあ昨日の結果だと、室谷さんと同じように思っている人も少なからずいそうだけど。
 と、室谷さんが懲りずにまたレース映像を再生させようとした、ちょうどそのとき。
「あれ? ふたりもう来てたんだぁ」
「遅くなったわね――って、なに、あんたたち? またダービーの映像見てたわけ?」
 部室のドアが開き、ふたりの女子生徒が顔をのぞかせた。
 先に入ってきた、にこやかな笑みが印象的なショートカットの子が渡辺恵麻さん。パソコン画面にかじりつく僕たちを見て呆れ顔になっているツインテールの子が、阿久津姫さん。ふたりとも馬事文化研究部の部員だ。
「よかったよねー、昨日のダービー。予想ははずれちゃったけど、どの馬もカッコよかった。うーん、現地で写真撮りたかったなあ」
「まあやっぱりクラシックはディープ産駒ってことよね。私も馬主になった暁にはディープ産駒を買うつもりだったのに、惜しい種馬を亡くしたものだわ」
 思い思いの、らしい感想を口にしつつ、ふたりはそれぞれお決まりの席に腰を下ろす。渡辺さんが室谷さんの隣、阿久津さんが僕の隣だ。
 これで馬事文化研究部――バケン部員一同、勢ぞろいとなった。競馬へのかかわり方はそれぞれ少しずつ違う。けれど競馬を好きな思いでつながっている。そんな個性的な面々を見渡し、僭越ながら僕が口火を切る。
「それで、今日の部活はなにをするの? みんな楽しみにしてたダービーも終わっちゃったけど……」
「なにって、そりゃあねえ……」
 言いかけて、室谷さんはほかのふたりを見やる。互いの顔を見合わせる、女子部員三人。僕の問いかけへの答えは、どうやらもう決まっているみたいだ。みっつの晴れやかな表情が、一斉に僕へ向けられる。
「決まってるでしょ、来年のダービー馬探し!」
 フロム・ダービー・トゥ・ダービー。
 ゴー・フォー・ザ・クラシックス。
 僕たち馬事文化研究部の活動は、こうして今日も続いていく。

(了)

登場人物紹介

室谷璃子
将来は馬券生活者を目指すBAKEJO。馬事文化研究部部長。好きな馬券の買い方は二、三着を入れ替えた三連単フォーメーション。

阿久津姫
いずれ馬主になり「阿久津姫HD」を立ち上げる予定のヌシドンナ。馬事文化研究部血統班。好きな馬券の買い方は馬単・三連単軸一頭流しマルチ。

渡辺恵麻
馬の写真を撮ることが大好きなカメオンナ。馬事文化研究部データ班。好きな買い方はがんばれ馬券。名前も入ってなんかカワイイから。

田村宮子
華麗かつ健全にケイバを楽しむシュクジョ……のはず。馬事文化研究部顧問。好きな買い方は三連複五頭ボックス。なのに単勝万張りでしばしばやらかす。

天塩隼太
ニューマーケットから来た帰国子女。相馬眼を持つ男。馬事文化研究部馬体班。好きな買い方は初心者なので詳しくないけどわかりやすい単勝かなあ。

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