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「教育現場が本当に“人間味溢れる場”となるために」〜「私は『シン・ニホン』をどう読んだか」〜

 広域性通信制高校・鹿島山北高等学校のサポート校を福島で運営している佐藤裕幸です.
 今回は「シン・ニホン」公式アンバサダー・第3期生として6週間,養成講座を受講し,なんとか無事にアンバサダーに就任することができたニックネーム“サトティー”として,「シン・ニホン」の感想文を投稿したいと思います.
※“サトティー”の由来→以前学習塾に勤務していた頃,ある生徒が僕のことを“サトーティーチャー”と呼んでいたが,段々面倒になりいつの間にか“サトティー”と呼ぶようになっていたことを思い出し,ニックネームとして使いました.

我慢と犠牲によって成り立ってきた教育現場からたくさんの人たちを解き放ちたいという覚悟から始まった「シン・ニホン」と向き合う姿勢

2019年3月,僕は新年度の時間割を作成していた.2020年度は担任をしているクラスが受験を迎えることもあり,「最高の授業をするために教材研究をしたい」,「生徒一人ひとりの希望を叶えるために,もっと生徒たちと向き合う時間を取りたい」という気持ちがとても強くある中で,時間割を作成する作業は,毎日22時を越えるものであった.
 作業はかなりのストレスを抱えるもので,作業中の2週間で血圧が20近く上昇した.
 これは,別に僕個人に限られたことではないはずだ.「生徒のために」という大義名分のもとに,経験したことのない競技の顧問として部活動の指導をし,平日は夜遅くまで,週末も練習試合や大会出場のための引率などで,かなりの時間“学校という枠”の中で,教員は生きている.
 これは生徒も同様である.平均的な高校であるならば,1日6時間の授業を5日受けたあと,部活動が日没後まで行われる.進学校であれば,通常授業の後に課外授業が組まれ,部活動に参加していなくても下校は日没後.帰宅時間は夜の7時は当たり前.帰宅後にはさらに宿題に追われる.恐らく1日の半分以上が“学校という枠”のために費やされている.
 このような教育現場を見てきて,「学校現場はあまりにも我慢と犠牲で成り立ちすぎている.この現状を変えるために僕自身は,一体何ができるのだろうか?」と考えるようになった.

学校からの卒業

 その後,色々考えることがあり,クラスの生徒の卒業と同時に僕自身も一度教員という立場から卒業することを決めた.「高校生と社会の間にある(と勝手に思われている)垣根を壊し,高校生と社会がつながる新しい教育のインフラを構築する」ことを自分のミッションとし,広域性通信制高校のサポート校を設立することにした.丁度そんな時に,出合ったのが,「シン・ニホン」である.
 通信制高校サポート校を立ち上げる前に,様々な職種に就いている社会人の方々にインタビューをした.そのほとんどの方々が口にしていたのが,高校時代の自分のあり方に対する後悔.特に地方の高校を卒業された方のほぼ全員が,親や学校の先生に決められた道を選んで高校へ進学し,自分の得意・不得意で大学進学の際にも,文系・理系や学部を決めていたことを後悔されていた.レールに乗ることを自然に受け入れていた自分への怒りみたいなものを話す人さえまでいた.

自分自身のことも振り返る

 僕自身もそうである.数学が好きで好きでたまらなかったにも関わらず,化学が苦手というだけで理系進学を諦め文系に進学し,進学後は何を学びたいのかわからないまま単位取得のためだけの学びに終始.ゼミの選択も就職率がいいということを優先した(とは言っても数学が生かせるマーケティングを専攻したが...).
 社会人として仕事をするようになると,簡単に答えが導き出せないたくさんの課題に出合う.さらに自ら課題を発見することも要求されるようになり,言われたことをしているだけでは,一人前になれないことに気づく.その現実に晒された時に,これまで何も考えずに生きてきてしまったことを後悔する人は多い.僕も間違いなくその一人で,現在52歳でありながら,いまだに一人前になれているという自信は全くない.

「シン・ニホン」からの気付き

 そんな僕がこれまで感じてきてきたことや,自分がしたかった本当のこと,あるいは今の日本に対して感じているモヤっとした違和感など,それら全てを鮮明にしてくれる力みたいなものが,「シン・ニホン」の中にあった.好きな数学を学ぶことの本当の意義,高校時代に苦手で仕方がなかった国語力を浪人時代にアップデートして一気に目の前が開けていった感覚,教育現場が抱える様々な問題...数え切れないほどの想いが,「シン・ニホン」のなかで全て言語化されている感覚に見舞われた.
 例えば,中高生の数学嫌い問題.教員として初めて教壇に立った際,「僕は皆さんの数学嫌いを変えられるような授業をしようと思っています」と言ったことを今でも鮮明に覚えているが,実際にどのくらい数学嫌いの中高生がいるのか正直理解はしていなかったし,僕の授業を受けてどのくらいの中高生が数学を好きになったのかということは全く把握していなかった.
 さらに,どうすれば数学嫌いにならないようにするかなどの具体的な方法などはなく,自分の経験から得たものだけでなんとかしようとしていたのは間違いない.
 しかし,「シン・ニホン」の中では,日本の中等教育段階前半での数学のレベルと数学を学ぶことが好きな度合いをデータとして示している.さらに数学が全ての科学の基礎言語となることを述べた上で,高校までで学んでおきたい領域を明確にしている.そして,数学の「技」を身につけさせることに関して成功しているものの,数学を「やる気にさせる」という点で成功しているとは言い難いと述べ,教える側に問題提起をしている.
 幸いなことに,今導入が急ピッチで進んでいる,教育現場のICT化は数学嫌いに歯止めをかける可能性は結構大きい.数学とICTの相性はとても良く,実践的に数学の必要性を学ぶことができる.
 問題があるとすれば,教える側がどれだけICTに対応できるか.黒板とチョークだけで講義型の授業を展開してきた教員が,反転学習などを取り入れ,個別最適化の授業へと転換できるかが大きな鍵となる.ただ,そう言った教員の知識に関しては目を見張るものがあるので,生かし方を考えつつ,“じゃまおじ”・“じゃまおば”的存在にならないような対処を考える必要はある.

大学進学時の自分

 僕自身は,大学院まで進学していない.前述したように,数学が好きだったものの化学に対する苦手意識を克服できずに文系に進学したために,大学では研究熱が高まるほどの学問に出合えなかった.というより出合う意思がなかったと言った方が適切かもしれない.
 また,当時僕の周りにいる人で大学院に進学し,学ぶことの楽しさを伝えてくれる人もいなかった.むしろ「大学院を出たやつで,社会に出て使い物になるやつはいない」という大人の方が多く,大学院に行く意味を見出せていなかったことも大きな原因だった.

就職後の出会いで考えさせられたこと

 学習塾に勤務している時,アルバイトとして入ってきた一人の理系女子大生が,その後大学院へ進学した.とても優秀な学生で,僕とは明らかに学ぶ姿勢が違い,ある意味とても羨ましく見えていた.
 修士を取得後,彼女は僕の勤める学習塾に就職した.自分の仕事にはそれなりの誇りを持っていたものの,正直「実に勿体無い.もっと違う才能の活かし方があるはずなのに...」とずっと思っていた.3年後,その彼女は地元に戻り,地元の医師と結婚した.
 また,同じくアルバイトとして勤務している学習塾に来てくれた大学院生.出会った頃から野心に溢れ,いつもギラギラしている感じがとても好感をもてた.彼は,専攻していた経営学を、地元の地方自治に活かしたいと考え,修士取得後地元の県庁で働くことになった.
 2年後に同窓会的に集まる機会があり,彼も顔を出してくれた.久々にあった彼の表情からは,あの時にあった“ギラギラ感”は全くなくなり,疲れ果てていた.話を聞くと,「大学院で身につけたものは一体なんだったんだろう?全く生かすことができず,日々の業務をこなすだけになっています」と語り,とても残念な気持ちで聞いたのを思い出す.

今の自分の中にある教育に対する想いと「シン・ニホン」から突きつけられた現実

 教育に携わる人間として,学問の面白さやそれが実社会で役立つ感覚を僕と出合う中高生に伝えたいという想いは強い.自分の没頭することを見つけ,楽しみながら学んでくれることを切に願っている.同時に僕が出会った二人の優秀な人材は,例外的なサンプルで,日本のほとんどの修士及び博士取得者は,研究等に没頭し続け,社会貢献できる情熱と才能を解き放てる環境にいると信じたい.
 しかし,「シン・ニホン」で語られる現実は残酷だ.Ph.Dレベルの人材について,2018年度の東京大学における情報理工・学際情報・数理科学系で79名,京都大学の情報学が29名,総合研究大学院大学での複合科学分野で19名(P.249)と極めて少数の人材しか生み出せていない.さらにOECDの事務系スタッフと日本の官庁のPh.D人材の差(P.249),「データ×AI 的な素養のある人を育てたら,既存の大企業はその人たちを評価し,採ってくれるのか,出口が問題なのではないか」に代表される文科省の方の発言(P.250)など危機感しか見出せない.さらに高度な人材開発への投資の少なさなども語られ,優秀な人材の海外流出もやむを得ないと痛感してしまう.
 それでもなお,安宅さんが「シン・ニホン」を通じて,「日本はまだ立ち上がれる」と語っているのは大きい.コスト解析とリソース配分という観点から,日本を“伸び代しかない”と表現し,我々一人ひとりが自分ごととして考える機会を提供してくれている.

我慢と犠牲によって成り立ってきた教育現場からたくさんの人たちを解き放つために出来ること

 僕自身,初等・中等教育に関わる人間としてできることもたくさんある.
 既に52歳の僕が,最先端のテクノロジーを駆使し,社会貢献できるかは正直自信がない.しかし,未来そのものである若者に直接向き合うことはできるし,少なくとも若者たちの情熱と才能を解き放つ場を作り上げていくことは十分出来る筈である.自分自身では語ることができない分野でも,様々なコミュニティに参加し,人との繋がりを大切にしながら,若者との橋渡しをする.学ぶことの面白さを心から語り,若者たちを学びの世界へと誘う.
 若者の保護者と向き合える機会があるのも大きなアドバンテージかもしれない.日常生活を過ごすだけで手一杯の親世代と積極的に交流し,未来を担う若者のために社会貢献するとはどういうことか?若者のために日本の未来をこの先どうしたいのか?などを対話していく機会を生み出していくことが出来るのではと考えている.

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 今年の3月末で一度公教育からは離れたことになるが,教育という観点から,僕なりにどのような未来にしたいのか?というイメージみたいなものは,「シン・ニホン」を通じて出来上がりつつある.
 “我慢と犠牲”で成り立っている教育現場を,“AI-ready 化”によって,教員の持っている情熱と才能を解き放ち,その情熱と才能を若者の情熱と才能育成のために全力で傾けられる学校現場.そんな学校こそが本当の意味での“人間味溢れる”学びの場となると確信している.
 「アレっ?」書きながら途中で結構ネガティブに考えることもあったのだが,最後はかなりポジティブに考えられるようになっている.これこそが「シン・ニホン」の魅力,そして安宅さんのチャームなのかもしれない.

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