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【資料】 昭和51年の粕取文献

■はじめに

サイト『九州焼酎探検隊』にアップした各種データや記録について、可能な限り集約して再掲載します。20年前の時点でも探すことがたいへんだったものもありました。有志の方のご助力もいただいたお陰で、知見を深めることができました。それらを再掲載していきます。

いつか、誰かが探しに来てくれるならと・・・。


2005.03.04 by 猛牛 サイト『九州焼酎探検隊』で公開

■昭和51年発行の、正調粕取焼酎の資料が・・・。

昨日のこと。探検隊をご覧いただいているある方から、わて宛てに一通の封書が届いた。「おろ?なんやろう?・・・ま、まさか税金の滞納か?」なんちことはないが、不思議に思って中を見たら、びっくらこいた! 

なぜなら、昭和51年(1976年)発行のある雑誌に掲載された、主として筑前の粕取焼酎と焼酎業界に関する詳細な記述にあふれた記事のコピーが、封筒の中に入っていたからだ。

昭和51年といえば、例えばあの大日向焼酎共栄圏の主導者にして正調粕取復興の牽引者でもあるアノ石原けんじ大佐先生がぬぅあんとまだ御歳1才! ニシタチとはこれっぽっちも縁がなかった純粋無垢なベビーちゃんだった時代である。

いやぁ~、ほんにうれしい驚きだ! 一読して興奮したっ!(ま、こういう反応が出るんは、わてや石原けんじ大佐先生、goida隊員くらいのもんやろうか)。

極めて貴重な資料なので、とにかく内容をご紹介しよう。

---------記事概要----------

■掲載誌:「日本醸造協会誌
■発 行:昭和51年(1976年)7号
■タイトル:「焼酎風土記」北九州
■著 者:吉田 大(福溜会)

日本醸造協会がどういう組織かは上記リンク先でご確認いただきたい。この記事が1976年7号(71巻)の524~525ページに掲載されていたことがわかる。

また著者の吉田大氏だが、現在吉田姓の蔵元さんが筑後に数社ある中、どちらの先代かまたは先々代なのか現段階では未確認。また「福溜会」は記事中に「昭和28年(1953年)酒団法の制定と共に、現在の福岡県酒造組合に合流し、専業者をもってその中に『福溜会』を組織し、今日に至っている」との記述がある。

というわけで、記事をご覧いただこう。


焼酎風土記

北九州

吉田 大(福溜会)

 県南の古都久留米から有明海にいたる筑後川下流のデルタ地帯は、早くから我が国有数の米作平野であったが、17世紀から18世紀にかけての近世前半の頃になると、耕地面積も米の生産高もそれまでに比べ一躍倍増した素晴らしい農業生産の発展が見られるのである。

ガンヅメ、水車、鯨油、焼酎の下粕(したかす)

 元禄の頃、前記の米作の発展に大きく寄与した功労者に、日本の農学を初めて体系づけた『農業全書』全10巻(1697年)の著者糸島の宮崎安貞や、農耕用のガンヅメ(牛注:除草機)等を発明した(1717年)三井の笠九郎兵衛、さらに見事な灌漑用水車を創り出した(1722年)三瀦の万右衛門がいる。
 またこの頃から害虫駆除に五島産の鯨油の普及が始まり(1781年)、加えて米作肥料として酒粕を煎(蒸溜)じて得た下粕が貴重な存在となって、農業生産に格段の安定と飛躍がもたらされたのである。

酒かす焼酎の起源

清酒かすを煎じて出来た下粕を稲作の肥料とした技術の開発は、広く中国の農書を研究していた前記宮崎安貞の指導に依るかとも思われるが、他方その製造方法を明治初期まで継承して来た地域が、県下の太宰府・粕屋・糸島・八女……と、往時の太宰府天神の神領地域の百姓衆に限られていた事績との関連については、なお今後の究明にまたねばならない。
 また同じ伝承が防府天神(山口県)や北野天神(京都市)の旧神域地域にも見られることは、往時上記三天神の間に密接な交流があったためかとも考えられ、酒かす焼酎の技術導入が、その製法の特質から管間博士所説の中国からの伝来とはいうものの、福岡への橋渡しが、早く太宰府宮庁によるものか、あるいは元禄の宮崎安貞に依るものか、その辺は確かではない。それにしてもこうして酒かす焼酎が百姓衆の肥料造りの副産物として生まれ出たという史実は、なかなか興味深いことである。

さなぼり(早苗饗)焼酎

 こうして農民の間に生まれた福岡の酒かす焼酎は芳醇な香味、あるいは夏期も腐敗の心配がなく、貯蔵すればする程品質が良くなる等の特質が広く大衆の間に珍重されて、次第に農民生活の中に溶け込み、爾後の農村文化の大きな担い手となるにいたった。
 古老の語り伝えるところに依ると、江戸末期から明治初期にかけて小農で三駄、大農で七駄程度の酒かすを仕入れて焼酎を煎じ、下粕肥料の製造を続けて来たとの事である。

(註)一駄は馬一頭に負わせる重量で36貫を一駄とする。大農七駄で酒かす945kg、25度焼酎200l程度作っていた事になる。

 さて下粕の肥料は出来た。田植えも済んだ。さあ骨休めのお祭りだ。さなぼり(早苗饗)の祝宴だ! という事で、村里には酒かす焼酎の芳香がだたよい、いつの頃からか広く農民層に“さなぼり焼酎”の愛称で慈しまれ親しまれるようになった。

(註)この風習を尊重して、大東亜戦争中及び戦後の統制経済下でも、田植焼酎(早苗饗焼酎)の特配が続けられた。

盆焼酎・梅酒・暑気払い

 少しばかり黄ばんだ梅の実に氷砂糖を加えて酒かす焼酎に漬け込んだ梅酒は、プラム・リキュールの秀逸である。その製法の秘法は農村の古くからの旦那衆の家系に受け継がれ、今日に至っている。
 40度の酒かす焼酎に白砂糖を一ぱい垂らすと、独特の風趣が漂って暑気払いの妙薬となる。特に中年女性に愛好珍重される逸品である。
 また扇風機も冷房もない古き良き時代の夏の夕暮れ。湯上がりの涼しい縁台で団扇片手に飲む酒かす焼酎の雅趣、あるいはぴりーつとした咽ざわりで一日中のけだるさを引きしめる清涼味等等お盆の飲みものの王者とされ“盆焼酎”という有難い季節名が生まれ出たのである。
 盂蘭盆会の食卓を飾った酒かす焼酎は風雅でしかも土俗味あふれ、一族団らんのこよなき伴侶であった。

焼酎組合の歴史

 明治24年(1851年)、九州鉄道が門司から熊本まで開通した(ただし当時は九州鉄道株式会社経営の私鉄。国有化は明治40年7月1日)。その秋新装なった羽犬塚駅前の石人館旅館に、瀬高(山門郡)の川島準平・水田(八女郡)の吉田磯八・城島(三瀦郡)の首藤有記等が相集い、山門・八女・三瀦の合同同業組合を作り、八女の吉田磯八を当番世話人としたのが、この組合のスタートである。その後三池・大牟田・久留米・三井・浮羽・朝倉を併せ、二市七郡の同業組合に発展し、大正8年筑後焼酎製造組合となり、組長に森永弥久太郎、組合主事に元犬塚村長の中山隣太郎を迎え、組合活動は格段の充実を来したのである。両氏はまた持前の宴席の才人ぶりを縦横に発揮し久留米市の料亭松源での恒例の品評会宴席は実に殷盛を極めたもので、この伝統は大東亜戦空襲で松源が消失するまで続いた。小生もまだ若い学生の頃に父の代理でこの宴席に出席して、きらびやかな芸者衆に取り囲まれ、身の縮む思いをした記憶がある。
 昭和28年(1953年)酒団法の制定と共に、現在の福岡県酒造組合に合流し、専業者をもってその中に『福溜会』を組織し、今日に至っている。

(牛注:文中の「大東亜戦空襲」だが、マリアナ基地進発B29の米軍記録では同日に久留米への作戦行動が無く、リンク先でも解るとおり沖縄駐留の航空軍所属のB24やグラマン、P38による戦爆連合攻撃だったようだ)

福岡の米焼酎(博多焼酎)

 過ぐる大東亜戦争の戦中戦後を通じて、原料酒かすの入手難に喘いだ業界は、その代替原料を求めて探究模索に明け暮れたのであるが、軍用糧秣の払い下げ、とうもろし・高梁・そば……等の原料から焼酎の製法を習得し、さらに甘藷・麦・米粉に転じ、以後苦節30年漸く今日の米焼酎の製造に定着したという訳である。その間の歴代の鑑定官室長上野・加藤・品川・増田・河合・西川の諸先生から見事に連繋された御指導を戴いた事は、私共業者にとり、真に貴重な体験となり、忘れ難い感銘と教訓を残し、今日の福岡の米焼酎を創り上げた大きな土台でもある。
 広く知らるるように、福岡は清酒の主産地の一方の雄県である。酒米の精白により分離された白糠を主原料にした焼酎、清酒の風味のただよう米焼酎が生まれ育ったのも、その風土のカテゴリイの故というべきであろう。
 昭和50年3月、福岡県観光協会は福岡県の本格焼酎を博多人形と共に、県特産観光土産品に指定した。かくして山陽新幹線の博多乗入れと時を同じくして、新しい“博多焼酎”の愛称が生まれ出たのである。

新しい焼酎の波

昭和45年頃から福岡県の本格焼酎に新しい大きな波が、ゆれ始めている。古き良き時代から連綿と続いた焼酎の愛好層が、ブルーカラーからホワイトカラーに動き始めたのである。農山漁村の主力消費地域が都市部へ移動し始めた事である。さらに従来の家庭消費中心から料飲店消費のそれへと、大きく旋回を始めたことである。
 新しい波は焼酎の品質と共にラベル・バリューを求め、そこのことが売上の消長を左右する絶対要素となって来たことである。
 福岡の焼酎100年の歴史をふり返り、その歩みを辿って来た途のけわしかった事を想い、今こそ業界の総力を挙げて新しい波に対処し、この波を乗り越えなければならないと思う。
 有志諸賢の御誘掖を切にお願いするものであります。


正調粕取焼酎の歴史や早苗饗焼酎・盆焼酎の謂われ、戦中戦後の福岡県における焼酎製造の実態など、極めて興味深く貴重な内容が記録されている。

また最後の「新しい焼酎の波」の章などは、主力消費地を--「農山漁村」→「九州地方」、「都市部」→「関東関西の大都市圏」--と入れ替えれば、まさに“現在”の話かと見まがうほどだ。“新しい波は焼酎の品質と共にラベル・バリューを求め、そこのことが売上の消長を左右する絶対要素となって来た”も同様な感慨を抱かせる。

ただ決定的に当時と違っているのは、正調粕取焼酎がいま存亡の危機にある、ということだ。福岡では杜の蔵さん、佐賀では鳴滝酒造さんが気を吐いていらっしゃるのがせめてもの救いと言えよう。

さて、皆さんの読後感はいかがでしたか?



(了)

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