創作大賞に初めて参加して #挑戦してよかった
この記事は企画に参加しています。
初めて小説を書いた
詩歌は小学生の頃から慣れ親しんでいたが、小説は完成したことがなかった。
仕事(塾講師)で、ごく一部を書く程度。生徒さんから「夢十夜の続き、考える宿題が出たが。先生も書いてみいや。」と言われ、共に書いたとしても指導用の文章だから書きたいことではなかった。完成したこともない。
今年、夫の築百年の実家は取り壊しとなる。親戚が何度も何度も集まり、膝が悪いなどの理由から高知に来ることができない親戚とは電話やzoomなども利用して一年以上かけて話し合った。
そうしたストレスフルな話し合いの結果、私達夫婦は今の何不自由なく暮らしているマンションを二年以内には売却し、同時進行で夫の実家の跡地へ平屋を建てることに決まった。
夫の親戚には、ハイブランドに身を包み、一軒家のインテリアにも詳しい非常に押しの強い女性がいる。
彼女からメールや電話で、数ヶ月に一度だけ夫に連絡が入る。それらの提案は、時に私をワクワクさせ、時に私を狼狽させた。
そして、夫婦喧嘩は犬も食わない状態となる。愛犬ポメラニアンに「仲良くしなよ!」と嗜められること数回。
もう限界だ。
そう自覚したとき、2B鉛筆でコピー用紙に殴り書きをしていた。
『引越物語』の始まりである。
登場人物の凪は、私をほんの少し反映させている。
物語の中で、凪の職業がライターの下請けなのは、雑誌の読者アンケートや小さな小さなスペースを埋める仕事を何年か手伝っていたことがあるからだ。
夫の親戚には編集者や小さな出版社を営む者がいて、みな一様に癖が強い。そのまま書くのはnoteでは尚更良くない。元編集長の言う言葉はとんでもなくえげつない。フリーランスの編集者はもっと凄まじい。読んだ人が不安になるような内容は書きたくない。
話を戻そう。
私の小説の書きだしは、第一話のみノンフィクション。それ以降はフィクション小説だ。
私=凪でスタートした小説だったが、二話三話と書いているうちに、私自身はスゥーーっと消えていった。私そのものは小説にならなかった。書こうとしたら、映像が一切浮かばない。非常につまらない人だった。
出来事そのものは事実で、会話や登場人物は架空の話もいくつかある。第四話は、久しぶりに我が家がケンタッキーフライドチキンに行ったことで生まれた。
疲れ果て趣味の創作さえ楽しめない時の揚げ物は、なんでこんなに美味しいのだろう。義妹と唇をテカテカさせながら味わったのは楽しい思い出である。
そのうち、理想を小説に混ぜるようになっていく
小説の中で、凪の夫・正雄が謝ってくれると、ほんの一瞬は嬉しく思って、そのあと哀しくなった。
また話が変わるが、編みものをしていると、とても綺麗だけれど編むのに痛い糸がある。例えば、昭和平成前期生まれのかたなら見たことがあろうかと思う。キラキラしたスパンコールが撚った糸の中にたくさん入っている関西のおばちゃんが好きそうなアレだ。
手持ちの糸は、まるで海の水光のように煌めいている。白から青へを繰り返したグラデーションの染めが施され、一玉1,000円を超えていた。買った当時は家計に余裕があり十玉を即断で購入したのだか、とにかく編めなかった。
左手が、スパンコールがやってくるたび痛くて仕方ない。右手も、左手ほどの被害は被っていないが痛いことに変わりはない。
小説と名打ったものは、私にはなかなか手強くて、好きな詩を頻繁に登場させることとなった。
世間にある立派な小説のスタイルを取ろうとしても技量が伴わない。ミュージカル映画のように突然、私の小説は歌い始める。
だから、創作大賞への応募を最終的に決めたとき、詩小説にした。
カテゴリー分けしようにも、どこにも当てはまりそうもない。ありがたいことにオールカテゴリ部門というのがあった。助かった。
スパンコールつきの糸と格闘した手のように、私にあらすじを書く気力はもうなかった。オールカテゴリ部門なら、あらすじも書かなくていい。(仮にも小説なのだから書くべきなのだろうが)
この経験は、私と家族に何をもたらすのだろう。
10年後には笑い話になって、家族みな平屋の軒先で麦茶を飲んでいられたらいいな。
目が見えているうちに、一生に一度と思って書いたものを受け止めてくださった方々、本当にありがとうございました。
これから出会ってくださる皆様、とんだ作品となってしまいましたが、何卒よろしくお願い申し上げます。
💙hohoさん、今回のエッセイにピッタリの素敵なイラストをお借りしました。いつもありがとうございますm(_ _)m
🧡いつきさん、賑やかし帯大活躍です!いつも創作に寄り添ってくださり誠にありがとうございます☺️