どうした坂元、、クレイジークルーズを観て
坂元裕二がネットフリックスと複数年契約をして脚本をネットフリックスで書くというニュースが少し前にあった。これは、ネットフリックスに入っていなくても、絶対加入しなければという動機になった。これまで、それでも生きてゆく、マザー、カルテット、初恋の悪魔、、数々の心震わせる名作ドラマに浸ってきた自分としては、真っ先に加入だ。しかも、映画「怪物」で、どうやったらこんな美しく震える脚本を書けるのだろうと、感嘆した記憶も生々しく残っているので。
23年11月に初作品の「クレイジークルーズ」とのこと、即座に加入した。大事に大事にまずはアメリカのドラマなどを前菜的に観て。まあ、凄まじくレベルが高いので前菜はメインになるのだけれど。
ミステリーコメディらしいとの予備知識と、煌びやかなクルーズ船の画面がオススメに上がってきて、他のドラマを見る度に坂元作品の期待と楽しみを掻き立てていた。いよいよ時間を取って、観覧した。
そもそもミステリーコメディというジャンル自体は、映画としてはあまり好きではなく、日本のコメディはあまりやり過ぎると安いテレビドラマになってしまうし。日本にはコメディの洒脱というものが醸成されにくいので、映画としては物足りなくなる傾向を自分は感じる。しかし、そこはそれ、坂元脚本はジャンルを問わないことは大豆田とわ子だの初恋の悪魔だのと見せつけられてきた。コメディだか、ミステリーだか、ジャンルがなんであれ、心は揺さぶられ続けてきたので。
冒頭10分過ぎる、何か違和感が残る。あまりに軽い。全てが軽い。船のCGから軽い。ちょっと待て、ネットフリックスは潤沢な資金で日本のテレビでは撮れない大胆な企画を時間をかけてやれるという触れ込みで、坂元も飛び込んだはず。なんだろう、この00年前後に嫌と言うほど見せられたテレビドラマ延長の映画版「〇〇TheMovie」的な風呂敷だけ広げた軽さ。いや、こんなもんじゃない、と言い聞かせながら、20分、30分、1時間、メインに入ってもその軽さのまま。決して、軽妙という言葉の「軽」さではない。出てくる人物が全て薄く軽い。しかも、皆、変な大仰な服を着ている。薄っぺらい背景や人物像を抱えている。きっとわざとだ、この軽さはわざとだと思い込もうとしても、流石に1時間以上過ぎてメインの事柄が展開し始めてしまっては、自分のエコ贔屓も遂に力尽きた。大事な人物像、ストーリー、映像、衣服、音楽、効果音、場面展開、何をとっても「〇〇The Movie」のノリだ。豪華キャストとか言って、ちょい役でいろんな人気タレント・人気芸人を引っ張り出して、予告編で大袈裟にして、宣伝を朝の番組から夜のバラエティまで引き摺り出す、あの手法のコケおどしの「〇〇 The Movie」だ。
坂元エコひいきの私は、ひょっとするとこれは監督に責任があるのかと逡巡した。大豆田とわ子の監督らしい。いくらネットフリックスがテレビに映すことが多いとはいえ、テレビの監督が映画をやると大体失敗する例に漏れない気もする。そこかしこに、映像軽視や音軽視、ちょこまかとストーリーも人物も映像も笑いも動くというテレビ独特の動きを持ち込んでもいて、それも大きな失敗だとも思う。しかし、そういう演出を差し引いても、セリフ回しもストーリーも脚本坂元裕二の印が押されていない。いや、新境地なら押されてなくてもいいのだが。ストーリーも残念でしかない。毎週の相棒などにさえ負ける軸のミステリーだと思うし。
坂元はどうしたんだろう。もう1時間過ぎてからは、そのミステリーに自分は浸っていた。坂元脚本は確かにジャンル的には振り幅がある。シリアスからコメディから、舞台っぽいものからリアルに徹したものまで。でも、やはり根元の人の部分はブレて来なかった。人の喜び、悲しみ、嫉妬、妬み、間違い、笑い、素朴、純粋、ありとあらゆる言葉にできない感情を、言葉にせずに表現してきた人だと思う。
雑草を引き抜きながら佇むだけで言葉にならない苦悩を満島ひかりで表現し、15分の大竹しのぶの壮絶なセリフで娘を殺された母親を表現し、夢と言わずに夢を断ち切らない大人たちを素敵に表現し、泥のかぶる窓をかき分ける大人の姿で真実を見ようとする心情を表現しと、どうやったらこんなシーンを書けるのかと感じさせる筆力の稀有な脚本家だと思う。
きっと忙しかったんだと。あの怪物の近辺に書いた脚本だから、振り幅を意識したのだろうと。振り幅の中で、坂元にだって落とし穴はあるさと。そう言い聞かせて落ち着こうとしているところ。なかなか、「どうした坂元」のミステリーは解けず興奮がおさまらないけれど。まだまだネットフリックスで映画を作っていくだろうと思う。今度はテレビスタッフからは離れてみて欲しいなと個人的に望む。
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