超ヒラリズム10月~11

【超ヒラリズム・令和5年10月~11月】           陽羅義光
 
江藤淳【超ヒラリズム1】
 
 江藤淳の遺書に対する批判文を、私が朝日新聞に載せてから、もはや25年近く経っている。それでも相変わらず、江藤の著作を再読再再読しているのは、やっぱり江藤のいうことが、共感しないまでも、身に染みるからにちがいない。江藤が蓮見重彦との対談で、日本は社会主義的であって、資本主義国家ではないというと、なるほどそういう見解もあるのかと、考え込まざるを得なくなる。
 
庄野潤三【超ヒラリズム2】
 
 食わず嫌いはいけないと思いつつも、長年食わず嫌いで、短編三四篇しか読んでこなかったので、一念発起というか、遅まきながらというか、庄野の代表作といわれるものを、いくつも読んでみた。すると案の定、これはなかなか面白い作品群なのだと得心したものだ。それでも好きか嫌いかとなると嫌いなほうで、その理由の一つは、家族小説の殻を、一度も毀そうとしていないからだ。
 
フローベール【超ヒラリズム3】
 
 最近『ボヴァリー夫人』のついでにというか、とまとめてというか、『三つの物語』を再読した。その最初の『素朴なひと』は、まさしくチェーホフの『かわいい女』に多大な影響を与えた小説だと、初めて認識した。やはり文学作品というものは、ひとつでも多く読まなければ(再読しなければ)ならないものだということも、再認識したものである。フローベールはやはり凄い作家だ。
 
オードリー・ヘップバーン【超ヒラリズム4】
 
 オードリーの代表作は『ローマの休日』で、一番好きな映画は『昼下がりの情事』である。どちらも少なくとも七回は観ているはずだ。前者を観ると必ず微笑み、後者を観ると必ず泣く。最近オードリーの映画でひとつだけ観ていなかった『尼僧物語』を観た。これは思っていたのと違って、キリスト教修道院批判の問題作であり、オードリーが最も演技力を発揮したものだと解ったネ。
 
曽野綾子【超ヒラリズム5】
 
 ごぞんじ(樋口一葉以来の)才色兼備の女性作家である。出世作といえば、芥川賞は選にもれたが話題になった『遠来の客たち』だが、当時芥川賞の選考委員たちは、この小説に対して「不思議な明るさ」と評している。それは1947年を背景に描いているからそう感じるのであって、現代再読してみると、けっこう暗い作品である。歌は世につれと同じく、小説も世につれではないか。
 
鈴木宗男【超ヒラリズム6】
 
 この政治家はトラブル・メーカーである。今回はあろうことかロシアに行き、「ロシアは勝つ」なぞと発言している。私は(若ければ)義勇兵として参加したいくらいウクライナを応援しているけれども、あちこちから顰蹙をかっている彼を責める気はない。というのは政治家たるもの、日本政府や所属する党や世論に忖度する必要なんかないからで、他とは全く違う考えの人があっていい。
 
鈴木宗男【超ヒラリズム7】
 
 この政治家を好きだというわけでも、(松山千春みたいに)応援しているわけでもない。また今のロシアは卑劣な国家であり、そんな国家を贔屓にしているなんぞ許せないと考える。だいたいこういう独りよがりは、政治家以前に性格的に問題があろうかとも感じる。けれども彼は骨のある政治家であり、今の自民党のへなちょこ政治家と較べれば、かなりマシではないかともおもうナ。
 
ドクちゃん【超ヒラリズム8】
 
 ベトナム戦争におけるアメリカ軍の「枯葉剤」使用による犠牲者である、べトちゃんドクちゃんの分離手術の成功は、一時大ニュースになったものだ。べトちゃんは残念ながら二十代で亡くなったけれど、ドクちゃんは元気で家族を持ち慈善事業をやっている。アメリカは相変わらず正義面をしていて、日本人の多くはこの国を好きだが、私は一度だってアメリカを信用したことはない。
 
立原道造【超ヒラリズム9】
 
 道造の詩は何度でも読み返している。記念館にも行ったことがある。文句なしに道造の詩が好きだ。いやいいなおそう。文句はあっても道造の詩が好きだ。文句というのは、ほとんどソネット形式で書いている道造の詩が、どうみても未完成だからにほかならない。未完成の魅力はあるものの、自詩を完璧にさせる努力を,詩人は負っていると私は考えるからで、道造の早逝は残念ナリ。
 
立原道造【超ヒラリズム10】
 
 室生犀星は『わが愛する詩人の伝記』のなかで、居眠りばかりしている道造を、むろん愛惜をこめて繰り返し書いているが、道造は居眠りをしていたのではないと、結核経験者の私は考える。結核患者というものは体力がないから、居眠りばかりすると思われがちだが、実は活動をしないからそんなに眠くはないのだ。道造は眼を閉じて自然の音を聴き、頭の中で詩を創っていたのだヨ。
 
立原道造【超ヒラリズム11】
 
道造の詩が、明るく爽やかで郷愁をさそう、なぞと思ったらマチガイだ。私は道造のかなしく、さびしく、くらい詩を、たくさん知っている。「おまへが 友を呼ぼうと 拒もうと おまへは 永久孤独に 餓ゑてゐるであらう」。人は時々カンチガイをする。詩人が高く軽やかに美しく舞っていると。あれは詩人ではなく死人である。詩人は須らく、かなしく、さびしく、くらいのであるヨ。
 
利休【超ヒラリズム12】
 
 母が裏千家の師範だったせいもあって、利休には昔から興味があった。関白秀吉から死を命ぜられたのだが、二人にあった確執というものが、私にとって長く謎であった。野上弥生子の『秀吉と利休』など関係する本はみんな読んだし、『本覚坊異聞』など映画は必ず観た。それでも解らない。最近井上靖の短編『利休の死』を読み、大俗物秀吉への当初からの利休の烈しい嫌悪に納得した。
 
利休【超ヒラリズム13】
 
 烈しい嫌悪があるにも拘らず、秀吉という大俗物つまり大権力者に近づいたのは、利休もあんがい俗物だったのではないか、とおもってきたが、井上靖の小説を読んで、そのあたりも納得した。利休には怖いもの見たさというか、危険だからこそ近づいてみたい心理、それ以上にこの大俗物に対峙し、機会あれば懲らしめてやろうという魂胆があった。もしそうならその死は必然であった。
 
利休【超ヒラリズム14】
 
 現代でも時の権力に近づく、芸術家や文化人や学者やその他俗物はすくなくはない。それは目的というより己の道を世間に広く知らしめるための、大きな手段である。そういう意味では所謂布教活動に似ていなくもない。利休もそのひとりであったから当然のごとく俗物性を漂わせている。裏千家の師範であった私の母が、俗物だったことにかつて首を傾げたものだが、いまは納得である。
 
井上靖【超ヒラリズム15】
 
 ついでといっちゃあ失礼だがとりあげる。あんまり多作なせいか代表作が思い浮かばない。『あすなろ物語』か『敦煌』か『氷壁』か。どれをとっても代表作という冠をかぶせるには弱い。いくら多作でも司馬遼太郎や松本清張には、思い浮べられる代表作がある。それがどうしてかわからないが、自分が時々どうしても井上靖を再読したくなる気分もよくわからない。それが作家の魅力か。
 
井上靖【超ヒラリズム16】 
 
 明治の時代にも森鴎外と坪内逍遥による歴史文学論争があったが、われわれにとって近しいのは、大岡昇平と井上靖における歴史文学論争である。要するに「歴史其の儘」か「歴史離れ」かということで、私なんかはどちらでもいいと考えるが、アタマの硬い世代の作家たちは、こんなことで論争したものだ。これは大岡が小説が下手で、井上が小説が上手いということと無関係ではない。
 
藤井八冠【超ヒラリズム17】
 
 将棋の藤井クンがとうとう八冠を達成した。クンなどと呼んではいけないのかもしれない。愚妻は99%負けだと報道されたと嘆いていたが、私は必ず勝つよと安心していた。常識では考えられないところに彼の凄味があると思っているのだ。サテこうなると黙っていないのが政府で、相変わらず人気者を顕彰して政治利用する。彼にはくれるものはもらって、且つ超然としていてほしい。
 
五木寛之【超ヒラリズム18】
 
 五木サンのエッセイは若い頃の『風に吹かれて』だけかと思っていたら、中年以降『大河の一滴』から『天命』まで、まるで「男寂聴」という感じの活躍ぶりである。だが五木サンの仏教理解も『百寺巡礼』が証明する通り、生半可ではない。だから私ごときも信頼して読みつづけているが、ヤッパリ作家たるもの、こうなっちゃいけないという思いもある。文学は悟りの正反対にある。
 
羽田圭介【超ヒラリズム19】
 
 テレビで見る羽田クンは、平凡なオッチョコチョイに見える。そのせいもあって芥川賞受賞作くらいしか読んでこなかったが、こんど『メタモルフォシス』を読んで、そのイメージはひっくりかえった。作家としては非凡である。私は基本的にカタカナ・タイトルは好まないが、その気になったのは、これがSМを極めた作品と知ったからで、マゾの世界もここまで描けばミシマを超えるナ。
 
谷村新司【超ヒラリズム20】
 
 人間まったく、いつ死ぬかわからないものだ。谷村氏など、百歳まで生きる感じを漂わせていたのに。アリスというバンドの存在感、『昴』や(山口百恵が歌った)『いい日旅立ち』などの名曲は百年後も残るだろうから、本人に悔いはあまりなかろう。しかしこうした有名人が亡くなると、残念という思いと羨ましい思いが交錯する。私を含めた無名の人々の死は、だれの記憶にも残らない。
 
ネタニヤフ【超ヒラリズム21】
 
 ロシアのプーチンもそうだが、独裁的な権力者というものは、なぜ「謙虚」ということを学ばなかったのだろう。むろんそれを学んだら権力者になんぞならないから、これは堂々巡りの疑問。イスラエル人はドイツ人と友好的な関係らしい。それは日本人がアメリカ人と友好的な関係にあるのと似ている。ユダヤ人と日本人の血の中に、被害者意識と奴隷根性が蔓延っているのは否めない。
 
江藤淳【超ヒラリズム22】
 
 江藤が小林秀雄との対談で、「三島事件」に関して、小林が吉田松陰を持ち出すことに違和感をおぼえ、三島由紀夫と松陰は関係ない、「三島事件」は三島の、精神的病気つまり性格的気質が原因だったのだと断言している。私も三島は病気だったのだと考える者だが、江藤ほどに辛辣にはいわない。考えてみればこの辛辣さが江藤の特徴で、江藤は脳をやられた自分にも辛辣だったのだなァ。
 
市川猿之助【超ヒラリズム23】
 
 家族を殺して自分も死ぬつもりだったのに、死にきれず生き残る人が世間には多い。猿之助もその一人になった。自分のせいで家族が死んだのだから、自分も必ず死ななければいけない。べつだん自殺を推奨するわけではないが、生き恥をさらすというのは、武士の世界にかぎったことではない。私は猿之助が好きだったから、芝居を続けられればいいが、死ぬときは死ななければならぬ。
 
明智光秀【超ヒラリズム24】
 
 ホントに長年、光秀のことを調べてきた。少なくとも光秀のことを書いている本は、すべて読んできたといってもいい。すべての本が、ああじゃないかこうじゃないかと、推測ばかり。私も推測であれこれ考えてきたが、ことここに至ってようやく解ったことがある。つまり光秀も、信長、秀吉、家康らと同じく、虎視眈々と天下を狙う、戦国武将の一人であったということである。
 
坂本竜馬【超ヒラリズム25】
 
 現代において竜馬を英雄にしたのは、英雄好きの司馬遼太郎の功罪である。ヒーロー待望の一般大衆とちがって、歴史を勉強している者なら誰でも、竜馬が英雄なんかでないことは解っている。司馬もまったく度外視しているが、妻りょうが語る竜馬は、人間臭く、少々下品で、卑怯なところもある。そんなところが実態であろう。吉田松陰だって高杉晋作だって、英雄なんかじゃないヨ。
 
司馬遼太郎【超ヒラリズム26】
 
 司馬は幕末の志士を多く書いていて、坂本龍馬も、吉田松陰も、高杉晋作も、ずいぶんと立派な人物、もしくはヒーローとしているが、本質的に彼らは政治家である。政治家に立派な人物なんかいるわけがなく、それこそ夫を語ったりょうではないが、「人間臭く、少々下品で、卑怯なところもある」のが政治家なんであって、いくら幕末の志士でも免れない。司馬のヒロイズムは庶民の敵だ。
 
ネタニヤフ【超ヒラリズム27】
 
 ロシアのプーチンもそうだが、どうしてどいつもこいつも、敵のことをを「ナチ」と呼ぶのだろう。イスラエルもハマスのことを「新しいナチ」と呼んでいる。どう譲歩して考えても、今のロシア、今のイスラエルこそ、「新しいナチ」ではないか。ロシア人もイスラエル人も、ナチス・ドイツに酷い目にあわされた禍根があるなら、自分たちが加害者になることは決してやってはナラン。
 
藤枝静男【超ヒラリズム28】
 
 藤枝の『愛国者たち』を再読したが、来日したロシアのニコラス皇太子を殺害しようとした津田三蔵と、ロシアの怒りを鎮めるために自決した畠山勇子などを客観的に描いているが、思い入れは相当のものだと解る。作家たるもの、こういう思い込みの烈しい人たちのことを、思い入れたっぷりに書いてはいけない。おそらく藤枝という人は思い込みの烈しい人なんだろうが、イカン。
 
藤枝静男【超ヒラリズム29】
 
 サイデンステッカーが、谷崎・川端・三島を推奨するあまりか、もしくは日本語がホントは苦手だったからか、志賀直哉の作品を、あれは小説ではなく随筆だといって、これに藤枝は反発している。志賀を敬愛するための、藤枝の思い入れなのだが、私なんかはジャンルなんてどうでもいいじゃないかと思う。尤も志賀の小説が随筆なら、日本の小説の七割が随筆になってしまうけど。
 
志賀直哉【超ヒラリズム30】
 
 志賀の作品を随筆だといったサイデンステッカーは、志賀の作品をろくに読んでいなかったんじゃないかと疑う。きっと傑作『暗夜行路』はもちろん、問題作『剃刀』や『范の犯罪』なども読んでいないにちがいない。その作家について云々するなら、その作家の全集を読破してからでないと、いうべきではない。尤も、小説であろうが随筆であろうが、いいものはいいのであるヨ。
 
ビクトル・ユゴー【超ヒラリズム31】
 
 森鴎外のいうとおり、小説はなにをどんなふうに書いてもいいものだから、私小説も時代小説も推理小説も実験小説も有りであるが、その意味ではユゴーの『レ・ミゼラブル』が有り有りの代表的な傑作である。いわば作者の逸脱と余談で大長編の半分を占めているのだから、一部の文芸評論家の美学には合うまい。それなら彼らも、これを小説としてではなく著作とすれば、いかがか。
 
ユゴー【超ヒラリズム32】
 
 一部の文芸批評家や大部の一般読者は誤解しているのだが、じつは古典文学の代表作の多くは、いわば「歴史小説」なのである。すくなくとも現代小説というものではない。ユゴーの『レ・ミゼラブル』はもちろん、スタンダールの『赤と黒』、トルストイの『戦争と平和』などなど。いまの作家が歴史小説を書かないのは、勉強不足にもよるが、現代の病弊に関心が向いているからなのだ。
 
鈴木常雄容疑者【超ヒラリズム33】
 
 86歳にもなってピストル持って大暴れしたが、みっともないことこの上もない。このやり口は、無茶を承知で押し通す、元暴力団という彼の肩書き抜きには考えられない。けれども彼のみっともなさは、肩書き以上に、彼の貧困とつながっている。経済的貧困および精神的貧困である。その両方に追いつめられて、余生を監獄で過ごすこととなるが、それを選択させたのも貧困である。
 
志賀直哉【超ヒラリズム34】
 
 有島武郎が志賀への手紙で、『和解』を泣きながら読み終えたと記している。こんなふうにいわれた志賀は、満足と感謝でいっぱいだっただろうが、さすがに志賀も有島の情死には辟易したと思われる。何もいわないのが、友への最低の恩義ということなのだろう。有島の作品は(とくに『或る女』)立派なものだが、再読したいとは思われないが、志賀の作品は折に触れて再読したくなる。
 
東野圭吾【超ヒラリズム35】
 
 相変わらず今年も人気ナンバーワン作家だという。ひと昔前の松本清張を想い出す。私なんかも読んで面白いと思うが、どうも面白いだけですんでしまう。清張の作品は(とくに初期のものは)面白いだけですまないところがあった。そこがちがうが、面白いだけですむところが、現代人にはいいのかもしれない。それにしてもつまらなくて面倒くさい、いわゆる純文学は消滅しかけている。
 
古井由吉&大江健三郎【超ヒラリズム36】
 
 面白くない、いわゆる純文学の代表は、古井さんと大江さんだろう。ふたりが相次いで亡くなり、もはや純文学も消滅しかけているが、現代の読者は、それでもなにかを求めているので、面白くて、なにかがある夏目漱石や芥川竜之介や太宰治に、いつもやっぱりもどっていく。結句、純文学だろうとなんだろうと、面倒くさいのは評論にまかせて、小説は面白くなければいけないのだ。
 
志賀直哉【超ヒラリズム37】
 
 志賀も面白いと思うんだが、あんがい人気がないのは、若者受けしないからだろう。漱石、芥川、太宰の次は、谷崎、川端、三島あたりが人気だ。最近『和解』を再読したが、独身時代に読んだときと印象がまったく違った。赤ん坊が亡くなる時のことを数十枚も書いているが、こういう描写は、若い時は二三枚でよかろうと思ったはずだ。『城の崎にて』も大怪我でもしなければ解ラン。
 
ハマスの戦闘員【超ヒラリズム38】
 
 イスラエルはハマスをテロリスト呼ばわりしているが、そのイスラエルがテロリストより酷いことをやっている。石川啄木にテロリストをうたった詩があるが、すくなくともハマスの戦闘員は、啄木のいうごとく、弱者の立場からやむにやまれずやったとして、イスラエルはそれを待っていたかのごとく(ここが肝腎)反撃する。強者は常に姑息だ。ハマスは壊滅するだろうが覚悟の上だ。
 
志賀直哉【超ヒラリズム39】
 
 識者らしき人たちは、志賀の文章を簡潔な名文だというけれど、それはマチガイもしくは思い込みだ。私の文章のほうがずっと簡潔な名文である。志賀の凄いところは、ここぞという箇所でしつこく延々と書き、且つ無駄と思われる繰り返しを辞さないところで、実に個性的な、ある意味変人的な文章であり、主人公である。それは作家その人が、個性的で変人的であるからなのデアル。
 
三島由紀夫【超ヒラリズム40】
 
 私の知るかぎり、三島の読者は依然として多いが、それは昨今の風潮からして当然のことなのだ。つまり三島の文学は(その自決も)、石原慎太郎のいうごとく「インチキをホンモノらしく見せる」バーチャルだからで、バーチャル好きの若者にはお似合いなのだ。私も嫌いじゃないから、三島作品は繰り返し読んでいるけれど、本音をいうなら、よっぽど閑じゃなければ読みたくはない。
 
岸田首相【超ヒラリズム41】
 
 岸田サンは(政治家のなかでは)好感の持てる人物だけれど、なにを考えているのかなにをしたいのか、掴めないひとだ。閣僚人事も演説も得意ではない。ひとことでいって、デキナイ・リーダーだ。しかしながら、過去の歴史をひもときつつ、よくよく考えてみると、我々庶民にとっては、人事も演説も得意でないデキナイ・リーダーのほうが、その逆のリーダーよりもよっぽどいいノダ。
 
トルーマン【超ヒラリズム42】
 
 アメリカの悪・大統領のなかでも最悪・大統領は、(すくなくとも日本人にとっては)トルーマンということでよろしかろう。アメリカの勝利が決まったなかでの原爆投下は、人体実験というか、原爆の能力実験というか、そういうことでなされた一般人攻撃である。イスラエルに対して闇雲に人道がどうのといっても、イスラエルにこのことを持ち出されては、藪蛇になるだけだよなア。
 
ネタニヤフ【超ヒラリズム43】
 
 イスラエルのガザへの空爆は、時代も規模もちがうが、アメリカの「東京大空襲」を想わせる。どうもイスラエルはハマスの(彼らいわく)テロを待っていたような気がする。それはかつてアメリカ(ルーズベルト)が、日本の「真珠湾攻撃」を待っていたのと似ている。そこで国論を統一させ、敵を討つのは、戦争開始の常套手段となっている。アメリカを真似たイスラエルに正義はない。
 
パンセ【超ヒラリズム44】
 
 有名過ぎるコトバに「人間は考える葦である」がある。しかし私ら凡人には「人間は考える足である」としか思われない。しかもその考えも「馬鹿な考え休みに似たり」である。私らは安易に馬鹿というけれど、いささか真面目に考えれば、これは馬と鹿に失礼ではないか。だれもいわないが(もちろん馬も鹿も抗議しないが)、失礼千万であることヨ。馬鹿という文字を人間にするべきダ。
 
プーチン【超ヒラリズム45】
 
 ロシアのやり方を望見しても、イスラエルのやり方を望見しても、馬鹿という文字を人間という文字に変えても、それだけでは納得できない。パンセは「人間とはなんという怪物、珍奇、妖怪、混沌、矛盾、驚異」云々といったが、まさしくそのとおりである。むろんプーチン、ネタニヤフにかぎらない、私のなかにも私の周りの人間のなかにも、ミニ・プーチン、ミニ・ネタニヤフがいる。
 
乃木大将【超ヒラリズム46】
 
 軍人で作家の題材になるのは、乃木希典がその筆頭であろう。私は軍人なんかは書くに価しないと考える者だから、崇拝であれ批判であれ、書くつもりはない。乃木が書かれるのは、殉死という死に方と、その妻も共に自決したということと、烈しい尊皇の思いであろう。だが、そのどれもに胡散臭さがつきまとうのも仕方あるまい。三島由紀夫の自決に胡散臭さがつきまとうごとく。
 
パンセ【超ヒラリズム47】
 
 かのパンセでさえ、キリスト教でない宗教を批判したくらいだから、あとは推して知るべし。古今東西の戦争・紛争・侵略・破壊の多くは、「宗教戦争」の色がついている。イスラエルとパレスチナの長きにわたる紛争も、その代表的なもので、これは人間が宗教というものを問いなおさなければ、どうにもナラン。寛容とか慈愛とかいうものは、身内に向けるものではないと認識すべきだ。
 
青葉真司被告【超ヒラリズム48】
 
 京アニを放火して多数の死者を出したにもかかわらず、弁護士は責任能力がないと言い張る。あるいは心神喪失とか幻想・空想とかのコトバを使う。私にいわせれば、殺人者のほとんどは、尋常でないから殺人者になったわけで、そこをとらえて責任能力がないというのは、おかしい。弁護士の立場として、そう主張するのだろうが、その弁護士自身、一体無罪でOKと考えているのか。
 
三浦朱門【超ヒラリズム49】
 
 朱門が『老年の品格』で、妻の曽野綾子について、こんな怖い人と結婚した覚えはないといい、秘書に彼女の若い時の写真を探してほしいという。昔の彼女はセクシーだったか、窈窕たる美女だったか、それなら自分がだまされてもしかたないと。むろんジョークだが、そういうことは妻の側からもいえることであって、こんなボケオヤジと結婚した覚えはないといいたくなるってモンだ。
 
曽野綾子【超ヒラリズム50】
 
 私の愚妻は、たぶん曽野綾子以上に厄介だ。怖いのは、怖いもの見たさというものもあるけれど、老妻のやかましさに閉口するのは、私ばかりではあるまい。これを老妻側から解釈すると、夫が現役だったころはめったに家に寄り付かなかったくせに、退職すると途端に家でゴロゴロしてばかりいる。いままでのうっぷん晴らしもあるし、とにかくうざったいし、ゴキブリに似たりナノだ。
 
佳子さま【超ヒラリズム51】
 
 いま一番輝いている日本の独身女性は、浜辺美波、あいみょん、森千晴、北口榛花、ホラン千秋など、何人かが候補にあがるだろうが、私は迷わず佳子さまを挙げる。佳子さまのご活躍は目を見張るものがあるが、やはりお姉さんの分までという覚悟がある気がする。そのため頑張りすぎて、心配なのは健康状態であるが、もうすこし宮内庁が配慮してあげる必要がありはしないか。
 

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