死想
「死んでもダイジョウブ」
死想 陽羅義光
【序曲】
絶対死感
「楠木正成とは何ものぞ」
というおもいが何十年もあって、歴史小説や映画やテレビドラマなどで享受する、爽やかで勇ましい正成像は、わたくしのおもいをさらに混乱させてきた。
また、国家主義イデオロギーとしておおいに悪用された、正成の尊王精神(忠臣愛国)は、はたして本物だったのかという疑念と、その苛烈な最期の本心はどうだったのかという課題が、つねにわたくしの頭で燻りつづけてきた。
たしかに正成は、
「爽やかで勇ましい硬骨漢」
「忠臣愛国の人」
「苛烈な最期を遂げた武将」
であったことはまちがいなかろう。
けれども、
「それだけではない何か」
があるのではないか、とおもわれてしかたがない。
そこであらためて、おおくの文献を繙いてみたのであるが、それでもよく解らない。
楠木正成とは何ものぞ、の答をだれも教えてくれない。
けれどもここにきて、太田道灌、大石内蔵助、大塩平八郎、西郷隆盛などを学んできた成果がようやくでたのか、それとなくというかうすうすというか、
「それだけではない何か」
が垣間見えてきた。
わたくしも若いころは誤解していたのだが、正成はもともと天皇の護衛武士の大将ではない。
それどころか、武士ではないいわば〈武装民〉の頭領であった。
正成の一族とその仲間その配下は、非人、賤民、猿楽師、陰陽師、山伏、法師、武装商人などで、実態不詳の武装コミュニティであった。
歴史に登場するのは1322年からで、そのとき正成は鎌倉北条氏の手先(軍事力のひとつ)である。
その正成が怖れられたのは、戦闘の強さのみならず、その賎しき身分ゆえであり、恐怖の裏に差別があった。
国家主義イデオロギーとしておおいに悪用された、なんてことを本人が知ったら、おおいに苦笑するにちがいない。
「反体制的な戦闘–シ人の悪党」
というのが、正成の正体なのであろう。
じっさい歴史を望見すると、これほどの戦闘の天才は、前に源義経、後に真田幸村しかいない。
「悪党」
とよばれたのは、
「寺の支配」
を認めなかったからであるとされているが、それだけではない気もする。
山賊や海賊もむろん悪党であるが、この時代の悪党の定義は、悪党研究家の小泉宜右の本を読んでもなかなかややこしいことが解る。
さて学生時代、
『太平記』
の作者は小島法師と聞かされていたが、最近の研究では恵鎮と玄恵だといわれている。
しかし作者がだれであろうと、足利氏が手をいれさせたという話もあり、史実としてどこまで信用できるかは解らない。
それでも、この本を基本にするほかはない。
正成が表舞台で活躍したのは、1331年に赤坂城に蜂起してから、1336年に湊川の戦いで死ぬまでのたったの五年間であった。
前者は鎌倉北条氏相手の倒幕の戦いであり、後者は後醍醐天皇に背いた足利氏との戦いである。
いずれも主力は新田義貞の軍であり、義貞と正成の折り合いのわるさが、最終“Iな敗北につながったと、わたくしは見ている。
何しろ義貞は、足利尊氏の軍が追撃してくるのが解っていながら、わざと自軍が通過したあと、橋を落とさなかった、という逸話があるくらい、正義や名誉にこだわった、
「武士のなかの武士」
であるのに、かたや正成は、赤坂城の時代に熱湯や糞便を撒いて北条軍をきりきりまいさせた、
「新興ゲリラ」
であった。
かなり信憑性の高い、こんな説がある。
足利氏の軍が九州まで落ちのびていくさいに、正成は足利軍に致命傷をあたえなかった。
これは義貞風の武士のなかの武士の姿勢からではなく、軍事的対決がいくところまでいくのを、避けたかったからではないか。
なぜならそののち、後醍醐天皇に対して、大衆に評判の悪い義貞を滅ぼして、声望高き尊氏と組んだほうがいいと上申しているからである。
尊氏が体勢を整えて九州から攻めのぼってきたときには、天皇側に勝ち目がないと、正成は読んでいた。
天皇は〈徳〉も〈人望〉もなく、(じっさいに正成は天皇に対して直接そういったらしい)政権は不安定に揺らいでいた。
そのせいで、落ちのびていく尊氏に、京都の武士たちのおおくがつき従っていった。
あの手この手で何とか追いはらったが、そののちも足利軍の勢力は、武家政治復興を希う各地の武士が集結し、天皇側の勢力とは雲泥のちがいであった。
そこで今回の戦闘を、あくまでも義貞と尊氏の私闘にしてしまって、天皇は(勝つはずの)足利氏につくのが、局面打開の唯一の方法だと考えたのである。
正成の献策は、天皇の側近に嘲笑で迎えられた。
「聖運は天意にかなっているのだから負けるわけがない」
という、わけが解らない理屈であった。
それはともかく、
「天皇親政」
を目指した天皇が、再び武士政治に戻すことに(もしくは武士政治に戻りそうな状況にすることに)難色を示さないわけがない。
そして、正成のいままでの功績を、まったく感じたことのない天皇側近は、正成に対して、いわば、
「合戦の捨て駒になれ」
と命じた。
かくして正成は湊川で、自軍の数百倍ともいわれる足利直義(尊氏の弟)軍と戦うことになるのである。
奮戦むなしく弟正季と刺しちがえて自害した正成は、弟の、
「七生まで只同じ人間に生まれ‚ト、朝敵を滅ぼさばや」
の言葉に、
「われもかやうにおもふなり」
と応じたが、はたして本心はどうであったのか。
まずまちがいなく、北条氏の番犬として死ぬのではなく、天皇の忠臣として死ぬことは本望であったろう。
だから、われもかやうにおもふなり、の裏に別の意味があったわけではなく、
「これでいいのだ」
というのが本心であったはずである。
賤しき軍が天皇の軍になったという、幸運すら噛みしめていたであろう。
だからこじつけ的に、正成の心情を云々するなら、これでいいのだ、ということになる。
義貞軍は正成軍を置きざりにして潰走し、
「楠木正成死す」
の報を受けた天皇は山門に逃げこむ。
足利幕府はこうして生まれた。
尊氏は、正成が葬られたお堂に寄付したりして、孝養をほどこしたらしいが、天皇にはそういう発想はなかった。
正成の無念は、忠臣愛国を唱えようが、朝敵を滅ぼすことを生き甲斐にしようが、そのおもいが、ちっとも天皇に届いていなかったことであり、それは天皇に〈徳〉がなかったというよりも、天皇というものはだれでもそういうものであり、そこが正成の思惑はずれではなかったか。
天皇を‘Oにして、賎しき軍に思惑なんぞ通用するはずもない、ということがようやく解った。
その無念さを押し隠して、これでいいのだとして、死んだのである。
そののち『太平記』では、正成が怨霊として現われたり、〈桜井の別れ〉で父正成と別れた正行が、父の遺志を継いで南朝の守護神として活躍し、若くして倒れる。
だが北朝にも天皇はいるのであり、忠臣愛国とか朝敵を滅ぼすことを生き甲斐にしたとかではなく、反体制的な戦闘名人の悪党としての生きざまを、父同様に全うしたということにつきるであろう。
*
真田幸村に関しては、映画でもテレビのドラマや歴史番組でもずいぶん見ているし、関係本を何冊も読んだ。
ただ、かの、
「立川文庫」
や、
「真田十勇士」
など後世に創られた話もおおく、まさに虚実皮膜の存在である。
NHKの大河ドラマ、
『真田丸』
は、幸村の父昌幸を巧く描いたが、幸村を描くについては、苦心の様子がありありであった。
幸村が大河ドラマになりにくいのは、四十九年の生涯の最後の最後のみに花開いた存在だからで、それまでは父昌幸の陰に隠れていたといってもいい。
内実的にはそうでもないとおもわれるのだが、すくなくとも外面的にはそうである。
この文章に但し書きが多いのも、わたくしの文章上の癖ではなく、幸村という存在が一筋縄ではいかないからである。
ちなみに、講談本やそれを元とした小説に登場する、猿飛佐助、霧隠才蔵などの名前は虚であっても、真田一族はおおくの忍びを使っていたとされ、佐助や才蔵らしき者がいても何ら不自然ではない。
虚であろうと実であろうと、真田一族及び真田軍の人気は現代にはじまったことではなく、すでに元禄時代には軍記物語、
『真田三代記』
が書かれているというのだから、上田や信州の地域を越えた、一般にいうところの判官贔屓を越えた、敵味方を問わない真田贔屓というものが延々とつづいてきている感がある。
三代といっても、幸村の存在なくして、兄信之も父昌幸も祖父幸隆なども、物語化はされなかったであろう。
あれこれ調べて解ったこと、つまりこれだけは史実であるということがあって、第一は、真田家では兄の信之が徳川方につき、弟の信繁(幸村のこと)が豊臣方についたことである。
これに関しては、かなり必然的な推移があって、子孫を残すためだけに、兄弟徳川と豊臣の二手に別れたわけではない(犬伏の別れ)。
あえて簡潔にいうなら、兄信之とちがって弟信繁は徳川嫌いの父昌幸と行動を共にしていたということがある。
しかも昌幸・信繁ふたりそろって、
「関ヶ原の戦」
の敗北以後、長年九度山に蟄居させられていた。
信繁としては昌幸死後、いまさら信之に加担するわけにもいくまい。
しかも信之の義父は、徳川家臣随一の剛将本多忠勝であるのに対し、信繁の義父は、石田三成の盟友大谷吉継である。
権謀術数の戦国時代にあっては、実父の恩よりも義父との縁を重視するばあいだっておおく見うけられる。
「大坂の陣」
での、幸村の大活躍とその死は有名であるが、この間の機微に関しては、どうしても楠木正成と比較したいほど、不思議なくらい相似点がおおい。
前の文章と重複するかもしれないが、その主なものは次のとおりである。
正成は、後醍醐天皇に〈三顧の礼〉をもって迎えられた。
(じっさいは過去の戦歴を評価され、利用価値が高いと判断されただけであろう)
幸村も、豊臣秀頼に〈三顧の礼〉をもって迎えられた。
(じっさいは豊臣家は資金だけは沢山あったので、金で牢人たちを集めたその一環といえよう)
正成は、献策したが、天皇の側近に反対された。
幸村も、献策したが、秀頼の側近に反対された。
幸村は秀頼に、大坂城をでて、ふりでいいから軍の統率をとるよう進言したらしい。
敗戦濃厚となってからは、大坂城を逃れるよう進言したらしい。
シャムの山田長政を頼るよう進言したと書かれた小説もあるが、これは虚であっても幸村らしい。
けれども奇妙なのは、徳川家康に外も内も堀を埋められ、それでも淀君とその取巻きが終始大坂城にこだわったことで、素人が戦さに関与すると滅亡必至の見本でもある。
正成は(賎しい身分の出身であったから)天皇の側近に信用されていなかった。
幸村は、(兄信之が徳川の重鎮であったから)秀頼というよりも淀君の側近に信用されていなかった。
正成は、敗北を覚悟で孤軍奮闘、多勢に無勢で戦ったが、力尽きた。
幸村も、敗北を覚悟で孤軍奮闘、多勢に無勢で戦ったが、力尽きた。
(多くの手傷を負い、疲労困憊して田んぼの畦に坐りこんでいたところを討ち取られたといわれるから、自ら先頭に立って戦ったのである)
カッコ内はさておいて、これらのことの大半は、文献などからも一読真実として確信できそうな部分ではある。
けれども幸村が正成とおおきく異なっている点があって、それがまた幸村という人間の複雑さを感じさせるのだが、それは、
「父と兄のプレッシャーがあった」
ことである。
幸村はそういうことを云々してはいないが、その出処進退を考えると自然に解る。
現代とちがう時代だから、それは半端ではなかったとおもわれる。
いや現代人のわたくしごときですらも、父と兄のプレッシャーが半端ではなかった。
それでは幸村は、どうしてわざわざ「大坂の陣」という死地に赴いたのか。
それには、あれこれと過去のいきさつもあるが、第一は九度山での蟄居生活の、十四年という長さが考えられる。
そのうちの十一年間、昌幸からは幸村に徳川を倒す策略を与えられつづけたが、昌幸か高齢のため九度山で亡くなってしまった。
「人間五十年」
の時代に、幸村もすでに四十代後半となり、(窮乏生活のためと無類の酒好きが仇となったのだろう)歯が抜け落ち、白髪だらけになった。
我身の惨めさをおもうにつけ、「大坂の陣」は、
「千載一遇の機会」
と考えたにちがいない。
というより、かならず徳川との一戦が再びくることを予想していた。
なぜなら豊臣という名称が存在することの恐ろしさを、家康が日々感じていないわけはなく、徳川に冷飯を喰らい、豊臣を担ごうとする牢人軍団が、関西にはひしめいてもいたからである。
もし徳川との一戦がこないとしたなら、
「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」
といわれるどころか、
「酒好き女好きの腰抜け侍」
で一生を終えるかもしれない日常に、がまんならなかったにちがいない。
むろん幸村の思惑は、武勲をあげて大名になることではなく、武将として名を残すことであった。
無名の武将として、もしくは有名な武将の次男として、そして徳川の重臣の弟として、田舎で朽ち果てるのは、あまりにも無念至極である。
口でいったかどうかは解らぬが、「大坂の陣」の幸村は、己の立場・己の状況・己の運命を、正成になぞらえたとわたくしは考えている。
そうして、敗死を甘んじて受け止めたと考えている。 わたくしいうところの、『絶対文感』ならぬ、
『絶対死感』
というものがあって、正成の『絶対死感』を、幸村も倣ったという気がする。
ただし、歴史的資料だけを参考にすれば、幸村の方が正成よりも、『絶対死感』がより顕著ではある。
正成と幸村を想うとき、わたくしはほぼ同時に、大むかしの中国の楊震の、
【天知る、地知る、我知る、汝知る】
という言葉を想う。
性格上というか資質上というか(まあ残念ながらそういうことだけだが)、わたくしは正成や幸村におおいに似たところがあるので、解りすぎるくらいよく解る。
たとえば(正成にしても幸村にしても)〈献策〉だって、はじめから受けいれられないことを前提にやったとしかおもわれない。
兵士というものは厄介なもので、戦場で死ななければ兵士の世界を全うできないところがある。
勝者となって、大名になって、政治家になって、畳の上で死ぬなんてことには、けっして魅せられないのである。
正成や幸村は、
「悲劇の闘将」
とよばれることがおおいが、わたくしにはちっとも悲劇とはおもわれない。
*
どうして、いささか突拍子もない、歴史的なことがらに関する文章からはじめたかというと、楠木正成と真田幸村に関するこの小品エッセイを書くことが、わたくしにとって死の研究(研究がおおげさなら思索)の出発となったからである。
もちろん、子供のころからご多分にもれず、死の恐怖というものがそれなりにあったのはまちがいないが、そのことが死の思索のきっかけになったわけではない。
慌ただしい青春時代を経て、苛酷な中年時代を経て、われながら哀れをもよおす老年時代にはいりこんだころに書いた、いくつもの文章のなかで、いくつもの文章が死に関わるものであることを自覚した。
さらにそのなかで、この一文を序曲として選んだのは、あえてひとくちでいってしまえば、先ほどいったとおり似てはいても、時代的にも能力的にも、わたくしが正成や幸村ではないからである。
もちろん、わたくしのみならず現代人は、いくら羨ましがっても、正成や幸村にはなり得ない。
「生き恥」
があって、
「死に恥」
がある。
生き恥は、この世に生きながらえて受ける恥であり、死に恥は、死に際の恥や死後に残る恥である。
武将あるいは武士というものは、生き恥も死に恥も嫌った。
あるいは、生き恥を曝さないために、死を選んだり、死に恥を曝さないために、生を選んだりもした。
正成と幸村は、生き恥も死に恥も嫌って、武将(武士)らしい最期を迎えた。
嫌ったことを避ける機会を得た、ということが、悲劇であるはずがない。
現代では生き恥を曝すことも死に恥を曝すことも、へいちゃらであるが、どうしてへいちゃらかというと、どうせそんな機会が得られるはずもないのだから、はじめから恥知らずなのである。
わたくしから見て、いや現代人から見て、正成や幸村は、死を怖れなかった、怖れる必要もなかったとおもわれる。
そのひとつは、後世や生まれ変わりを信じられた時代であること、またひとつは、肉体が滅んでも末代まで名が残ることに、名誉も生き甲斐も感じられたこと、もうひとつは、死が日常茶飯事であったこと、である。
わたくしは日本の代表的な武将について云々しているが、西欧の騎士にも、正成や幸村がいたはずである。
もしも死んだら、あの世で憧れの正成や幸村に会えるというなら、死ぬのもわるくはない。
だが、正成や幸村の時代に(宗教的洗脳を受けなくとも)普通に信じられていたことが、現代では信じられなくなっている。
「あなたは織田信長の生まれ変わりです」
「あなたは来世では小野小町とライバルです」
なんて、お世辞や夢物語をいわれても、眉に唾をつけるしかない。
わたくしたちが、正成や幸村の生き方や死に方ができず、信長や小町とは無関係であることは、だれでも解っている。
そんな辛苦の現代にあって、死を考えることは、おおむかしの人たちが死を考える以上に、辛く苦しいことではあっても、なんとか試みていかねばならないことなのではないか。
そうして、そ‚フことは、古今東西の哲学者に倣って、理路整然と語ることの、できるはずのものではないともおもわれる。
だからこれから、わたくしがわたくしなりに考えることは、断片的こまぎれ的になるであろうし、それをエッセイとよばれても日記とよばれてもノートとよばれても雜文とよばれても、何も文句はないのである。
*
夏目漱石に禅を教えたという、釈宗演という立派なお坊さんがいる。
鈴木大拙も徳富蘇峰も誉めている。
立派な人に教えて立派な人に誉められているんだから、たしかに立派なお坊さんであるにちがいない。
出版社に依頼されて、この人物の本を現代語訳した。
沢山の故事や偉人の言葉を引用して、じつに説得力のある講話なのだが、死については具体的な言葉は聞かれない。
この人にかぎらずおおよそ坊さんの本は、紋切り型というのか、いささか癖がある。
死についてはなおさらで、
「生死一如」
といわれても、生は実感できるが、死は実感できないから謎だ。
それならば、
「死んでも地獄なんかいかないよ、喜怒哀楽の無い次元へいくだけさ」
という、科学者のほうが信用できるのか。
いや、
「喜怒哀楽の無い次元にいくくらいなら、地獄のほうがマシさ」
という、変わり者だっているかもしれない。
とにかく科学者でも哲学者でも宗教家でも、古今東西、
「死とはこれだ」
と、だれもが納得せざるをえない言葉で、断言できた人はいないのである。
わたくしの敬愛する池田晶子は、(おそらくエピクロスの思想であろう)
「死はわたしたちに無関係である。なぜなら、わたしたちの存在するかぎり、死は現に存在せず、死が現に存在するときは、もはやわたしたちは存在しないのだから」
「実感したことが無いものを怖がる必要がどこにある。なぜなら死んだら怖いなんて感情も無いんだから」
と、いろんな言い方を駆使して述べているが、たしかに生きているから正体不明の死が怖いのであって、死んでしまったら死んでからのことなのである。
かの豪放磊—獅ネ李白でさえ、晩年、
「悲しいかな悲しいかな」【死生一度皆有】
と歌っている。
今日の、あるいは明日の科学者や哲学者や宗教家は、「死の正体」
を明言すべきであって、それを、
「無」
「闇」
「霊」
「永劫回帰」
「天国地獄」
とかの観念的な言葉ではなく、あくまでも具体的な言葉で云々してもらいたい。
いや、云々することが使命であろう。
十代のわたくしは、二十代は詩、三十代は随筆、四十代は小説、五十代は評論、六十代は哲学と、目標を定めていた。
ひとつも達成されていないので、七十代でも相変わらず、詩を書いたり随筆を書いたり小説を書いたり評論を書いたりしているが、自分の腑甲斐なさに目をつぶって、これからは哲学をやるつもりでいる。
死の哲学を。
もちろん哲学者ではないし哲学の解説者でもないから、とうぜん自己流になるはずだが、逆にそういう素人っぽさを活かして、やさしく平易平明に書きたい。
だから、哲学なんて偉そうなものではなく、死について、あれこれ考えたこと、死についての断片。
つまり、死想。
まがりなりにも哲学書や宗教書や科学書や文学書は、図書館で所蔵しているものくらいならぜんぶ読んでいるけれども、わたくしのライフ・ワークのひとつである、
『絶対文感』
での引用は、文章の内容よりも文体に重きをおいているのでともかくとしても、できるだけ哲学者や宗教者や科学者文学書の文章を、引用するのはやめておきたい。
そのことがすなわち平易平明の逆方向にいくことであるし、引用した文章には前も後ろも裏もあるわけだから、哲学書や宗教書や科学書や文学書のばあい、単純な引用が正確さを伝えているとはかぎらないからでもある。
いくらかは引用するけれども、それは先人偉人の思想を照合させ比較させようとする、評論家たちの常套手段としての意図ではなく、話の流れのなかでだすにすぎないし、記憶のなかで記述するのみであるから、誤謬も考慮して著者や著書の名前もあえてださないこととしたい。
基本的に哲学では、解らなくともいい、答を出さなくいともいい、考えることこそが大事、という志向がある。
それはそれでけっこうだとしても、わたくしたち凡人は、やっぱり答がほしい。
たとえそれが、じぶんたちにとって辛く厳しい答であったとしても。
つまりこの文章には、わたくしの著述には珍しく、参考文献がひとつもないのである。
わたくしがすくなからず影響感化を受けた先人たちの思想、つまり、
老子、墨子などの、
「中国思想」
李白、杜甫などの、
「中国文学詩想」
アリストテレスを始祖とする、
「古代ギリシャ論理学」
ショーペンハウワー、ニーチェなどの、
「哲学のなかの哲学」
ハイデッガー、サルトルなどの、
「存在の哲学」
マルクス・アウレリウス、セネカ、ラ・ロシュフーコーの、
「思想的個性」
トルストイ、ドストエフスキー、チェーホフの、
「ロシア文学思想」
バッハ、ワーグナーなどの、
「哲学的音楽」
ゴヤ、ピカソなどの、
「思想的絵画」
フロイト、ユングなどの、
「深層心理学」
ボードレール、ランボーなどの、
「フランス文学詩想」
アインシュタインを代表とする、
「現代物理学」
我が国では、空海から始まる、
「密教思想」あるいは「曼荼羅」
道元、一休、良寛の、
「禅の思想」
西行、芭蕉、山頭火の、
「歌と句の世界観」
大石内蔵助、大塩中斎、西郷隆盛の、
「武士道」
夏目漱石、志賀直哉、小林秀雄の、
「文学的個性」
石川啄木、宮沢賢治、室生犀星の、
「日本文学詩想」
埴谷雄高、吉本隆明、渡辺京二の、
「日本戦後思想」。
宗教も、哲学も、心理学も、文学も、科学も、物理学も、医学も、そして宇宙学も、みな前も後ろも裏もある。
まさしく、
【裏を見せ表を見せて散る紅葉】
である。
それともこういおうか。
先人偉人たちは、勝手に思想や詩想を創りだすのではない。
それらの後ろのどこかに、さらに遠い悠久の過去から存在している思想や詩想を発見するだけなのである。
そうして、そういう貴重なものを勉強した成果が引用では情ないと感じるので、何よりも自分の言葉で語りたいからなのである。
あの先人にはこんな逸話がある、この偉人にはこういう言葉が残っている、その詩人にはこんな含蓄のある一句が見られる。
それらを紹介したり、統合したり、優劣を述べたり、そんなことにどんな意味があるというのか。
仮にわたくしが喋った内容に関して、
(ああこれは孟子の思想に似ている)
とか、
(ああこれはカントが語っていた言葉にそっくり)
とか、
(ああこれは西田幾太郎の著作に出てくる内容に近い)
とか、そう感じた方は、なかなかの物知りにはちがいないけれども、むろん偉人ではなくとも、わたくしの文章にだって前も後ろも裏もあることを解ってほしい。
尤も、わたくしはこれらあまりにも有名な哲学者、思想家、芸術家、文学者などよりも、本当はあんまり一般受けしない人物からの影響のほうが強いのである。
例えば外国なら、バタイユやアルトー、日本なら井月、七郎など。
【私を太陽に埋葬してくれ】
と詠った思想家のコトバは、いまだにおおきな謎と共に、わたくしの脳味噌に蟠っている。
ともかく、誤解されるといけないからではなく、この文章の骨子にそぐわないから、本分では人名はあえていれないことにした。
たまたまはいってしまったのは、たまたまか、もしくは言葉の綾か、あるいは筆が滑ったのである。
しかしたとえ、だしたにしても、比較するためだけにはださない。
出典を明らかにしたほうが親切かと、なにげなくおもったときにかぎられる。
せめて比較論文とは呼ばれたくないし、アカデミックな哲学とはさらに呼ばれたくない。
表題にした、
『死的哲学』
とはすなわち、
『私的哲学』
であり、エッセイとも日記ともノートとも雜文ともつかぬ、この拙文は、わたくしが死を考えつづけた成果(というにはおこがましいので)結果である。
この結果にわたくしは自信をもっているが、他人が信じるかどうかには自信がない。
正直にいうなら責任はもたない。
責任をもつということは信者をもつことであり、それは最もわたくしが忌避することだからである。
*
コロナの世界的蔓延は、人類に警鐘を鳴らした。
どういう警鐘かというと、人類の対応次第では、人類は永遠ではなくなるということ。
そして、死なんかはるか先のことだと、ろくに考えたこともない人間が、じつは死がすぐそこにあったのだと実感するに至ったこと。
それから、無能な政治家は国を滅ぼす可能性があるということ。
くわえて、じぶんの命は、結句、じぶんで守るほかはないということ。
こういうことは知りたくはなかったが、本当は知らねばならなかったことなのだ。
かつては黒死病(ペスト)が蔓延した。
けれどもペストは人類が消滅させたのではなく、自然に消滅した。
コロナは自然消滅とはいかないが、医学がなんとかするはずだ。
それにしても医者たちは、今回の天災を歎くが、医師というものが天職ならば、歎くどころか、いまこそ天職を全うすべきと奮い立たなければならない。
尤もコロナは人災の気配もあって、それで嫌気がさしているのか。
いずれにしろ、いまこそ死、死、死、死に想いを馳せねばならない時代である。
結論が出る出ないは度外視して。
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