硫黄山の幽霊

[おばけの時代・特別編]
 硫黄山の幽霊                 陽羅義光             
                     
 
          オバケがいなけりゃ此の世は闇じゃ(禿光山人)
 
【登場人物】
 
○大谷次郎(おおや・じろう)五十九歳
「日本幽霊探索会」会長・作家
 
○北八重子(きたはち・しげこ)二十八歳
「怪出版」編集者・大谷次郎の姪
 
○久代良造(くしろ・よいぞう)四十五歳
(釧路〜弟子屈の)個人タクシー運転手
 
○熊田一九(くまだ・いっきゅう)三十六歳
「日本幽霊探索会」北海道支部長・川湯温泉「ゆうゆうホテル」副支配人
 
         咩
 
 五月晴れです。
 JAL国内線は、羽田を立って、快調に飛んでいました。
「もう三十分以上経ちますわね。
 ボチボチ福島上空あたりかしら」
 窓際の席で、東京都練馬区、
〈怪出版〉
 編集者の北八重子(きたはち・しげこ)二十八歳が、隣にそっと声をかけました。
 瓜実顔の美人で、ちょいとガッキー、新垣結衣に似ています。
 茶髪全盛の時代に、ミドリの黒髪が自慢です。
 性格は、ひとくちでいって、生意気。
 まだ若いから、その生意気も愛嬌につながるばあいもありますが、あと十年経ったら、おそらく鼻もちならなくなります。
 みんな、キタハチさんとはよばずに、キタさんとよんでいます。
 自分でも、ほんとうは(きた・やえこ)という名だと、かんちがいしそうになります。
「いや、もうすぐ仙台北部で、それから大平洋に出る。
 我が故郷と、故郷を荒野にしてしまった福島原発は、残念ながらきみには見られない」
 大谷次郎(おおや・じろう)は五十九歳、異端の作家で、現在足立区の自宅に拠点をもつ、
〈日本幽霊探索会〉
 の会長です。
 三角形の顔、あごに逆円錐形のひげ、眼鏡は丸縁。
 自分では、モックン、本木雅弘に似ているといいますが、だれも賛成はしません。
 性格は、ひとくちでいって、いいかげん。
 ただ、いいかげんでもないと、幽霊やオバケの原稿など、おそらく書けないでしょう。
 周りは、大谷さんとはいわず、先生とかヤジさんとかいうけれども、先生は先生とよばれるのを嫌いますから、最近ではおもに、ヤジさんとよばれています。
「うちも、他人事じゃないけど、
〈3・11〉
 は大変でしたね」
 キタさんは、めずらしく硬直している、ヤジさんの横顔をみました。
「まったく、だれが原発なんかを、日本に導入したのか。
 ぼくの先祖の墓は、たまたま、
〈立入り禁止警戒区域〉
 に入っていたからね、しばらく墓参りができなかった。
 そのためだろう、しょっちゅう、ご先祖さまの幽霊におめにかかることになったよ」
「それがきっかけで、日本幽霊探索会を創ったんですわね」
「あれからもう、八年以上も経つのか」
 ヤジさん、物思いにふける表情です。
「はい。
 風化しなければいいんですけど」
「そういうこと。
〈風化〉
〈風聞〉
 ぼくは風が好きなんだが、こういう風はごめんだね」
「はい」
「気仙沼、石巻、大船渡、釜石、宮古、東北沿岸は、どこもかしこも大津波にやられた。
 きみにも迷惑をかけたが、ぼくの親戚もだいぶやられた」
「うちなんか、何もしまへん。
 何もできないのが歯痒いくらい」
「死者15836人、行方不明3650人だぜ。
 生き残った人びとも、みんな被害者だ」
 ヤジさん、唾をとばしました。
「よく覚えていますわね」
「そういうことを忘れないことが、ぼくの唯一の誠意さ」
「行方不明者の多くは、海坊主かゴジラに喰われちゃったのかしらん」
 キタさんは、いささか不謹慎(ふきんしん)なことをいいました。
 ヤジさんは、おおきく首をふって、
「いやいや、海坊主だってゴジラだって、まちがいなく泣いているよ。
 もともと妖怪も怪獣も、人間なんかよりも、情にもろいんだ」
 ヤジさんのほうが、泣きそうです。
「大震災に、政治は弱いですね」
「政治家なんか、みんな呑気な父さんだからな」
 ヤジさん、言葉を吐き出しました。
「本当の復興はくるのかしら」
「いずれにしても、地震、津波、放射能の、
〈複合被災〉
 というやつだ。
 でもさ、三重苦のヘレン・ケラーが、
〈奇跡の人〉 
 になったように、三重苦、四重苦の被災者たちにも、奇跡が起こると信じているよ」
「はい、うちも」
 
「ところで、きみ。
 東北といえば仙台、仙台といえば青葉区、青葉区といえば、さて何でしょう」
 鼻をうごめかせて、ヤジさんが聞きました。
「それは、とうぜん『青葉城恋唄』」
 キタさんが歌い出そうとするのを止めて、
「アホか、ぼくが聞いているんだから、心霊スポットのことにきまっているでしょ。
 東北の最恐スポット」
「なあんだ、常識的な質問どすわね。
 もちろん、青葉山トンネル」
 ヤジさん、指を鳴らして、
「ピンポン。
 青葉城の近くの八木山橋は、自殺の名所だ。
 よって、近くの青葉山トンネルに幽霊が出る」
「見たな〜」
「見てない、見てない。
 ぼくのダチがトンネル内で見た。
 それでやりすごしてホッとしていたら、後部座席に幽霊が坐っておったんじゃ」
「ゲッ、まさかその幽霊、消えたときに、座席が濡れていたなんて」
「そのとおりさ。
 信じられんだろうが、ダチは幽霊も、ビショ濡れの座席も、スマホで撮っている」
「見たな〜」
「見た見た。
 さすがのぼくも、腰を抜かしそうになったね」
「ぬかしたな」
「抜かしてない、ない、抜かしそうになっただけ」
「なんか、うち、家に帰りたくなってきた」
「帰ってもいいけど、幽霊が待っていたりして」
 ヤジさん、フンと鼻を鳴らした。
 
 ちなみに、キタさんは周りに、ヤジさんってどんな人ですかと聞かれると、きまって、
「弥次郎兵衛(やじろべえ)みたいな人」
 と答えます。
 どこか滑稽(こっけい)なところもありますが、バランス感覚がとてもいい人、という意味です。
 ちなみに、ヤジさんは周りに、キタさんってどんな人ですかと聞かれると、きまって、
「キレイなんだけど、キタナイ人」
 と答えます。
 美しい薔薇(ばら)に棘(とげ)あり、という意味と、おそらく綺麗(きれい)な心そのままに、汚い内容の台詞(せりふ)をいう人、という意味もあります。
 それでも、キタさんのアラサーの色香に、もし姪でなかったら、セクハラしそうなヤジさんではあります。
「でも、先生、いえ、伯父さん、いえヤジさん、うち、どうして福島が故郷じゃないのかしら」
「君のお母さんとぼくは、七つちがうからね。
 君のお祖父さんは転勤ばかりだったから、幸か不幸か、かのじょは京都生まれ、ぼくは福島生まれで、なんの不思議もない」
「でも不思議だらけなのは、うちはなんのために同行するのか、ぜんぜん教えてもらっていません。
 北海道に行くだけで、北海道のどこに行くのかも聞いていません。
 そんなうちは、アホどすか」
 キタさんは、かなりむくれています。
「それなのについてきたのは、ぼくがきみの伯父だからではあるまい。
 ぼくが、日本幽霊探索会会長で、きみが、幽霊本専門の出版社、怪出版の編集者だからだよね」
「当たらずとも遠からずですが、うちは正直、北海道グルメの旅のほうがねえ」
「まあ北海道どこへ行っても、美味しいものにはありつけるよ。
 しかし目的はグルメではない、ぼくは粗食が好きなんだから」
「このチケットをみると、行き先は、
〈新千歳空港〉
 ではないですよね。
〈だっちょう釧路空港〉
 なんて、知りまへん」
「それはきみが無知だからさ。
 だいたい、乙女が、だっちょうなんて、いっていいわけはない。
 ぼくはね、老婆心で、きみにとっておきの幽霊をみせてあげたくて、強引に誘ったわけだ」
「うちの会社は、ヨーロッパの幽霊本しか取り扱いません。
 いわせてもらうなら、日本の幽霊なんか、ニセモノですえ」
「そんなこといっとるから、井のなかの蛙(かわず)だというんだよ。
 幽霊という大海を知らずだ」
「日本の幽霊は、幽霊というよりも、亡霊ですわ」
「そのちがいはなんじゃ」
「会長ともあろうお人が。
 幽霊はスピリッツ、亡霊はゴースト。
 スピリッツは死者の霊魂。
 その霊魂が現世にあらわれれば幽霊。
 ゴーストも霊魂にはちがいないけれど、いわば怨霊。
 うらめしやーとあらわれて生者を脅したり驚かせたり。
 いかがかしらん」
 キタさんは、小鼻をうごめかせます。
「きみはまだ無知だ。
 だいたい幽霊って言葉は、世阿弥がつくったものなんだよ。
 スピリッツとかゴーストではなく、幽霊って言葉をつかう以上は、日本的であるのだ。
 幽霊は幽霊であって、スピリッツでもゴーストでもないのじゃ。
 えへん」
 嘘か真か、虚実皮膜(きょじつひまく)か。
 ヤジさんの自信満々の声があまりに大きいので、しかも幽霊と発するところに妙な力を入れますので、前後の席の人たちが、口をあけて首をのばしました。
(まるで、
〈ろくろ首〉
 だな)
 とヤジさんはおもいましたが、そんなことはいえません。
 厚化粧のろくろ首や、ヒゲの生えたろくろ首。
 それでも、
(ろくろ首のろくろは、回転する轆轤(ろくろ)からきているのだが、あまり適切な命名ではないな)
 なんてことを、おもったりしていました。
 ともかくも、いざこざが嫌いなヤジさんは、
「失敬、失敬、こりゃまた失礼いたしました」
 と、何度も謝りました。
 せっかく謝ったのに、こんどはキタさんが、大声をあげます。
「いま、いま、窓の外を幽霊が飛んでいったわ」
「おいおい、あれは単なる雲だよ。
 幽霊はトンネルには出ても、飛行機には出ないよ。
 きみはホントに怪出版の敏腕編集者かね」
 ヤジさんがたしなめますと、キタさんはとぼけて、話をかえます。
 おとぼけはヤジさんの得意分野ですが、キタさんはときどき、ヤジさんの得意分野をうばうのです。
「どうせオバケにあえるなら、
〈コロポックル〉
 みたいな、可愛いオバケがいいな」
「きみきみ、コロポックルはオバケじゃなくて、アイヌに追われた先住民との説が有力。
 それに、ぼくらが目指すのは、オバケじゃなくて幽霊だよ」
 キタさん、頬をふくらませます。
「アイヌは和人に追われたんでしょ。
 被害者を加害者扱いするのは、イケズ。
 それに、幽霊だってオバケでしょう」
「そういわれちゃそうだけど、弱肉強食の時代だったんだからしかたない。
 オバケの世界だって弱肉強食だから、幽霊もお化けに組み込まれるのはしかたないか」
 ヤジさん、なんとなく弱気です。
 というよりも、姪であっても、女性に弱いだけなのかもしれません。
 それでも、ちょっとだけ、仕返しをします。
「可愛いオバケにあいたいなんて、無茶(むちゃ)をいいなさんな。
 パンダみたいなオバケがいたら、それはオバケじゃなくて、オケケだよ。
『東海道中膝栗毛』
 ならぬ、北海道中膝栗毛。
 でも、きみのお仲間にはあえるかも」
「え」
「キタキツネ」
「ふん、つまらないわあ」
 ヤジさんの駄洒落(だじゃれ)に慣れっこのキタさんは、鼻で笑いました。
「あるいは河童。
 お河童頭は、むかし子供が河童にいたずらされないようにと、お河童頭にして、仲間と思わせるよう似せたものだよ。
 きみのオカッパを見たら、河童さんも大喜びさ」
「ふん、くだらないわあ」
 また鼻で笑いました。
(そのうち、笑いもでなくなるぞ)
 と、ヤジさんは、キタさんの無礼(ぶれい)に、耐えたのです。
 秋晴れです。
 雲ひとつありません。
 いや、ふたつかみっつ。
 その雲たちが、キタさんには、不吉な雲にみえたもので‚キ。
 
          咩       
 
〈たんちょう釧路空港〉
 につきました。
 北海道もやっぱり、五月晴れです。
「こんな立派なお天気じゃあ、幽霊だって出にくいのじゃないかしら」
 なにげなく、キタさんがつぶやきました。
 そうあってほしいとの、願望がふくまれています。  
「空は晴れても心は闇じゃ。
 いや、そうではなく、どうせ幽霊は暗くなってから出るから、お天気は関係ないさ」
「さいどすか」
「それに、
〈摩周湖(ましゅうこ)〉
 は、ななな、なんといっても、真っ昼間から、
『霧の摩周湖』
 だし、日本最大のカルデラ湖、
〈屈斜路湖(くっしゃろこ)〉
 の夕暮れどきは、だれでもごぞんじ、
〈クッシー〉
 が出るし、あえて冠つけるけど、阿寒国立公園、
〈硫黄山〉
 の黄昏れどきときたら、暗鬱(あんうつ)で、きっと、きみ、その柳腰(やなぎごし)をぬかすぞー」
 ヤジさんは、お化け屋敷の宣伝係か呼びこみふうな、口調になりました。
「硫黄山なんて、全国にあるじゃありませんか。
 腰をぬかすには慣れすぎていますわ」
「あのね、どこの硫黄山に較べても、ここの硫黄山はひと味もふた味もちがうんだよ」
「味くらべなら、やはりグルメかしら」
「茶化(ちゃか)すなよ、ここの川湯硫黄山には恐ろしいモノが出るんだ」
「川湯って、
〈川湯温泉〉
 ね。
 いい湯だな、いい湯だな」
 キタさんは、はしゃぎ出します。
「おいおい、温泉に入りにきたわけではないんだ」
「なら、入らないのでござんすか」
「いや、せっかくだから入る。
 温泉から、
〈硫黄山の幽霊〉
 をみる」
「呑気なんだか、陰気なんだか、わかりませんこと。
 それでひとつ疑問なんですけど、どうして、
〈摩周湖の幽霊〉
 とか、
〈屈斜路湖の幽霊〉
 ではなく、
〈硫黄山の幽霊〉
 なんでしょうか」
 キタさんの質問に、ヤジさんはいささかうろたえますが、そこは人生の先輩風を吹かせて、
「人間が死ぬと、燐(りん)が燃えて、火の玉になるっていうだろ。
 その燐の原子番号は15、硫黄は16、つまり兄弟みたいなもんだ。
 詳しくは現地の人に説明してもらうがね、まあそんなと‚アろかな」
「本当にそんなところなんですか」
「だから、詳しくは現地の人に。
 あちらには、日本幽霊探索会の北海道支部長がいる」
「会長だってアテにならないのに、支部長なんて、怪我したって手当てもできませんことよ」
 キタさん、毒舌をはきました。
「きみ、当て推量で、ものをいっちゃいかんよ」
「なら、会長さん、責任をとってくれるんでしょうか」
「きみ、そんな、かたくるしいことを」
 逃げ腰のヤジさんは、空港を出るとタクシーをつかまえました。
「北海道にきて、タクシー利用は、野暮なんじゃないかしらん」
 キタさんはぼやくけれども、
「なら、きみは歩いてついてきたまえ」
 ヤジさん、冷たくいいます。
「つまり、観光バスがよろしいんじゃないかと」
「観光にきているんじゃないんだよ」
「げっ、観光でなけりゃ、なんなのお」
「仕事仕事、ぼくは、
『硫黄山の幽霊』
 というタイトルの、見事な、いや立派な、もしかすると大袈裟(おおげさ)な原稿を書く。
 きみはぼくの原稿を、きみんところの、
『月刊幽霊』
 の巻頭に載せる準備をする。
 できれば写真を撮る」
「わざわざ撮らなくったって、屈斜路湖や硫黄山や川湯‰キ泉の写真なんて、いっぱいあるでしょうに」
「そういうものは観光写真であり、主役の背景にすぎん。
 きみが撮るのは、主役、つまり幽霊だよ」
 ヤジさんの大声に、タクシーの運転手が首をすくめました。
「幽霊の絵ならあるけど、写真なんて聞いたことありませーん」
「ほら、きみの出版社で、
『欧州心霊写真集』
 が出てるだろ」
「心霊と幽霊はちがいますわ。
 しかも日本の幽霊は、うらめしやーの怨霊でしょ。
 お化けと幽霊の違いは、たとえば『四谷怪談』のお岩さんみたいに、幽霊は目指す相手がいて、そこにだけ出はる。
 かたや、お化けは誰にでも出はる。
 ただどこにでも出るというものではなく、たとえば、『番町皿屋敷』(皿屋敷伝説)のお菊さんみたいに、決まった時間に井戸にだけ出るものが多い」
「とにかく、幽霊を撮ったら、大スクープだよ」
「うちはエスケープですね。そうでなけりゃ、会社にスクラップにされちゃう」
「なぜじゃ」
「そんなイカサマ写真、撮れないわあ」
「心霊写真こそイカサマじゃないか。
 硫黄山の幽霊たちはイカサマ野郎じゃない」
 断固(だんこ)としてヤジさんはいいました。
 その根拠がどこにあるのか、キタさんにはわかりませんでしたが。
(まあ、写真はあきらめるか)
 いささかヤジさんは、気おちしました。
「ヤジさんは、オバケや幽霊を信じていますの」
「きみは信じておらんのか」
「オバケも幽霊も、信じてはいません。
 でも、オバケも幽霊も、怖いわ」
 わざとかもしれませんが、キタさんは、ぶるんと震えました。
「なんじゃそ‚黶v
「怖いから、ああいう出版社で働けるんです。
 怖いものみたさって、あれよん」
「なにが、あれよんじゃ。
 アレヨンみたいな顔して」
「アレヨンってなーに」
「いまおもいついた新種のオバケさ。
 あれよあれよという間に、よんどころないことになる」
「うちは、アイヌのオバケかとおもいましたわ」
「たしかにアイヌの怨念は、北海道のそこかしこにある。
 それだけ和人は、アイヌにひどいことをした」
「ヤジさんはむかしから、アイヌ贔屓(びいき)ですわね」
「贔屓なんかしとらん、同情しとるんじゃ」
「同情ついでに、なにか有名なアイヌのオバケを教えてくださいな」
「アイヌをぬきにして、北海道のオバケを語ることはできんがな。
 それじゃひとつだけ。
 稚内(わっかない)方面の道路には、
〈怨念のニレ〉
 という看板が立てられている。
 子供を身籠っていたニレが、和人に惨殺された場所だ。
 この附近の楡の木を切ろうとすると、かならず交通事故が起こる。
 それで伐採できないでいるから、楡の木が道路にはみだして、通行しにくい」
「それは逆で、伐採しないから事故が起こるんじゃありませんの。
 しかもこの話は、アイヌのオバケではなくて、木のオバケよねえ」
 キタさんの抗議に、鼻白んだヤジさんは、
「それじゃあ、こんどはとっておきのやつを」
「もういいわ、うちも可哀そうになっちゃう」
「きみも常識人なんだねえ」
「ひどい、それってなんとかハラスメントじゃなーい」
「ないない、ぜったいない。
 きみにセクハラはたらくやつの、顔がみたい」
「セクハラじゃなくて、パワハラ」
「よけい、怖くて、だれもやらない」
 キタさんはむくれましたが、ひと呼吸して、
「硫黄山の幽霊にも、アイヌはいるのかしら」
「いるだろうが、それはみてみないとわからん」
「みてみたらいいじゃないの」
「きみ、オバケと幽霊のいちばんのちがい、知ってるだろ」
「だれにいってるんですか。
 オバケは相手を選ばず出てくる、幽霊はこの人とおもう相手にだけ出る。
 つまり、幽霊には、出る目的というものがあるの。
 怨念や復讐や執着や威嚇(いかく)。
 そういうものだけではなくて、肉親にたいする情愛、親友にたいする友愛、異性にたいする恋慕などなど」
「そのとおり」
 ヤジさん、パチンと指を鳴らしました。
「まさか、その相手って、うちのことなの」
 キタさんは、白い指でじぶんの鼻を指さします。
「きみしかおらんじゃないか、幽霊のいちばんの理解者。
 ぼくがきみを誘った理由が、ようやく解ってもらえたようだね。
 水木しげるさんの肝煎(きもいり)で、鳥取の境港が、いまやオバケ町の象徴になっているが、じつは北海道は、あっちもこっちもオバケ町なんだよ。
 つまり、道内すべてが、お化け屋敷」
「なんか、気がめいってきましたわ」
 こんどはキタさん、白い指で頭をおさえます。
(かのじょ、躁鬱(そううつ)気質かも)
 ヤジさん、心配になります。
「きみ、幽霊はどうして歳をとらないか知っているだろ」
「それは、スピリッツだからよ。
 スピリッツに歳なんかないわ」
「残念、それはね、歳とって、歩けなくなったら、きみに会えない‚ゥらさ」
 どうやら、藪蛇(やぶへび)だったようです。
「げっ、いいかげんにもほどがあります。
 歩く足がある幽霊なんて、日本の幽霊じゃありませーん」
 またキタさん、白い指で頭をおさえます。
「すまんすまん。
 おい、運転手さん、気がめいっている我らがお嬢さんのために、このタクシー、いまから観光バスになってくれ。
 バスガイドはぼくがつとめる」
 運転手がうなずき、タクシーは迂回(うかい)します。
 
          咩       
 
「あそこにチラリとみえるのは、
〈釧路本線〉
 あそこにチラリとみえるのは、
〈釧路川〉」
「チラリズムのバスガイドじゃ、おもしろくありまへん」
 キタさんは皮肉っぽいし、運転手はくすりと笑うし、ヤジさんは渋い顔になって、
「たまたまじゃ。
 まだ調子が出ないんだから、目玉の親父くらい大目にみてよ。
 あの宏大な湿地帯は、
〈釧路湿原(くしろしつげん)〉
 で、この釧路川の源流部は、
〈原始河川(げんしかせん)〉
 という」
「原始、河川」
「要するに、天然のままで、人為のくわわらない清く美しい河川のことさ。
 ダムとか堤防とか床固めなども、施されてはいない」
「どうして」
「いろんな理由があるだろうが、逆にどうして人為をくわえるのかね」
「必要だから」
「そう、人為をくわえる必要がないんだな、たぶん。
 たとえばさ、美容整形をやらなくてもいい、生まれながらの美人ってわけさ」
 ヤジさんは、妙な喩えを出しました。
 キタさんは、興味はありましたが、清く美しいのなら、オバケとは縁がなさそうなので、つっこむことはしませんでした。
「目指す硫黄山はアイヌ語で、
〈アトサヌプリ〉
 まあ、
〈裸の山〉
 という意味だ。
 活火山で、山腹各所からの、硫黄ガスのために、草木が生えないからね。
 岩や硫黄の塊が露出していて、硫黄のにおいが立ちこめる、みるからに不気味な山だよ」
 
 すると、いままで声を発しなかった運転手が、とつぜん話しはじめます。
 話というより、蘊蓄(うんちく)、でしょうか。
「先生方、自分は久代という、道内生まれの道内育ちですが、オバケ話がめっぽう好きでして。
 先生方のしゃべくり聞かされていて、もうだまっていられなくなりましたわー。
 いま網走の話が出ましたが、むかしむかしあの地域のアイヌの人びとは、毎日首をすくめて暮らしていたのです。
 なぜなら、オホーツク海には巨大な、
〈海坊主〉
 が棲んでいましてね。
 屈斜路湖の向こうに、標高1000メートルの、藻琴山があるんですが、あそこには巨大な、
〈一ツ目小僧〉
 が棲んでいましてね。
 人びとは、海の漁と山の猟で暮らしていたんですが、海ゆかば、海坊主、山ゆかば、一ツ目小僧。
 働き手が毎年十人二十人と喰われてしまって、とうとう女子供だけになってしまったんですわー」
「〈のっぺらぼう〉
 なら、喰われなくてよかったのにねえ」
 キタさんの、頓珍漢(とんちんかん)なつぶやきにも、運転手は真面目に応えます。
「本当におっしゃるとおりでございます」
「運転手さん、どうして北海道弁じゃないのですか」
「きみきみ、妙な質問はいかんよ」
 ヤジさんが、めずらしく気を使いました。
「北海道はごぞんじのように開拓の地ですから、むかしはその出身地の人たちが、地方色豊かなお国言葉を使ってはいたのですが、二世代三世代となるにつれて共通語に近くなりました。
 だから、方言なんてものは基本的にないんですわー。
 まあ、梅雨がないみたいなもんですかねえ」
「どうして梅雨がないのかしら」
「そ、そ、それは、アマタツさんに聞かないと」
「そんなら、マリモはどうして丸いんでしょう」
 キタさん、なぜか質問攻めです。
「そ、そ、それは、例の一ツ目小僧の子供たちが、目を落っことしたからじゃないですかねー」
 運転手は、ヤジさん顔負け、いいかげんになっています。
「じゃ、運転手さん、一ツ目小僧の子供はさておいて、そのアイヌの女子供は、いったいどうしたのですか」
「畑を耕しはじめたのです。
 けれども、男の子は大きくなるにつれて、どうしても父親の敵討ちをやりたくなったんですねー。
 なぜなら、ときどき父親の亡霊が出て、口惜しい口惜しいと嘆くものですから。
 敵討ちは苦労をしましたが、弓矢の名人がいたものですから、なんとかやり遂げることができました。
 でも、海坊主は死ぬと無数のボウフラになり、一ツ目小僧は死ぬと厖大な霧になりました。
 毎年夏になると、網走一帯は蚊の大量発生、霧は流れて摩周湖を覆っているのですわー」
 
 運転手は咳払いをひとつしてから、また話しはじめる。
「先生方は、オバケの専門家ですよねー。
〈雄別(ゆうべつ)〉
 は、今回のルートにはいっていないんですか。
 舌辛川を遡れば、そう遠くはないんですがね」
 ヤジさん、すぐに反応して、
「ああ、日本で五本の指にはいる、
〈心霊スポット〉」
「はい、そだねー、五本の指でも、中指くらいのもんですわー。
 雄別炭坑は、大正八年の創業で、昭和四十五年の閉山だから、ちょうど半世紀、国内トップクラスの石炭産出地でしたが、多くの朝鮮人や、天涯孤独の身元不明者を集めて、労働者として苛酷な作業をやらせていましたからねー。
 あの地で亡くなった人は、数えきれないでしょう。
 朝昼晩、幽霊でも妖怪でも、何でも出ますわー。
 北海道に来たなら、雄別炭坑跡、雄別炭坑病院跡。
 北海道最恐(さいきょう)の心霊スポット。
 怖いといったら、ここがいちばん怖いよー。
 じっさい、幽霊を見たという人が多発していますよー」
 ここでヤジさんも、咳払いをひとつしてから、
「ぼくが知らないとでもおもっているんですかね。
 あそこは国有地に指定されているから、行くには許可が必要だろ。
 ぼくは面倒なことが嫌いなのよ。
 それに、ケイタイはつながらないし、全長二メートルもある野生のヒグマが出没するし。
 足跡はもちろん、あそこの樹木には、ヒグマの鋭い爪痕がいっぱいだそうじゃないの」
「うち、ヒグマ、苦手」
 キタさんがさけぶ。
「ヒグマを得意なやつはおらんよ。
 とにかく今回は、硫黄山に絞ったんだからね。
 ここもあそこもじゃ、オバケだっていい気はせんじゃろ」
「ははーん、ちゃあんと理屈があるんですね」
 キタさんが感心する。
 蘊蓄が品切れになったらしい運転手は、
「理屈といえば、そろそろ弟子屈ですよ。
 ほら、前方左右が、
〈弟子屈原野〉」
「テシカガって語感、好き」
 キタさんは、めずらしく女っぽい声を出しました。
 そうしてようやく、北海道の地図を広げます。
「テシカは岩盤のこと、ガは上の意味ですわー」
 それから運転手は、
『弟子屈小唄』
 を歌い出します。
 
「♪霞む弟子屈ほのぼの明けて
 風がもってくる湯華の香り
 川湯恋しや情に濡れて
 つきぬ摩周湖 涙雨
 燃ゆる心をつつじに染めて
 深き思いは屈斜路の湖に
 だれに硫黄かわたしの胸を
 温泉乙女の瞳は悲し」
 
 あまり上手ではなかったものの、ヤジさんの歌に較べれば、泥と雲くらいの差がありますから、キタさんはうっとりした顔で、
「いいなあ、この歌、いいなあ、弟子屈、この漢字も好き。
 弟子が屈むんですよ。
 うちはヤジさんの弟子みたいなものですが、たとえ突き飛ばされたにしても、屈んだりはしませんけれど」
 ヤジさんはじつに渋い顔と声で、
「いやなこというねえ。
 ぼくは、きみみたいな、はねっかえりの弟子を持ったおぼえはない」
 運転手は笑い声をあげて、
「そうそう、お客さん。
〈北海道湖巡り〉
 も最高ですが、
〈北海道湿原巡り〉
 なんてのも、自分としてはお勧めですがね。
 コバイケソウ、
 タチギボウシ、
 ゼンテイカ、
 ナガバノモウセンゴケ、
 カラフトカサスゲ
 などなど、各所各季節に、いろんな珍しく美しい草花がみられます」
「うち、湿原アレルギーなんで」
 キタさん、嘘か真か、素っ気なくいったものでした。
「それって、ホントは失言アレルギーじゃあないのか」
 ヤジさん、また下手な洒落をぶちかましました。
 
          咩 
 
「ところで、きみは、お化け屋敷は好きかね」
 ヤジさんが、唐突(とうとつ)に(もちろんヤジさんにとっては唐突でもなんでもないのですが)キタさんに聞きました。
「嫌い。
 お化け屋敷なんか好きな人の、気がしれまへん」
 キタさんは断言しました。
 ヤジさんは苦笑を浮かべながら、
「だから、きみは、人生がわからんというのさ」
「人生が」
「そう、人生が」
「人生が」
「そうだよ、人生だ。
 人生は、つまるところ、喜怒哀楽だろ。
 お化け屋敷には、その喜怒哀楽が、ぎっしりつまっている」
「怒と哀は、なんとなくわかりますけど、喜と楽は」
 キタさん、首をひねります。
「きみ、お化け屋敷ほど、喜ばしく楽しいものはないんじゃ。
 お化け屋敷の出口を観察してごらん。
 恐怖にひきつった観客の、そのひきつりの、縦にも横にも奥にも、ああ楽しかった、ああ面白かった、そういうものが垣間見られるではないか」
「そうでしょうか」
「そうだよ。
 ならば、きみは、遊園地のジェットコースターは嫌いかね」
「まあ、好きなほうです」
「嫌いじゃないかね」
「嫌いじゃないです」
「怖くないかね」
「怖いです」
「怖くとも、好きなほうなのかね」
「だって、面白いじゃん」
「ほら、怖いけど面白かったと、みんなおもうんだ。
 お化け屋敷も、絶叫マシンの仲間だろうが、ジェットコースター以上さ。
 なぜなら、ジェットコースターにはない、人生があるんだからね。
 いろんな幽霊、やまづみの骸骨、たくさんの妖怪、ぎょうさんな鬼たち、さまざまな小僧と女たち、老婆たち。
 いやいや、具体性が肝腎(かんじん)だな。
 幽霊のレジェンド〈おいわさん〉
 そしてやはり〈おきくさん〉
 おまけで〈しげこさん〉
 骸骨の大御所〈がしゃどくろ〉
 それとぼくの苦手な〈へびどくろ〉
 それと〈おにどくろ〉
 妖怪の親分〈ぬらりひょん〉
 それと〈おおくび〉
 それと正体不明の〈もくりこくり〉
 鬼のキャプテン〈あかおに〉
 それと鬼兄弟の〈あおおに〉
 それと〈まだらおに〉
 小僧ならごぞんじ〈ひとつめこぞう〉
 あんがい魅力的な〈とうふこぞう〉
 おまけで〈いっきゅうこぞう〉
 女のオバケといえば〈ゆきおんな〉
 もっと怖い〈けらけらおんな〉
 さらに怖い〈まるのみおんな〉
 婆さんとなると人気の〈すなかけばばあ〉
 ついでに〈やまんば〉
 おまけで〈きたばば〉
 おお、オバケを味わい、人生を味わうんだ」
「人生を」
「そう、人生を」
「人生を」
「おお、人生。
 いずれ、きみにも、わかるときがくる。
 じつは、ぼくは、オバケ作家として金を稼いだら、お化け屋敷を作りたいんだよ。
 もちろん、目玉は、硫黄山の幽霊さ」
「ほお」
「きみは、どうしてお化け屋敷に人が並ぶか、知っているかい」
「さあ」
「それは、恐怖と信頼が共存しているからなんだ。
 つまり、お化け屋敷に入ると、神隠しにあったりして、出られなくなるなんて心配はないってことさ。
 だから、恐怖に半分、信頼に半分、お客さんは喜んで入場料を出すってこと」
「はあ」
 キタさん、溜息ばかり。
 
        咩
   
 タクシーは順調に走っています。
「いいわすれましたが」
 運転手がいうと、キタさんは、
(おもいださなくてもいいのに)
 とおもいましたので、
「どうぞ」
 と素っ気なく応えました。
「網走の語源なんですが、諸説ありましてね。
 ア・バ・シリ。
 つまり、我らが・みつけた・土地、から出た。
 あるいはアバ・シリ。
 つまり、入り口の・地、から出た、などともいわれていますわー。
 が、アバシリは、古くチバシリといったといいますから、やはりチ・バ・シリ。
 つまり、我らが・みつけた・土地にまちがいはない。
 あるいは、神鳥がチバシリチバシリと鳴いた、とする伝説からきたんだとか。
 まあ、かように、諸説ふんぷんなんですがねー。
 チバは弊。
 つまり神への貢ぎ物で、ふつう布なのですが、木を削ってとって、捧げました。
 その場所である島、というのが有力なんですがねー。
 お客さんのご見解は、いかがでしょう」
(どれでもいいわ)
 とキタさんはおもいましたが、高倉健の、
『網走番外地』
 でも歌われたら、厭なので、
「うちは、伝説好きだから、神の鳥、ですね」
「そちらのお客さんは」
 ヤジさんも、
(どっちでもいいわい)
 とおもいましたが、高倉健の、
『網走番外地』
 でも歌われたら、口惜しいので、
「ぼくは、有力な人間だから、有力の味方だな」
 なんてことをいったものですから、車内はとつぜんしらけました。
 その雰囲気を打ち払うように、運転手は快活な声でいいました。
「さて、お客さん、ルートはいかがしましょうかー」
 ヤジさんは、ちょっとだけ考えて、
「泊まりは川湯温泉だが、まだだいぶ早いから、硫黄山の全貌を、お嬢さんに見せたら、霧の摩周湖を巡って、というより三箇所の展望台をハシゴして、
〈摩周ブルー〉
 を拝んで、このさいついでに、熊も狼も轢き逃げして、
〈網走監獄〉
 まで行っちまうかー」
「ところで先生方。
 たしかに、摩周湖の水の透明度は日本一です。
 どうしてそんなにブルーなんでしょう」
 と、運転手。
「それは空がブルーだからさ。
 透明なら、空を映す」
 ヤジさん、偉そうに答えます。
「どうしてそんなに透明なんでしょう」
「まさか、摩周湖は湖面に辿り着けないから、屍体を放り込めないなんていうんじゃないよね」
「正解です」
 正解だなんておもってはいないが、ヤジさんは気分が良くなります。
 そしてヤジさん、案の定、
『霧の摩周湖』
 を歌い出します。
 
「♪霧に抱かれてしずかに眠る
 星も見えない湖にひとり
 ちぎれた愛の思い出さえも」
 
 なにせヘビースモーカーですから、サビの部分で、残念ながら声が出なくなりました。
「はい、了解しました、さすがのコースですわー」
 忖度して、運転手は答えたのですが、いいところで止められたと、キタさんは気分がわるい様子です。
「うちは善人だから、網走監獄に用はありませんわ」
「きみにもいずれ解るが、硫黄山の幽霊とは無関係ではないから、一応雰囲気だけでも味わって」
「網走監獄と聞いただけで、なにか背筋が寒くなってきましたの」
「そうかい、いまは、
〈博物館・網走監獄〉
 として、見学もできるんだけど、残念」
「見学なんかしたら、うち、ショック死しますわ」
「提案してみただけで、そこまで行くと予算オーバーさ。
 だいたい、きみがショック死するのは、まだ早い。
 硫黄山の幽霊をみてからにしてくれ」
「なんという毒舌、なんという冷血」
「毒舌と冷血は、きみがぼくの先生さ」
「く、くやしーい」
「まあいいか。
 のんびり観光していると、硫黄山の幽霊に逃げられるといけないからな」
「幽霊は逃げませんよ。
 逃げるのはうちら」
「いや、幽霊だって逃げる。
 幽霊より怖い存在がいればね」
「それって、まさか、うちのことじゃないでしょうね」
「いや、まあ、その」
 ヤジさん、幽霊みたいに消え入りそうです。
 ヤジさんとキタさんが、不穏のかんじになってきましたので、運転手も、背筋が寒くなってきた様子です。
「お、お客さんがた、ほ、ほら硫黄山が」
「お、硫黄山だ」
 ヤジさん、感動の声をあげました。
「あ、あれが、硫黄山」
 キタさん、不安の声をあげました。
「きみ、ど、どうかね。
 い、硫黄山、立派なもんじゃろ」
 標高512メートルの、遠くからみると低いドーム型の小山ですが、キタさんにはやはりおどろおどろしい、大山にみえました。
「溶岩円頂丘」
 といわれる、小火山です。
 秋晴れのはずなのに、硫黄山の上空は黒く重い雲が垂れこめ、硫黄山のあちこちの中腹からは、黄色い煙がもうもうとあがっています。
 救いは、左手前の、あかあかと色づく紅葉。
 でも、それをみている余裕は、キタさんにはありません。
 十数人の観光客の姿が、黒いマッチ棒のようにみえます。
「ちょっと、うち、めまいが」
「硫黄のにおいに、やられたのかな」
「なにか、霊気をかんじませんか」
「ぼくは、はじめてじゃないから、感覚が鈍くなっているのかも」
「幽霊はいるわ、いますわ」
「そらあ、幽霊みるためにきているんだから」
「うち、帰る、帰ります、帰らせてください」
 キタさん、とうとう、さけびました。
 そのさけびごえは、天まで届きそうでした。
「おいおい、幽霊が目をさましちゃうじゃないか」
 
          咩      
 
 キタさんのあまりのうろたえぶりに、困りはてたヤジさんは、摩周湖はあきらめて、目指す川湯温泉の、
〈ゆうゆうホテル〉
 にタクシーを向かわせました。
「きみは大相撲ファンだったね。
 大横綱大鵬は、川湯出身だから、
〈相撲記念館〉
 があるよ」
 ヤジさんは、さかんに、キタさんのご機嫌をとりました。
 しかし、キタさん、憂鬱そう。
 
 ヤジさんがホテルにメールをしてありましたので、玄関に副支配人が迎えに出ていました。
(熊だ)
 とキタさんは、心のなかで叫びましたが、そんなことはありません。
 熊田一九(くまだ・いっきゅう)、三十六歳です。
 がっしりとした体格、毛深くきりりとした目鼻は、なかなかの好男子です。
 性格は、ひとくちでいって、人が良い。
 だから、他人の言葉には、すぐ共感してしまいます。
〈日本幽霊探索会・北海道支部長〉
 もしています。
 だから、ヤジさんの言葉には、とても従順です。
(支部長といっても、一人だけの支部なのですが)
「会長、お待ちしておりました」
 やたら元気な声。
 やたら元気な顔。
 それで、キタさん、益々元気がなくなってきました。
 そんなキタさんが、よっぽど、か弱い美人にみえたのでしょう、一九さんは、尊敬しているはずのヤジさんそっちのけで、キタさんにかかりきりです。
「はいはい、どうぞどうぞ、こちらこちらです。
 はいはい、手荷物は私めが持ちます。
 はいはい、お部屋は最高級で、会長とお嬢さんは、もちろん別々。
 はいはい、お嬢さんは硫黄の間、会長は摩周の間」
 じつは、硫黄の間が最高級で、摩周の間は普通。
 会長用に予定していた硫黄の間を、瞬時にキタさんに代える手際のよさ、おもてなしの妙。
 というか、女には、とくに美人には、からきし弱い一九さん。
 石畳(いしだたみ)みたいな顔からは想像もつかない、一九さんの優しさに、おもわずキタさんは、
(帰るのはやめて、一泊くらいなら)
 と、おもったものでした。
 ヤジさんは、運転手と握手をして、
「それじゃあ、二泊三日の予定だから、チェックアウトの朝に迎えを頼むよ。
 もしもぼくが幽霊に喰われていなければ」
「人喰い鬼じゃあるまいし、幽霊って、人を喰うんですか」
「まだ会ってみたことがないからわからんが、硫黄山の幽霊なら、人くらいは喰うだろうよ」
「それもそうですね。
 ではお大事に、ご無事を祈ります」
「ぼくは喰われても本望だが、あのお嬢さんのことを祈ってくれよ。
 とても幽霊本を出してる、出版社の編集者とはおもえんだろ」
「おもえますよー。
 そういう専門家だから、オバケや幽霊のホントの怖さを知っているのでしょう」
 さすがに、運転手は如才(じょさい)なく対応します。
「なるほど、うまいことをいうねえ。
 どうかね、日本幽霊探索会に入会せんかね」
「ありがたいけれど、けっこうです。
 幽霊なんか探索するものじゃありませんわー」
「不遜(ふそん)かね」
 ヤジさん、急に機嫌が悪くなりました。
「いえ、失礼ながら、幽霊は偶然みてしまうから幽霊なんであって、探索してまでみたいとは、とてもとても」
「話にならんね、偶然みてしまうなんてことがないから、わざわざみにくるんじゃないか。
 オバケや幽霊に対しては、受動的じゃいかん。
 能動的であって、はじめてその正体を探ることができるのじゃ」
「探らないと、いけないものなんですかねー」
「いけるもいけないも、探りたいというのが、生きとし生ける者の欲求と願望じゃろうが」
「はい、すみませんでしたー」
 運転手は、明後日の予約を断わられるといけないので、賢明にも、このあたりで折れました。
 
          咩       
 
 慢性皮膚病、慢性婦人病、動脈硬化症などによいという、硫黄の温泉に入って、夕食は最高級の硫黄の間で、ヤジさんキタさん一緒です。
 キタさんは、湯上がりで、浴衣姿がなんとなく艶っぽいかんじです。
 ヤジさんは、摩周の間で、タバコの喫いだめをしてきましたので、落ち着いたものです。
 そして、一九さんもヤジさんに呼ばれて、部屋の隅にかしこまっています。
「おいおい、熊田くん、この部屋、ぼくの部屋とずいぶんちがうじゃないの」
「そ、それは、おそらく気のせいです」
「気のせいならしかたないか。
 いいんだ、ぼくは本質的に質素好みだもの」
「会長の本質はよく解っています」
 卓上につぎつぎと料理が運ばれ、キタさんの表情が、しだいに明るくなってきます。
 毛ガニ、
 ウニ、
 いくら、
 鹿ロース、
 各種キノコ、
 各種山菜。
「海の幸、山の幸ってよくいったものね、なんか幸せになってくるもーん。
 99%幸せ、ヤジさんがいなけりゃ、100%幸せ」
 キタさんが自分のほうをみていうので、どうやら一九さんは誤解をしている様子です。
 99%は、絶対に、自分を意識した数字にちがいないと。
「いやいや、私めは、しがない副支配人でして」
 こういうときすぐに口を出すのは、ヤジさんの得意分野です。
「副支配人の形容詞は、しがない、ではなく、死なないだよ。
 ともかく、熊田くん、早く本題をききたいのだがね」
「その前に、いかがですか。
 北海道といえば、ウイスキー。
 ♪ウイスキーがお好きでしょ」
 一九さんがすすめると、
「いいねえ、いいねえ、熊田くんも飲みなさい」
 キタさんそっちのけで、ふたりして、グイグイ。
 すぐに、ご機嫌になったヤジさんは、
「♪イヨマンテー」
 なんて、変な歌声をあげます。
「熊田くんも、なにか歌いたまえ」
 断わればいいのに、一九さんは、
(そのお言葉、まってました)
 といわんばかりに、すぐに、
『川湯音頭』
 を歌いはじめます。
 
「♪ハアー
 川湯よいとこ花の園
 恋のシャクナゲ イソツツジ
 ハアー 咲いて呼ぶ呼ぶ 君を呼ぶ
 ヨイトサノサー ヤンサノエー
 ハアー ほんに川湯は花の園」
 
 ヤジさん、しきりに拍手。
 キタさん、ついでに拍手。
 
 気をよくした一九さんは、
「おそまつさま。
『新川湯音頭』
 もあるんですがねえ」
 呆れたヤジさんは、
「熊田くん、早く本題、本題」
 と、いささかいらつきます。
 すると、一九さんは、酔っ払ったのか、キタさんのそばにできるだけ居たいのか、
「会長、この機会に、
〈百物語(ひゃくものがたり)〉
 はいかがでしょう」
 といいだしました。
「古来、百物語なるものがあります。
 とうぜん、会長もキタさんもご存じですよね」
「しらいでか」
 ヤジさん、怒った声でいいました。
 一九さんは、その声を無視してしゃべくります。
 
「百物語、つまり、百物語怪談会ですね。
 夜、大人たちが集まり、一人、四、五ずつ怪談をします。
 部屋の真ん中に明かりを灯した灯心を百本、放射状に並べます。
 ひとつ怪談が終わるごとに、一本ずつ引き抜く。
 だんだんと暗くなり、丑三つ時(深夜二時頃)に、丁度百話目が終わります。
 百の怪談話が終わったら、とうぜん真っ暗やみになりますね」
「それはそうじゃ」
「するとたちまち、箪笥(たんす)に目鼻がついて、
 
ーこれなんだんす
 
 といいだします。
 鏡台は刀をふりまわして、
 
ー兄弟すすめえ
 
 と号令をかけます。
 下駄は、
 
ーげたげた
 
 笑い、唐傘(からかさ)は、
 
ーかさかさ
 
 這い回ります」
「うそこけ。
 真っ暗なのに、箪笥に、目鼻がついとるかどうか、だれにわかるんじゃ。
 刀をふりまわしとるのを、いったいだれが気づくんだ。
 げたげたかさかさは、ほんとうにに下駄と唐傘のしわざなのか。
 オバケは、ぼくみたいに、駄洒落(だじゃれ)が好きなのか。
 ええ、どうなんじゃ」
「まあその、そういわれてしまえば」
 一九さん、歯切れがわるくなります。
「だいたい百も怪談を聞いたら、眠くなって頭はぼけて、なんでもかんでもオバケにおもえるのさ。
 それに、たいていは九十九話で寸止めにするんだ。
 百話してしまうと、そのせいで不幸が起きたと、後悔するからね。
 知っとったかね」
「まあ、その」
 一九さん、さかんに頭をかきます。
 たまりかねたキタさんが口をはさみます。
「それなら、
〈三物語〉
 はどうかしらん。
 ひとりひとつずつ、自分がいままでの人生でいちばん怖かった、オバケ体験を語るってことよ。
 でも、蝋燭は辛気くさいから、このままでいいわ。
 三つの話が終わったら、オバケの気配くらいはするかも」
「きみもたまには、いいことをいうね。
 諸々の事情を考えれば、それしかあるまい。
 まずは、熊田くんから、次にキタさん、トリがぼく」
 ヤジさん、勝手に順番を決めました。
 あらかじめ用意していたのか、一九さんはすぐに語りはじめます。
 
「ある日のことでございます。
 村の祭りがあって、いつまでもにぎやかさが消えない夜であります。
 村祭りは、こどもの天国でした。
 夕方になると、家に帰れ、夜になると、早く寝ろ、といわれつづけているこどもたちも、村祭りの日だけは、夕方でも夜でも真夜中でも何もいわれないのですから。
 真夜中近く、村長の屋敷でご馳走が出るというので、母親が下痢をしていたから、私めは一人で行きました。
 村長の屋敷の大広間に、いくつも食卓が並べられ、卓上にはご馳走が並べられてます。
 この日だけは老若男女だれでも平等に、金持ちも貧乏人も区別なく、長がつく人も平の人も関係なく、勝手に食べることができるのです。
 鰻、
 天ぷら、
 お寿司、
 お刺身、
 煮魚、
 焼き魚、
 スキヤキ、
 マツタケ、
 野菜の煮物、
 季節の果物、
 うーん、たまりませーん。
 あれもこれも並んだ中で、毎年の人気は蟹でした。
 蟹といっても、海岸から遠いこの村では、この卓上みたいな、ずわい蟹やわたり蟹など、立派な蟹はとれないから、
〈沢蟹(さわがに)〉
 ですね。
 沢蟹をまるごと油で揚げたやつが、どの食卓でも器に大盛りになっています。
 だれもがお客さんだから、遠慮はいらないのでした。
 ところがこの日は、大変なお客さんがおりました。
 こどもの私めがみても、お年ごろの美女で、たしか今年、町から引っ越してきた、英語の教師の娘さんでした。
 英語の教師は外国人で、その奥さんは日本人だから、十七、八のその娘さんは、いわゆる、
〈ハーフ〉
 でした。
 あまりにきれいな淑女なので、だれだってそばに近寄りがたい。
 それをいいことに、娘さんは卓上の沢蟹を、次々と口に放り込んでいます。
 まだ口の中にいっぱいあるのに、もう口に入れる。
 すごいいきおいで、卓上の沢蟹を平らげると、ほかの食卓に移って、また沢蟹を食べはじめる。
 そのいきおいのすごいこと、村長の愛犬だってかないません。
 沢蟹が残ったら、村長の愛犬のものになるのだけれども、このぶんでは今年は、愛犬も沢蟹にありつけそうにありません。
 ほかの者が沢蟹に手をつけようと、箸を突きだすと、娘さんはなんとその箸を、真っ二つに折ってしまうのです。
 それでも愛くるしく微笑まれては、だれも文句はつけられなません。
 娘さんは、そのうち自分の箸も真っ二つにして、素手で沢蟹をつかみはじめます。
 その有様のすさまじさは、とうてい言葉では表わしきれません。
 あの娘さんは、たぶん手品かなんかやっていて、沢蟹はほんとうはあの大きな胸のふくらみの、どこかに隠されているのではないか。
 そんなことをかんじたのだけは、よくおぼえています。
 とにかく、食卓上の沢蟹という沢蟹は、ぜんぶなくなり、娘さんはなにかつぶやいて、隣の部屋にいきました。
 なんといったのだったか、
ーもっと沢蟹を
 だったか、
ー沢蟹はもうないの
 だったか、よく聞こえませんでしたが、もしかすると、隣にいったのは、沢蟹を探しにいったのかもしれないのです。
 たぶん私めは、そう察したのでしょう。
 少し間を置いて、沢蟹のおこぼれにあずかれるかもしれないと、隣をのぞいてみたのでした。
 そこに、娘さんはいません。
 そ、そ、そ、そこには、な、な、なんと、消防自動車くらいの、巨大な名もしれぬ赤い蟹がいて、巨大な鋏を、上手につかい、ものすごい形相(ぎょうそう)で、沢蟹を食べているのでした」
 一九さんの一物語は終わりました。
 キタさんが、ぶるんと全身を震わせました。
 そして、手にした蟹を落としました。
 二物語はキタさんです。
 
「うちは、蛇だけではなく、鰻(うなぎ)も穴子(あなご)も泥鰌(どじょう)も、ぬるぬるして長いものはとにかく嫌いでした。
 だからもちろん、そんな不気味なものを食べたことはありません。
 でもうちの実家では、鰻や穴子や泥鰌はもちろん、蛇なんかも食べる習慣がありました。
 その食べ方も、だんぜん嫌いで不快でした。
 まず生きた蛇を大鍋に入れます。
 七人家族でしたら、七匹ですね。
 水を入れて、醤油と味噌を入れ、強火で煮るのです。
 重しをした鍋の蓋には、あらかじめ、きわめて小さな七つの穴を空けておきます。
 ぐつぐつ煮立ってきますと、さすがに中の蛇が悶え苦しんで、ひどく暴れます。
 そして沸騰しますと、七匹の蛇はたまらずに、鍋の蓋の七つの小さな穴から、いっせいに物凄い勢いで飛び出します。
 とうぜんのことに、鍋の外に飛び出すのは、穴のところで肉が削がれて、骨だけになった蛇なのです。
 それで美味しい、
〈蛇鍋〉
 の完成、というわけです。
 うちは、いつからか、
(人間はこの世で最も残酷な生き物だ)
 とおもいはじめました。
 泥鰌なども生きたまま、丸ごとの豆腐と一緒に鍋で煮ます。
 煮立ってきますと、泥鰌たちは豆腐の中に逃げ込みます。
 沸騰すると、
〈泥鰌豆腐〉
 の完成です。
 これが好きな者は、ともだちにも沢山います。
 人間は料理をするから残酷なのです。
 料理というものが、すなわち残酷なんです。
 それなのに、自分は一流の料理人だと、威張っている莫迦が多すぎるんです。
 ともかく骨だらけになった蛇を、町では、
〈じゃこつ〉
 といっていました。
 
ーこつこつこつこつ
 じゃこつこつこつ
 こつこつじゃこつ 
 こつじゃこつじゃ
 こつこつこつじゃ
 
 そんな音が聴こえたら、じゃこつの登場だそうです。
 蛇鍋を喰らってばかりいる者には、いずれこの音がかならず聴こえてきます。
 聴こえたが最期、聴いた者の肉は消滅し、骨のみとなります。
 オソロシヤ、オソロシヤ」
 オソロシヤの言葉は、恐ろしくない証明みたいなものです。
「ぼくはもともと、肉のない骨だらけの身だから、安心安心」
 なんてことをつぶやいてから、いよいよヤジさんの三物語です。
 
「ぼくは、多すぎてひとつに絞るのがむずかしい。
 だから、あくまでも好みでひとつに絞りたい。
 町のはずれに、一件の宿屋があった。
 こんな町に観光でくる者も、仕事でくる者もいないはずなのに、一件だけ宿屋があったんだ。
 平屋で、客室も一つしかない。
 たしか、
〈原始館〉
 といったな。
 ご主人を戦争で亡くした、三十歳くらいの女がやっていた。
 おかみさんは外出しないので、ぼくはみたことがないけれども、女優の原節子にそっくりの、町一番の美人だそうだ。
 ほんのたまに、物好きが、あるいは女好きがやってきて、原始館に泊まる。
 そのときの物好き(あるいは女好き)は、胸を病んでいるとの事だったな。
 どうりで、宿屋の前を通りかかると、変な咳が聴こえる。
 
ーげふっ
 げふっ
 げふげふ  
 げふげふ
 
 気持ちのいいものではない。
 それでも原始館のおかみさんは、やたらに親切にしているらしい。
(病人に親切にするなんて、いいとこあるな)
 とおもったのだけれども、町のインテリにいわせると、そのお客さんは母性本能を、くすぐるタイプらしい。
 作家の太宰治によく似ているらしい。
 くすぐるは解るが、母性本能についてよく解らなかったとうじのぼくが聞くと、それはだきしめたい、ちゅうことじゃ、という。
 太宰治が、原節子をだきしめるのか、とさけぶと、その逆じゃ、女が男をだきしめるんじゃ、という。
 その後もやはり、あの厭な咳は聴こえる。
 
ーげふっ
 げふっ
 げふげふ
 げふげふ
 
 胸も患っていないし、あれは咳ではないんじゃ、インテリはいう。
 あの咳に似たものは、いわば求愛の表現じゃ、インテリはいう。
 かったのです。
 その後おかみさんの求愛が烈しすぎたのか、お客さんは逃げてしまったとのこと。
 それでは、もうあの咳みたいなもんは聴かないですむねというと、インテリは、あれはおかみさんの求愛の喘ぎ声じゃ、という。
 ぼくはなぜか薄気味悪くなって、女はオバケよりもおっかないなというと、インテリは、わかるのがおそすぎるんじゃ、という。
 それで、おかみさんはどうしてるのかなというと、当り前のこと聞くな、あのお客さんを追いかけて喰ってしまったんじゃ、という」
 
 ヤジさんの三物語のデキがわるかったのか、オバケの気配はまったくなく、ヤジさんはきまりわるそうに、
「熊田くーん、いよいよ本題よろしくねー」
 猫撫で声を出しました。
 一九さん、真顔になって、
「はい、硫黄山の幽霊、ですね」
「熊田くんは、それをみたんだね」
「みたというよりも、みたかんじがして、それですぐに、会長に報告しました」
(しかし、即座に「すぐ行くよ」といわれるとは、おもってもみませんでした) 
 なんてことはいえずに、一九さんは愛想笑いをしました。
「かんじで、いいんだ、なにせ相手は幽霊だからな。
 それで、どんな、いやいや口でいうより、絵に描いてくれ」
 一九さんは、のけぞって、
「いえいえ、私めはお絵書き〇点。
 しゃべくりは商売でもありますから、できるだけ詳しく、語らせていただきます」
 そこに、キタさんが助け舟を出します。
「いいのよ、詳しくやられたら、また帰りたくなっちゃうから。
 ほどほど、でね。うちも、ご馳走たべすぎないよう、ほどほど」
(なんて、優しいひとなんだ)
 一九さん、感激です。
 感激のあまり、喋ること喋ること。
「会長もごぞんじのとおり、明治時代における、
〈釧路集治監〉
 の任務は、硫黄山の開発を助け、釧路〜網走間の国道開さくにありました。
 硫黄は、黄色い宝石。
 マッチ、火薬の原料、科学工業の基礎原料の硫酸として、なくてはならない物質でしたから。
 当時のお偉いさんの発想は、囚人に苛酷な労働をさせて、それでもし囚人が次々と死亡したら、囚人が減って、刑務所の経費削減になるじゃないか、ということでしたから、ひどいものです。
 人権意識の欠如というんですか、悪いことしたやつは罰せられて当たり前、たとえ死んでもしかたないって感じで。
【夜ヲ以テ日ニ継グ】
 と当時の資料にあるくらい、突貫工事の時期もあったそうです。
 囚人たちは、十七年間にわたって苛酷な労働を続け、自らが開さくした国道を通り、網走集治監へと移っていったのであります。
 ほかに、硫黄山の採鉱、硫黄山鉄道の敷設も、囚人労働者の労作でした。
 硫黄ガスの鉱毒のために、眼をやられて、失明する者もたくさん出たので、それからほかに回されたわけです。
 ここらあたりの鉄道も国道も、みんな囚人たちのおかげとはいえますね。
 詳しくいうと、キリがないですけど、硫黄山を一望すると、つい詳しくいいたい気持になります」
「ああ、網走の監獄は、国道ができた後に、つくられたってわけね」
 キタさんは、一九さんの話に耳を傾ける覚悟をしていました。
 もうけっこうです、なんていったら、ホテルのロビーにあった、
『弟子屈町史』
 を読み上げる気がしたのです。
「囚人労働者は、二人ずつ鎖でつながれ、作業中も4キロの鉄玉を足枷(あしかせ)がわりにされていました。
 それでも動かないと、凍死するか、武装した看守たちに、撲殺されるか、どちらかなのです。
 夜は、施錠した仮監に入れられ、粗末な食事しか、与えられませんでした。
 ですから、栄養失調で死んだ、囚人たちもすくなくはありません。
 看守たちには、逃亡しようとする囚人や、反抗的な囚人を、斬殺できる権限が与えられていましたから、逃亡する者や反抗する者、はすくなかったのですが。
 囚人たちにとって、いちばん恐ろしかったのは、
〈標津岳〉
 や、
〈斜里岳〉
 からおりてくる、獰猛(どうもう)な熊や、凶暴な狼の群れに、作業中に襲われることでした。
 硫黄山の頂上には、深さ100メートル前後の、爆発火口が開いていて、一般に、
〈熊落とし〉
 といわれています。
 そこに、熊や狼が落ちてくれればいいんですがねえ。
 ともかく、看守たちは武器を持っていたからよかったものの、囚人たちは鉄玉を付けられていますから、逃げることもできません。
 熊や狼に喰われて、死んだ囚人は数え切れないでしょう」
「それで、亡くなった囚人たちは、どうなったのでしょう」
「そこが問題で、毎日毎日死者が出るのを、いちいち焼却したりお墓を作ったり。
 そういう丁重なことは、看守たちにとって、やる余裕も、やる理由もないので、国道脇や鉄道脇に簡単な穴を掘って埋めたり、烏や狐が喰ってくれそうなときは、そのまま放置したままにしたり。
 死んだ場所しだいでは、硫黄山の火口や、屈斜路湖の附近まで運んだり。
 屈斜路湖の、最大水深は117メートル。
 それでも骨が積もり積もって、
〈中島〉
 は、囚人たちの骨の山なのではないか。
 私めは、そんなことをおもったりもします。
 中島をみるには、湖の向こう側の美幌峠から。
 美空ひばりの、せつない歌が聴こえます」
「ええっ、美空ひばりの幽霊ですかア」
 キタさんの素頓狂(すっとんきょう)な声。
「失礼ですよ、そういう装置があるということですわー」
「なあんだ」
「なあんだも失礼です。
 聴いたら、血も涙もない人だって、涙します」
 いってキタさんをみる、一九さんは珍しく鋭い眼です。
「それって、うちのことじゃないですよね」
 一九さんはとぼけて、
「明日、硫黄山見学のあとにでも、美幌峠に行ってみますか」
「いえ、クッシーが怖い」
「洞爺湖(とうやこ)の中島のほうが、ネッシーみたいですがねー」
「それなら、余裕があったらね」
「ともかく硫黄山近辺を掘鑿(くっさく)したら、どれだけの人骨が出てくるか、私めにも想像がつきません」
「ということは、骨のみならず、霊もそこらに屯(たむろ)してるってわけね」
「はい、月夜の晩なんか、硫黄山が益々硫黄色に彩られて、幽霊が出ないのが、まったく不思議なくらいのものです」
「でも、出たのでしょう。
 熊田さんは、かんじたのでしょう」
「はい。
『千の風になって』
 の歌にあるでしょう。
 お墓の前で泣かないでください、そこにはいませんからって。
 お墓がないんだから、余計そこにはいませんよね。
 そう、千の風になって、硫黄山の空を吹きわたっているのです」
 そこまでいって、一九さんがみますと、美空ひばりの歌を聴いたわけでもないのに、キタさんは涙ぐんでいます。
 涙ぐんだ美人ほど、色っぽい存在はないってことで、一九さんは、キタさんにすっかりまいっている様子でした。
 そのせいかどうか、キタさんが聞いてもいないのに、またしゃべくりをはじめます。
「私めの血族で、むかし山本伝吉という人がおりました。
 当時の大臣を襲ったんです。
 木刀で腕一本たたき折った。
 その大臣は、伝吉と同じ藩の同輩だったが、明治新政府に抵抗して多くの藩士が死んだのに、自分は政府の要人になって、贅沢三昧(ぜいたくざんまい)、威張りくさっている。
 私めだって、そんなやつは襲いたくなりますよ。
 それで伝吉は、釧路集治監にぶちこまれたわけですが、その大臣からの示唆があったのでしょう、リンチまがいの目にあって、工事現場でもいちばん危険な場所に配置されました。
 はい、あんのじょう熊に喰われて死にました。
 私めの苗字が、熊田だなんて、まったく信じられません。
 他には、凩(こがらし)の金次郎という博徒の、噂を聞いたことがあります。
 金次郎はたしかに、血も涙もない渡世人でしたが、あるとき、レイプされそうになっている女性を助け、男三人をコテンパンにやっつけました。
 ところがその、コテンパンにされた連中が、警察の関係者だったのです。
 金次郎は、あれやこれや罪をなすりつけられ、もちろん冤罪(えんざい)だったわけですが、やはり釧路集治監にいれられ、持病の肺結核が重くなっていたのに、酷い工事現場に追いやられ、いわば野たれ死にをしました。
 私めは、伝助サンや金次郎サンの怨霊が出るのを、じつは心待ちにしているくらいなのです」
 一九さんは自分のしゃべくりに自信をもって、もっとしゃべくるつもりでいましたが、ここでヤジさんが障子戸とガラス窓を、両方おおきく開けはなちます。
「きみきみ、ほら、ここから、硫黄山がみえるだろ」
 おもわず、キタさんは立ち上がり、目をこらします。
 そのとたん、
「ぎゃぎゃぎゃ、ぎゃー、ぎゃー、ぎゃー」
 キタさんのさけびが轟き、とおく木霊しました。
 
          咩      
 
 キタさんが、失神から蘇りました。
「よかった、よかった」
 一九さんは大喜びですが、ヤジさんは、
(もうすこし眠っていてもらったほうが、のんびりと酒が飲めたのに)
 と残念そうでした。
「おはようございます」
 キタさんが、まだ眠そうな声でいいました。
「まだ午後八時です」
 一九さんが教えると、キタさんは驚きながらも、目を白黒させて、
「夢を見たわ」
「どんな夢ですか」
「硫黄山の幽霊の夢」
「それは夢ではありません。
 さっき硫黄山を見て、さけんで、気絶したんですから」
「まさか」
 キタさん、幽霊をみたなんて信じられません。
「とにかく夢だとして、どんな幽霊だったんですか」
「三人出たんですけど、みんなちがう、怖い顔をしていましたよ」
「どんなふうに怖いのですか」
「それは、みた当人にしかわからないような」
「なにかいっていましたか。
 うらめしやー、とか」
「そうねえ」
 キタさん、おもい出そうと努力します。
「そうそう、足の鉄玉が重いって、嘆いていたわ」
「幽霊に、足なんてあるんですか」
「西洋の幽霊には、足があるのよ」
「でも、ここは日本ですから」
「新しい幽霊なのよ。
 というか、古い幽霊なのよ。
 幽霊にはもともと足があったの。
 たとえば『牡丹燈籠』のお露さんは、これはもともと中国生まれの幽霊ですけど、下駄をカランコロン鳴らして出てきはる。
 幽霊の足がなくなったのは江戸末期で、画家の円山応挙が足のない幽霊を描いてからですわ。
 ですから、幽霊というと女のイメージやけど、ちなみに江戸の前期までは、幽霊はほとんど男だったとか。
 でも、うちが、足をみたわけではないの。
 幽霊が、三人とも、足の鉄玉が重い、重いって。
 足首がちぎれそうだって」
「幽霊は、三人とはいわないよ、人であって人じゃないんだから」
 と、ここでヤジさんが口をはさみました。
「三人じゃなけりゃ、三匹っていうの」
「そうよな、三体とか三態、かな」
「もういいわ、うち、帰らせていただきます」
「帰りたければ、一人で帰りなさい。
 だが、帰る途中で、幽霊に襲われても知らんよ。
 しかも、きみのみた幽霊は、幽霊というよりも、妖怪だね。
 人喰い妖怪」
 ヤジさんの顔も、妖怪っぽくなっています。
「冷酷、冷血、クソオヤジ」
「伯父さまに向かって、なんと無礼な」
 ヤジさんが強く叱責すると、一九さんが助け舟を出します。
「まあまあ、会長、幽霊を見てしまった人を、もっと大切にしてもらいませんと。
 キタさんは、日本幽霊探索会にとって、いまこそ大切な人になったんですよ」
 すると、ヤジさん、急に真顔になって、
「とにかくかのじょが、硫黄山の幽霊をみたと信じてだね。
 明日の昼間は硫黄山探索、明日の夕方から、硫黄山の幽霊探索。
 ということで、支部長、たのんますよ」
 一九さんの肩をたたきました。
「がってん承知。
 明日一日で、硫黄山の幽霊の正体をつきとめましょう」
「【幽霊の正体みたり枯れ尾花】
 なんてことはないよな」
「ないない、ありません。
 キタさんが、帰らせていただきます、というくらいですから。
 明日は、高性能デジタルカメラ持参で合流します」
「そいつはたのもしい」
 といって、ヤジさんは摩周の間にもどり、一九さんも仕事でフロントにもどりました。
 そのとき、一九さんは、
(硫黄の間、なんとなく硫黄のニオイがしていた)
 とおもいましたが、
(きっとそれは、キタさんが、硫黄の温泉から出たあとだったからにちがいない)
 と考えました。
 キタさんはしばらく、心細げにしていましたが、今夜はもう出てはこないとふんで、早めに床につくことにしました。
 問題は、電気をどうするかです。
 明るいと眠られないし、真っ暗だと怖いし、ちいさいライトだけつけておこうとおもいましたが、なんだかそれがいちばん怖いのです。
 キタさんは商売柄、幽霊が黄昏(たそがれ)どきに出やすいのを知っています。
 ちいさいライトをつけると、この部屋はまるで、黄昏れどきとそっくりになります。
 けっきょく、いちおう真っ暗にしてみました。
 月が雲間に隠れたようで、ほんとうに真っ暗です。
 しばらくすると、とにかく疲れていましたので、キタさんは寝息をたてていました。
 
         咩     
 
 深夜です。
 
ーじじるる じじるる
 
 夢かうつつか。
 妙な音がかすかに聴こえます。
(人魂がくすぶる音なのか。
 それとも、囚人たちが重い鉄玉をひきずる音なのか)
 
ーじじるる じじるる
 
 気味悪い。
 不快な音です。
 不気味な音です。
 言葉には表せない、けれども、あえていうなら、
 奇人変人、ではなく、
〈奇音怪音〉
 でしょうか。
 こんな音は聴いたことがありません。
(もしかすると、硫黄山に土砂降りの雨が降って、熱い硫黄が冷やされる音かもしれない)
 と、キタさんはおもいました。
 キタさんが耳をこらすと、こんどは、こんな音が。
 
ーばばりん ばばりん
 
(やっぱり、豪雨なのか。
 それとも、囚人たちの嘆きの涙が、烈しくおちる音なのか。
 もしかすると、音ではなく、声なのか)
 そうおもうと、よけいに恐ろしくなります。
 
ーばばりん ばばりん
 
 それでも、キタさんは、まだ落ち着いています。
 なぜなら、キタさんの知るかぎり、日本の幽霊が出てくる音は、
〈どろどろ ひゅるる〉
 というかんじだからです。
(これは幽霊ではない、ぜったいに幽霊ではない)
 そうおもったのか、そうおもいたかったのか。
 いずれにしてもキタさんは、掛蒲団を、頭の上までひきずりあげました。
 けれども、あいかわらず音は聴こえ、音はますます高くなるのです。
 
ーじじるる じじるる
 
ーばばりん ばばりん
 
ーじじるる じじるる
 
ーばばりん ばばりん
 
 これだけ繰り返されると、キタさんには、もうイジメです。
 なにか文句をいいたいのだけれども、なぜか声が出ません。
 自分の声が出ないのがわかると、無闇(むやみ)に恐ろしくなってきました。
 
ーじじるる じじるる
 
「ぎゃぎゃぎゃ、ぎゃー、ぎゃー、ぎゃー」
 もうがまんができません。
 キタさん、飛び起きて、電気をつけました。
 そのとき、部屋のなかから、すすっと何者かが逃げつ影、消える影がみえたのです。
「ぎゃぎゃぎゃ、ぎゃー、ぎゃー、ぎゃー」
 ふたたびキタさんはさけびながら、隣の摩周の間に飛びこみました。
「な、な、な、なんじゃー」
 ヤジさんも飛び起きました。
 ちょうどヤジさんは灯りをつけ、蒲団の上に寝転びながら、
『硫黄山散々記録』
 と名づけたノートを、さかんにとっているところでした。
「で、で、出たのよー」
「べ、べ、便秘解消か」
 びっくりしたあまり、ヤジさん、アホなことをい‚「ました。
「き、き、きっと、硫黄山の幽霊」
「こんどは、はっきりとみたんだね」
 キタさんは荒い息を鎮めてから、
「みたんじゃなく、聴いたのよ」
「幽霊の声を聴いたのかい」
「いえ、幽霊の音」
「へえ、幽霊に音なんかあるのかい」
「あるのか、じゃなくて、あったのよ」
 そのとき、キタさんのさけびを聴いたらしく、一九さんが駆けつけてきました。
「で、で、出ましたか」
 キタさんは、幽霊の音の話をしました。
 すると一九さんは、済まなそうに、
「いやはや、さっきから温泉装置の具合が悪くなりまして」
「それで、妙な音がしたのね」
「たぶん。
 でも、急きょ業者をよびましたから、一時間もすれば修復されるとおもいます」
「あらまあ」
「失礼いたしました」
「騒いだうちが、アホやったのね」
 キタさんはおもむろに硫黄の間にもどり、ヤジさんにひきとめられた一九さんは、摩周の間に残りました。
 ヤジさん、囁き声でいいます。 
「熊田くん」 
 一九さんも囁き声で応えます。
「はい、会長」
 ヤジさんは、今日一日のことを詳細に記した、硫黄山散々記録をながめながら、
「どうも、かのじょのうろたえぶりが、気になってね。
 あの表情。
 あの声音。
 あの仕草。
 正直こんちくしょうとおもうくらい、ふだんクールで、とてもあんなふうにはならないんだ。
 とにかく一時間、ここで硫黄の間の様子を窺いたいのさ。      
 温泉装置の不具合が解消されても、かのじょの聴いた音が、再度するようだったら、ぼくらは行動を開始せにゃならん。
 熊田くん、ぼくが合図をしたら、スマホでの録音たのむよ。
 それと、高性能デジタルカメラとやらも、いま用意してもらったほうがいいね。
 ついでに、幽霊を捕まえる網」
「アミ、網ですか」
「漁で使うような、網さ。
 なければしょうがない、タモ網でもいい」
「網なんかで、幽霊が捕まるもんです」
「それは、その、つまり、その。
 やってみなけりゃ、わからんだろうが」
「がってん承知」
 なにががってんなのか、なにが承知なのか、どちらにしてもそう答えるほかはない一九さんでした。
 
         咩     
 
 一九さんが摩周の間にもどってきたのは、ちょうど一時間後でした。
「遅いね、幽霊があくびをしとるよ」
「すみません、業者との対応に手間取って。
 でも、温泉設備の不具合は解消しました」
「それはごくろうさん。
 ううむ、いよいよだな」
 ヤジさんは耳を澄ませました。
「会長、何か聴こえますか」
「ううむ、熊田くんの鼻息しかきこえん」
 一九さんは、鼻をおさえました。
 すると、何か、何か、ヤジさんの五十九年の人生のなかで、一度も聴いたことのない音が、かすかに聴こえるのです。
「会長、聴こえますね」
 一九さんも囁いて、耳を澄ませました。
 
ーじじるる じじるる
 
「なんじゃ、あの音は」
 
ーじじるる じじるる
 
「温泉設備の不具合ではなかったんですね」
 
ーじじるる じじるる
 
「熊田くん、録音、録音」
「はい、もうやってます」
 
ーじじるる じじるる
 
「おっと、音が変わったな」
 
ーばばりん ばばりん
 
「はい、キタさんがいっていたとおりです。
 爺が、婆に」
「ぼくには乳と馬に聴こえるが」
「はい、若い耳と年取った耳のちがいですね」
「厭なこというねえ」
「はい、たまには」
「いいか、かのじょの悲鳴が聞こえたら、その高性能デジタルカメラとやらかかえて、硫黄の間に飛び込むんだぜ」
「がってん承知」
「熊田くんは、むかしから返事だけはいいね」
「会長とは、まだ一年半のつきあいです」
「そうかい、生前からのつきあいのように、ぼくはかんじていたがね」
「ありがとうございます。
 悲鳴がなかなか聞こえませんね」
「幽霊に猿ぐつわを、いや、幽霊に拉致されてしまったかもしれん」
 ヤジさんの言葉に、一九さんは飛び出そうとします。
「おいおい、レディの部屋に、そう簡単にはいるもんじゃない」
「おっと、そうでした。
 副支配人たる者が、何たる失態」
「気が急くのは解るが、とにかく待つしかないぜ」
「はい、会長」
「けれどもはいりたいもんだね。
 悲鳴が聞こえてからでは、遅きに失するかもしれん」
「はい、会長」
 一九さんの腰があがりそうです。
「待て、それでも待て。
 かのじょは、本気で怒ると、とてつもなく怖いんだ。
〈夜叉〉
 よりも、
〈鬼婆〉
 よりも、
〈口裂け女〉
 よりも。
 もともとがばけそこないのオバケなんだ」
 一九さんの腰がさがりました。  
「まだでしょうか」
「待て待て」
「まだでしょうか」
「待て待て」
 そんなやりとりの最中、隣室からキタさんの悲鳴。
「いまぞゆく」
「がってん承知」
 ふたりは硫黄の間に飛び込みました。
「な、なによ、なにさ」
 ライトをつけたキタさんが、鬼面の形相(ぎょうそう)で、烈しく怒りました。
「だって、また幽霊が出たんでしょう」
 一九さんが心配そうに聞くと、
「ゴキブリが、顔の上を這って行ったのよ。
 ああ、気持悪い」
 一九さんは口をとがらせて、
「当ホテルには、ゴキブリなんかおりません」
「とにかく、戻ってよ、眠られやしない」
 ヤジさんと一九さんは、すごすごと摩周の間にもどりました。
 もどったとたん、ヤジさんがにやりとして、
「おい、熊田くん、撮影したんだろ。
 はやく高性能デジタルカメラの画面をみせてくれや」
「はい、会長」
「なんだ、かのじょのバカヅラしか、撮れてないじゃないか」
 ヤジさんは画面を一瞥しただけで、がっくりとする。
「いや、会長、ここ、ここをみてください」
「ここって、ここか」
「はい、会長」
「ここは、ただの壁だ」
「この壁のここ、ここに不思議な影が」
「これは、ただのシミだよ」
「とんでもない、会長。
 当ホテル最高級の、硫黄の間の壁に、シミなんかあるわけはありません」
「するてえと」
「このシミ、いや、この影こそ、硫黄山の幽霊の名残りではないかと」
「ううむ、ううむ」
 うなりながらヤジさんは、画面を凝視(ぎょうし)します。
 そして、とつぜん奇声を発します。
「熊田くん、お手柄じゃ。
 これが幽霊の残り香でなくて、いったいなんであろうや」
「はい、会長」
 一九さんは満面の笑みです。
「やったねえ、熊田くん」
「やりましたあ、会長」
 そこでふたりして、
「やった、やったあ」
 とわめき、わけのわからない、〈やった踊り〉を踊り始めます。
「うるせえ、とっとと寝ろ」
 隣室から、キタさんの怒声です。
 ふたりは首をすくめ、明日の硫黄山探索を約束して別れました。
 
         咩      
 
 ホテル内のレストランで、ヤジさんとキタさんのふたり遅いランチをとった。
 今日はじめての食事だったが、キタさんは食欲がないといって、ホットケーキとコーヒーだけだった。
 それでも食べはじめると、ヤジさんのとったサンドイッチまでほとんど食べてしまった。
 ヤジさんは嬉しそうに笑って、
「きみも、このオバケスクエアに、だいぶ慣れてきたようだね」
「慣れたくなんかありません。
 うち、もう、転職しようと考えているところ」
「転職かい。
 幽霊本の出版社が、天職におもえるんだがね」
「厭なことをおっしゃる。
 うちは、もともと、純文学専門の出版社に行きたかったのよ」
「そんな出版社なんか、どこにもないじゃないか」
「なければ、起業するわ」
「半年で倒産だね」
「今回の罪滅ぼしとして、ヤジさんにタダで書いてもらうから、たぶん大丈夫、かな」
「ぼくは、オバケの原稿しか書かないよ」
「だから、オバケの純文学」
「つまり、その」
「上田秋成の、
『雨月物語』
 とか、折口信夫の、
『死者の書』
 とか、少なくとも夏目漱石の、
『夢十夜』
 とか、そういう原稿、ちょうだいな」
「少なくともねえ。
 敷居が高すぎやしないかい。
 まあいい、わかった、しかたない。
 硫黄山の幽霊に関する、ぼくの原稿を、きみにあげよう。
 だが、ひとつ、問題がある」
「ノープロブレム」
「問題は、主人公が純文学的ではないことだよ」
「主人公って」
「ほかならぬ、きみさ」
「ゲゲゲ、もういいわ。
 それ聞いて、起業のパワーもなくなりました。
 美貌を活かして、大企業の受付でもやりますわ」
「そんなら、お化け屋敷の受付のほうが似合っているよ」
 キタさんは、ぷいとふくれて立ち上がりました。
 キタさんが、足腰の悪いヤジさんの仕返しに、硫黄山まで歩くというので、しかたなくヤジさんは後からついて行きました。
 すでに一九さんからは、
「硫黄山の麓の花園の近くで待っています」
 とのメールが入っています。
 あまり待たせては申し訳ないと、ヤジさんは痛む足腰に鞭打って歩きつづけました。
 硫黄山の中腹の気孔から吹き出す、噴煙のニオイが、しだいに強くなり、あたりに充満し、ヤジさんはめまいがしそうでした。
 一九さんの話ですと、硫黄の噴気孔は1500以上もあるとのことです。
 おまけに、このさい禁煙をしようという気になりました。
 屈斜路湖方面に三十分ほど歩くと、向こうで一九さんが手をふっていました。
 ヤジさんは、一九さんにおぶってもらいたいとおもいましたし、一九さんもヤジさんが頼めば、おぶってくれるでしょうが、むかしヤジさんは、
〈おんぶオバケ〉
 にやられたことがあったので、がまんしました。
「会長、まだまだお元気じゃありませんか」
 一九さんがお世辞をいうので、ヤジさんはほんとうに元気が出てきました。
 三人そろって、硫黄山をのぼりはじめました。
「あそこに咲いている白い花々は」
 振り返ったキタさんは、珍しく女性らしい質問をしました。
「エゾイソツツジですね。
 あと一ト月もすれば、一面に咲きほこります」
「よく硫黄にやられないなあとおもって」
「硫黄のガスは上に上に行きますから、丈の低いエゾイソツツジにとってはへいちゃらです」
「きみもチビだからへいちゃらだろ」
 ヤジさんが余計なことをいったので、キタさんはおおむくれです。
「熊田くん、責任とって何とかしてくれや」
 ヤジさん、一九さんのせいにします。
「それなら、あとで綺麗な場所に案内します」
「ここらに、綺麗な場所なんてあるのかしら」
 キタさんは幽霊という言葉にも弱いが、別の意味で、綺麗という言葉に弱い。
「はい、青葉トンネル」
「ゲゲゲ、ここにも幽霊トンネルがあるの」
「あれは、青葉山トンネルだろ。
 ここにあるのは、青葉トンネル。
 つまりさ、樹木のトンネルさ」
 ヤジさんの言葉を受けて、一九さんは、
「ひとことでいうと、硫黄を運ぶための鉄道跡地ですね」
「やっぱり囚人が関係してるのね。
 というと、やっぱり幽霊が関係しているのね」
 一九さんは慌てて、
「わわわ、私めはまったく見たことはありません」
 
 観光バスや〈阿寒バス〉できた、観光客が三十人ほどいました。
 熱気の流れが、山上から、よどみなく流れ落ちてきます。
 むくむくと吹き出す噴煙の天辺は、雲と合体して、いまにも雷を作りそうな気配です。
 太陽はどこかに隠れ、それでもあちこちに鈍い光が蟠(わだかま)っています。
 足元の熱い石ばかりを気にしていた、キタさんが、
「あ」
 鼻血を。
 ヤジさんは、ぽかんと口を開けてみていましたが、一九さんはすかさずハンカチとティッシュを差し出しました。
「熊田くん、できるだけ、硫黄の火口のそばに行きたいんだけど」
「まさか、会長、自殺願望なんかないですよね」
「ぼくは、死ぬのは、死ぬより怖いんだ」
 それに」
「それに」
「ぼくは、幽霊なんかになりたくない。
 幽霊になって、姪に怖がられたくない」
「はい」
「あのはねっかえりに、怖がられたくないんだ」
「ご心配なく。
 幽霊にならなくても、じゅうぶん怖いですから」
 キタさんが、意地悪そうな視線と言葉を投げかけました。 
 ヤジさんは、わざと聞こえなかったふりをして、
「きみ、どうかね。
 硫黄山にのぼって、なにかかんじるところはあるかね」
 キタさんは、つと真顔になって、
「それが」
「それが」
「あるんです」
「あるのかね」
「あります」
「やはりあるんだね」
「あるんですが、どうあるのか、まだわからないんです」
「そいつは厄介だな。
 もしわかったら、すぐに教えてくれ」
「わかりました」
「わかったかい」
「わかりましたって」
「ほんとうにわかったのかい」
「ヤジさんのいうことが、わかったんですよ」
「なんだ」
「なんだはないでしょう」
「つまらん」
「つまらんはないでしょう」
 なんて、じゃれあっている間、一九さんはさかんに写真を撮っています。
 それを眺めながら、キタさんは、
「あれって、心霊写真なの」
「本人だけは、そうおもっているかも。
 なにしろ、わが日本幽霊探索会のホープだからね」
「でも、お名前がよくないわ。
 トンチでだまされそうで。
 世界中の子供たちは、みんな、大人たちから、オバケを使ってだまされてきたんです。
 悪いとこや暗いとこ行くと、オバケが出るよ、とか。
 悪いことしたり、親のいうこと聞かないと、オバケに喰われてしまうよ、とか。
 動物たちも利用されてきたわ。
 江戸時代、渡来した動物の人気ベストスリーは、ラクダ、ゾウ、アザラシ。
 江戸っ子には、みんな、でっかいお化けに見えたんでしょうね」
「言葉を変えれば、それはオバケを活用してきたんだ。
 子供たちの安全と平和のためにね」
「それは詭弁で、親が子供の教育を、放棄しているのと同じ」
「きみきみ、そんなに理屈っぽくちゃ、オバケだって、出たくとも出られなくなっちゃう」
「オバケには、理屈が大敵って、ヤジさんの持論ざんすわね。
 きっと、うちは、ヤジさんほど、理屈っぽくはないの。
 だから、ヤジさんに出ないで、うちに出はるのよ」
 ふたりがよほどやかましかったのでしょう、一九さんが指を一本口に当てて、
「幽霊が出にくいといっていますが」
「好都合だわ」
 キタさんが応じると、一九さんは唇を噛んで、
「一休さんみたいに可愛いと、せっかく両親が名づけてくれましたが、改名することにします。
 私め、ちっとも可愛くないので」
「幽霊よりは、可愛いとおもうわよ」
(なんたる言い種(ぐさ)か)
 ヤジさんが慌てて、
「熊田くん、そうじゃないよ。
 ぼくがご両親に会ったときに聞いたら、一プラス九で十、十分満足できる赤ちゃんが生まれたってことで」
「ほんとうですか」
「ほんとうだよ」
 嘘です。
 しかし、嘘も方便は、ヤジさんの処世訓です。
 とにかく、心霊写真のカメラマンの機嫌を、そこないたくはありません。
 機嫌をなおした一九さんは、ふたりを手招きして、
「どうです、この硫黄の煙のかんじ。
 どうです、この穴ぼこのかんじ。
 硫黄の間へは、ここから行ったにちがいありません」
「よく断言できるわね」
「日本幽霊探索会北海道支部長ならではの、鋭いカンです」
「そのカンを信じよう」
 ヤジさんは感心しきりですが、キタさんは相変わらず減らず口がおおいのです。 
「うち、生意気でいってるんじゃないの。
 つまり、幽霊って、曖昧なものでしょ。
 だから、曖昧(あいまい)な言い方されたほうが、信じられる。
 断言されたって、いまごろ幽霊たち、苦笑いしているわよ」
「すみません、おっしゃるとおりでした。
 いいなおします。 
 硫黄の間へは、ここから行ったような、ようでないような、そんなような気がします」
「いいかんじよ」
 とキタさん。
 ヤジさん、渋い顔です。
 
         咩     
 
 硫黄山の中腹を、ひととおり観察して、ヤジさんは、
〈硫黄製錬所跡〉
 に行くつもりなのでしたが、キタさんが厭(いや)がったので、一九さんの引率で、硫黄山の全景が見える茶店で休憩しました。
 キタさんがトイレに行ったので、ヤジさんは一九さんに写真をみせてくれと、せがみます。
「腰をぬかしても知りませんよ」
 ヤジさんはのぞきこみます。
「どれどれ」
「ほらほら、この写真です」
「どれどれ、これはただの硫黄の煙じゃないか」
「会長ともあろう人が、これこれ、幽霊のシッポにみえません‚ゥ」
「まあ、みえないこともないが、いや、みえるみえる」
「それと、ほらほら、この写真」
「単なる石ころじゃないか」
「会長ともあろう人が、これこれ、幽霊の骨にみえませんか」
「まあ、みえないこともないが、いや、みえるみえる。
 熊田くん、よくやった、これこそ、硫黄山の幽霊の、シッポと骨ですぞ」
「ありがとうございます、会長。
 会長、バンザイ、幽霊バンザイ」
「バンザイ、バンザイ、日本幽霊探索会バンザイ」
「硫黄山バンザイ」
「熊田くんも、バンザイ」
 そこにキタさんがもどってきました。
「トイレのなかまで、聞こえたわよ。
 ほかのお客さんに迷惑じゃないの」
「ほかにだれもいませんが」
 一九さんは茶店内を見回しました。
 運良くこの三人しかおりません。
「そんな気味の悪い声で、バンザイバンザイやってたら、お客さんだって寄りつかないわよ」
「きみは、日本幽霊探索会の会員じゃないから、この感激を共有できないんだ。
 哀れなるかな、哀れなるかな」
「アホらしいから、もう帰りまひょ」
「きみ、帰ってどうするんじゃ」
「もう疲れたから、温泉に入りたいわ」
「キタさん、近くに足湯できるところがありますが」
 と一九さん。
「疲れているのは、足だけじゃないわ。
 うちの心が、いちばん疲れているんよ。
 それに、鼻血がなかなかとまらなかったから、貧血ぎみでもあるし」
(これ以上は無理)
 と判断したヤジさんは、
「熊田くんは、ホテルの車できたんだよね」
「はい、会長」
「かのじょをそれでよろしく」
「あれれ、会長は」
「ぼくは、このまま夕方近くなるまで待って、もう一度硫黄山にのぼってみるよ」
「もしかして、会長」
「そうさ、幽霊が出るのは夕方。
 ぼくは、なんとしてでも、硫黄山の幽霊たちと会話をするつもりだ」
「さすがは、会長」
「まいったか」
「まいりました」
 
         咩      
 
 というわけで、キタさんはホテルにもどると、夕方まで待ってから、硫黄の温泉に入りました。
 ゆうゆうホテルの温泉は、屋内と屋外にひとつずつ風呂があります。
 昨日は屋内の風呂に入ったので、いちおうこんどは屋外の風呂に入りました。
 
「♪いい湯だな
 いい湯だな
 湯気が天井から
 ぽたりと背中に」
 
 いい調子で歌を歌いはじめたキタさんですが、屋外ですから、竹づくりの囲いはあっても、残念ながら天井はありません。
(これが鬼の居ぬ間の洗濯ってものね)
 キタさんはいい気持になってきて、湯舟から首をのばし、竹囲いのはるか向こうにみえる、硫黄山をながめていました。
 夕刻の硫黄山は、不気味にそびえ、煙と霧とがみんないっしょくたになって、それはそれは幻想的な眺めでした。
 キタさんは、しばしうっとりと硫黄山を眺めていましたが、そのうち何者かの影に気づきました。
 煙と霧のはざまにただよう、その影は、あきらかに、こちらに向かってきます。
 
ーふらふら ゆらゆら
ーふらふら ゆらゆら
 
 じっさいは何キロもはなれているはずですが、キタさんには、その影がどんどんどんどん近づき、いまにも、自分のところまでやってくる気がしました。
 いえ、気がしたのではなく、
(かならず自分のところにやってきはる)
 と確信したのです。
 しかも、あれは影なんかではなく、幽霊なのだと。
「ぎゃぎゃぎゃ、ぎゃー、ぎゃー、ぎゃー」
 キタさんは素っ裸で湯舟を飛び出ると、一目散に硫黄の間に駆けこみました。
 ふるえながら着替えをして、障子戸もガラス窓もきっちり閉めると、一九さんがやってきました。
「キタさん、やっぱり出たようですよ。
 幽霊が廊下を飛んでいるのを、ホテルのスタッフが、たしかにみたといっています。
 なぜか、白い裸の、きれいな幽霊だったとのことです。
 きっと女性の幽霊ですから、硫黄山の幽霊ではなく、きっと、清く美しい、
〈原始河川の幽霊〉
 ですね。
 いやあ、ぼくもみたかったなあ」 
(それって、うちのことじゃない)
 けれどもキタさんは、いい出せませんでした。
 しかしなんだか、一九さんが、白い裸の女性の幽霊の正体を知っていそうな感じもしました。
 なぜなら、キタさんは湯上がりなのに、うなじが濡れているのに、浴衣姿ではないからです。
 そのときとつぜん、硫黄の間に、ヤジさんがはいってきました。
 
ーふらふら ゆらゆら
ーふらふら ゆらゆら
 
「いやはや、まいったまいった。
 バスには乗り遅れるし、タクシーはつかまらないし、歩いて帰ってきたけど、バテバテじゃ。
 行きはよいよい、帰りは怖いって、これだな」
(まいったまいった)
 といいたいのは、キタさんでしたが、何もいう気にはなれませんでした。
 
         咩
 
 その日の深夜。
 摩周の間では、ヤジさんと一九さんが、硫黄山で撮った写真の解析をやっています。
 硫黄の間では、キタさんが熟睡しています。
 
ーじじるる じじるる
 
 その音は、はじめ静かに、しだいに強くなってきます。
 
ーじじるる じじるる
 
 そして、また。
 
ーばばりん ばぱりん
 
 その音も混じります。
 熟睡しているはずのキタさんは、何度も寝返りを打ちます。
 だが、その音は、摩周の間には聞こえません。
 こういうとき、こういうときだけ、防音壁は困るのです。
 さすがに、キタさんも目をこすりながら起き出し、枕元のちいさなライトだけをつけました。
 すると、キタさんの目の前に、三体の幽霊がみえました。
(また夢か)
 いままで騒ぎすぎて、恥もかいてきたので、ここは落ち着くところだと、キタさんは静かに蒲団の上に正座しました。
 三体ともたよりない、影か煙かといった姿でしたが、面相はなんとも恐ろしいものでした。
 恐ろしすぎるくらい恐ろしいのですが、なぜかどこか、哀れさが漂っていました。
 もしかすると、哀愁というものかもしれません。
 キタさんには、そうみえました。
 キタさんは、こんどは、
「また夢か」
 と口に出してつぶやき、
「あなたがたは囚人さんですか」
 と、幽霊たちに向かって問いました。
 三体ともうなずきましたが、足元は霞んでいて、鉄の玉はみえませんでした。
「どうしてそんな怖い顔をしているのですか」
 この問いも、キタさんの口から自然にこぼれました。
 一体は髑髏(どくろ)のよう、一体は般若(はんにゃ)のよう、もう一体は赤鬼のようでした。
 みな、だれかを呑みこみたいというふうに、おおきな口を開けていましたが、幽霊たちは、なにもいいませんでした。
 なにも、いえないのかもしれません。
 キタさんは、夢のなかとはいえ、ますます哀れになりました。
 すると、自然に涙がこぼれました。
 それは、キタさんにとって、十年ぶりの涙でした。
 ヤジさんに見られたら、
「鬼の目にも涙か」
 と言われるでしょう。
 幽霊たちは、お互いの顔を見合わせますと、ゆくりなく消えてゆきました。
 あとには、ただ、あの音ばかりが残っていました。
 
ーじじるる じじるる
 
 それもいつか消えると、静寂(せいじゃく)がやってきました。
 キタさんは立ち上がり、障子戸もガラス窓も開けはなちました。
 黄色い月に照らされた、黄色い硫黄山が遠くにみえ、そこに幽霊たちが次々と吸いこまれるのをみました。
 あるいは、みた気がしました。
 頬の涙が冷たいのに気づいたキタさんは、おもわず頬をつねってみました。
「痛い」
 そのとき、
(ああ、夢ではなかったんだ)
 とおもいました。
 キタさんは、このことを、摩周の間のヤジさんに告げに行こうと‚ィもいましたが、おもっただけで実行はしませんでした。
 なんとなく、余韻(よいん)にひたっていたかったからです。
 尤も、それは、東京に帰ってから、そういうことなんだとおもい出したことで、このときは、どうして自分は告げにいかないのか、かいもくわかりませんでした。
 ただただ、不思議な気分でした。
 不思議な気分につつまれたまま、キタさんは早朝まで硫黄山をながめていました。
 ヤジさんには、翌早朝に伝えました。
「そうか、そうか」
 ヤジさんは、じつに感無量の面持ちです。
 鬼の首を取ったふうな感じでもあります。
「はい、みました」
「どんな幽霊だったのか、それは東京に帰ってからゆっくり聞こう」
 キタさんは、
(話したくない)
 とおもいましたが、話さないと、嘘つきと怒鳴られそうでもありました。
 
          咩
 
 約束どおり、ゆうゆうホテルの玄関先に、あのタクシーが待っていました。
 ヤジさんとキタさんが乗り込むと、運転手が、
「いかがでしたか」
 と聞きました。
 ヤジさんはなにも応えず、キタさんが、
「とても楽しかったです」
 といいました。
 おもわずヤジさんは、キタさんの横顔をみてしまいました。
 なにか、憑き物がおちた、というふうな顔にみえました。
「そういえば、ホテルのスタッフが、原始河川のきれいな女幽霊をみたとか。
 ぼくもみたかったなあ」
(だれがみせるもんか)
 キタさんは、口をへの字にしました。
 走り出してから、
「幽霊は、みることができましたか」
 運転手が、さりげなく聞きました。
「はい」
 と、キタさんは、爽やかな声でいいました。
 おもわずヤジさんは、またキタさんの横顔をみてしまいました。
 運転手が、妙な声で笑って、
「もしかして、その幽霊って」
「は」
「もしかして、その幽霊って」
「は」
「もしかして、その幽霊って」
「は」
「こんな顔じゃありませんでしたかー」
 いうなり、運転手が、うしろをふりむきました。
「ぎゃぎゃぎゃ、ぎゃー、ぎゃー、ぎゃー」
 さけんでふるえたヤジさんは、平然としているキタさんの身体に、抱きつきました。
                  
         咩       
 
【主な参考資料(文と画)】
 
○『北海道の歴史』田端宏・他/山川出版社
○『北海道事典』千石涼太郎/北海道新聞社
○『(スーパーマップル)北海道道路地図』昭文社
○『北海道の湿原』辻井達一・橘ヒサ子/(財)前田一歩園財団・北海道大学図書刊行会
○『弟子屈町史』弟子屈町史編さん委員会・編/弟子屈町役場
○『アイヌ伝承ばなし集成』因幡勝雄/北海道出版企画センター
○『原始河川』二日市壮・藤泰人/国書刊行会
○『幽霊学入門』河合祥一郎/新書Šル
○『怪談奇談集』小泉八雲/河出書房新社
○『妖怪萬画』和田京子・編/青幻舎
○『百日紅』杉浦日向子/筑摩書房
○『図説・日本妖怪大全』水木しげる/講談社
○『ぬらりひょんの孫』椎橋寛/集英社
○『お化け屋敷になぜ人は並ぶのか』五味弘文/角川書店
○『3・11を忘れない』東京都教育委員会

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